39.花の名前
シエルは呆然とした。
フィニアンが奪われてしまった大切なもの。それは、彼女の中にある。
特別な力がなければ動くことができない――きっとそれが尽きれば〝本来の姿〟に戻ってしまうのだろう彼女が美しく在り続けるための、新しい心臓として。
それを取り出してほしいのだと、彼女は言う。
望まない生を終わらせるために。
そしてそれを、あるべき場所にきちんと返すために。
どうして、とシエルは思った。
それがあれば、この人は生きることができるのに。
なぜ、それを望むことすらしようとせずに、せっかく得られたものを手放そうとするのだろう。
そんなことを言いながら、どうしてそんなに美しく微笑んでいられるのだろう。
「貴女、屋敷の外に出たことはあるのですか?」
重苦しい沈黙が降りるかと思われたとき、フィンドールが唐突にそう言った。
は? と彼女は目を丸くした。
「あるわけないだろう。この心臓をもらうまで、まともに生きてさえいなかったのだから」
「フム。それにしては物事をよく理解していらっしゃる。人造生命は生まれながらにあらゆる知識を身に着けているといいますが、実際にそれは本当だということですか? それとも、やはりあの部屋で本を読んでお勉強されたのです?」
一体、何を尋ねているのだろうか。
問われている彼女も質問の意図を測りあぐねているようで、露骨に不審そうな顔をする。
「……別に学ぶ必要はなかったよ。大方、ヴェルレーヌの知識を受け継いで生まれでもしたんじゃないか」
「そんなことはありえません。貴女は間違いなく、彼女とはまったく別個の存在です。そもそも人の親子だって、母体の知識を子がそのまま引き継いで産まれるなんてことはないでしょう?」
「何が言いたいのかを言ってくれる?」
どうやら他人に探られることをひどく嫌うらしい彼女は、正直な態度をフィンドールにぶつけた。
その冷ややかな言葉を受け、フィンドールは場違いなほどにっこりと笑ってみせた。
「では結論として。以後、私は貴女のことをヴェロニカさんとお呼びします。よろしいですネ?」
「はあ?」
彼女が頓狂な声を上げるのと同時に、シエルも目をしぱしぱさせる。
しかし、突然そんなことを言い出したフィンドールはあくまで大真面目な様子だった。
「ヴェルレーヌは貴女の名前ではない。であれば、別の相応しい呼び名が必要かと」
そう言われてみれば、確かにそうなのかもしれない。シエルは納得してしまった。
一瞬だけ豆を食った鳩のようになった彼女は、しかし、呼び名云々よりもむしろその名前自体に納得がいかないようだ。
「……そんな花の名がぼくに相応しいとでも?」
「高貴な貴女にぴったりだと思いますヨ。ね、シエルさん」
「え? う、うん」
同意を求められ、シエルはとりあえず頷く。
ヴェロニカ。それはどのような花なのだろう。でも、少なくともその音の響きは彼女によく似合っている、と思えた。
わけがわからないという顔をしている彼女に、フィンドールはおそらく仮面の奥で笑ったまま、彼にとってこれ以上ないほど丁重な口調で述べる。
「ヴェロニカさん。私は貴女に敬服致しました。貴女の存在はあまりにも美しい。ですのでそのような美しい貴女に、美しくない最期は相応しくない、と考えます」
しん、と今度こそ沈黙が降ってきた。
それは予想外の言葉を受けた彼女の思考回路が止まってしまったからであり、シエルも似たようなものだった。
二人の反応をよそに、フィンドールは何かの芝居でも演じるように言葉を続けた。
「――しかし貴女の生い立ちを思えば、そのような哀しき結論に至るのも無理はない。ですので望みを叶えて差し上げることも決してやぶさかではないのですが、こちらからも一つ条件を提示させて頂きのです」
「それは、構わないけど……何?」
若干戸惑いながら応じた彼女は、フィンドールの言動に対してわずかに警戒の色を覗かせている。
シエルにも、この道化師が何を言おうとしているのかわからない。何やら、その口調に妙な熱がこもっている理由も。
フィンドールは胸に手を当て、にこやかに言った。
「一つだけ貴女の願いを言ってください。死ぬこと以外で」
「……何だって?」
彼女は大きく目を見開き、それから懸念を顕に柳眉をひそめた。
「この異常な雪はきっとぼくのせいなんだろう。このままでは町が大変なことになるはずだ。すべてが凍りついてしまう前に、早く何とかしなければいけないんじゃないのか」
「はて。私はこの町のことなど知ったことではありませんからネ」
フィンドールはおどけたように肩を竦めてそう言った。シエルは耳を疑った。
ここにきて、この人は何を言い出すのか。
思わずぐいと袖を引っ張ると、ピエロの仮面がこちらを見てにっこり笑った。
けれど、シエルには何も言わず。
フィンドールはそのまま再び彼女のほうに向き直って、こう言った。
「一目で恋した女性の願い一つも叶えて差し上げられないままその命をこの手にかけることなど、私にはできません」
「ばっ」
彼女は目を剥き、唖然としてから、さすがに耐えかねたように声を荒げた。
「ッ……かじゃないのか!? きみ、ぼくの話を聞いてたか? 死体の継ぎ接ぎ相手に何言ってるんだ」
「あ、わりと本気ですヨ。あとこの際、貴女の自認が女性であっても男性でもあっても関係ありませんのでネ。その上で殺せと仰るのでしたら、その前に一つくらい貴女の願いを叶えて笑顔の喜びを差し上げる、その光栄にこの身を浴す機会を与えて下さってもよいのでは?」
――シエルは、開いた口がふさがらなくなった。
彼女の言う通りだ。この人、一体何を言っているのだろう。
「フィンドールさん」
もはや信じられない気持ちでシエルが再び袖を、それだけでは無視されると思ってその腕を引っ張ると、ようやく「何ですか?」と振り向く。何ですか、じゃない。
フィニアンのことを、この町を、助けてくれるという約束だったのに。
しかし肝心の言葉が何も出てこず、それを言う権利が自分にあるのかもわからず、ただ裏切られたような顔をしているシエルを見て、フィンドールはフッと笑った。
「そんなにご不安でしたら、フィニアンさん本人に意見をお伺いしてみては? 言いたいこともおありでしょうし、一粒あげてもいいですヨ」
手の中で、黒い鳥がコトコトと動く。
そういえば――言われてみると先程からずっと、何か言いたそうにしていた気がする。
当たり前だ。
置いてこようとしたのについてきたのは、彼自身も真実を知りたかったからだろう。そして、その結末を自分の目で見届けたかったに違いない。
言いたいことなんて、たくさんあるに決まっている。
シエルは急いでポケットの底から薬袋を取り出し、最初に教わった通り袋の口をゆるめて、赤い石を手のひらの上に一粒だけ落とした。
「ほらフィニアン、いいよ。フィンドールさんがいいって言ってくれたから」
それを近づけると黒い鳥は少し拒むような仕草をしたが、いいよと言われ、小さなくちばしをそっと近づける。
赤い粒子になった第五元素石がそのくちばしに吸い込まれると、シエルの頬には青年の柔らかな手がふれた。
その不可思議を目の当たりにして声もなく驚いている彼女に、フィニアンは薄青色の目を優しく細めて微笑みかけた。
「はじめまして。話は全部聞いていたから、何も説明はいらないよ」
「……きみは?」
「その永久機関は僕の、大切な人からの預かり物なんだ。本当は今すぐに返してほしい」
フィニアンは自分が誰かは答えず、ただ彼の偽りなき本音としてそう言ってから、「でも」とその目をフィンドールのほうに向けた。
「僕一人ではここにくることもできなかった。だからあなたにお願いしたんだ。やり方も順番もすべて、僕はあなたを信じるよ」
「おや貴方、中々に物分りのよい依頼主ではないですか」
フィンドールは感心したように言ったが、フィニアンは何も言わずに微笑を深めただけだった。
シエルはただ、彼のことが心配でその横顔を見上げていた。
しかし目が合うことはなかった。彼は、彼女のほうをまっすぐに見つめていたからだ。
「ヴェロニカ」
フィニアンが彼女に対して呼びかけたのは、先程フィンドールが彼女に与えたばかりの名前だった。
彼も、〝ヴェルレーヌ〟は彼女に呼びかけるべき名前ではないと考えたのだろう。
だからその新しい仮の名で呼んで、フィニアンは彼女に静かな問いを投げかけた。
「きみは生まれてから今まで、どんな気持ちでいたの?」
「……え?」
彼女はシエルと同じ顔をした。
虚を突かれた、それこそ赤ん坊のようにきょとんとした顔をして、彼女はフィニアンを見る。
フィニアンはさらに静かに――もっと言うなら、街角で見つけた迷子の子供に語りかけるような口調で言った。
「僕はこの町に生まれた人たちをみんな大切に思ってる。だから、きみから奪うことなんて出来ない。ましてやきみはこの町に生まれて、今まで何一つきみが望むものを与えてもらったことがない。……違う?」
シエルは目を瞠った。
ああ、そういうことか、と初めて目の前にいる彼女のことを理解した。
その美しい容貌も、美しいドレスも、何一つとして彼女が欲したものではない。
シエルがこの屋敷に連れてこられて、彼女と何度目かの言葉を交わしたあのときもそうだった。
ヴェルレーヌのものとして彼女に与えられた懐中時計を、彼女は何の未練もなくシエルに与えてくれた。
自分が生まれたことも、歪な形で生かされることも望んでいない彼女には、自分から求めて欲するものなどあるはずがなかったのだ。
「…………」
彼女はフィニアンの言葉を否定せず、しかし肯定もせずに、ふっと笑って問い返した。
「もうすぐ終わる命に下手な希望を持たせたり、今さら人としての幸福を与えようというのは、残酷なことだとは思わない?」
「だから、条件だと言ったではないですか。決して貴女への慈悲などではありませんヨ」
と、フィンドールがまるで手の平を返すようにして言った。
しかし――その声をよく聞いてみると、もしかしたらこの人も、フィニアンと同じようなことを思っているのではないかと感じられた。
フィンドールは相変わらず芝居がかった口調で、こう続けた。
「せめて最期に、貴女に十分な幸福を与えることができた。そうでなければ、貴女という美しい命をただ終わらせることしかできない、その哀しみに私の心がとても耐えられないでしょうからネ」
「……ああ、そう」
本気なのか冗談なのかわからないその言葉に、彼女は呆れたように嘆息した。
喜んでいるようには見えない。その言葉に感動しているようにも。
ただ、それまではきれいな微笑みが仮面のように覆い隠していた、疲れ切ったような表情が少しだけ覗いたように見えた。
「そこまで言われては仕方ないね。何か一つ、考えてみるよ。……時間は?」
「明日、またここに来ます。それまでに」
「わかった。一日も猶予をくれるなんて、これまたご丁寧に残酷なことだ」
半ば恨み言にも聞こえる彼女の言葉を受けて、フィンドールはにっこりと笑った。
「貴女のお話だけで全容を把握できたわけではありません。貴女のことをしっかりと理解するためにも、また貴女の願いを叶えるためにも、私はこれから、あの部屋に遺された伯爵の研究資料を全て拝読させていただかなければなりません。一日というのは貴女に与える猶予ではなく、そのために必要な時間です」
「そういうこと。まあ何でもいいよ、好きにしたら?」
匙を投げるように肩を竦めた彼女は、ふとフィニアンのほうに目を向けた。
それは、フィニアンが彼女のことをじっと見つめていたからだ。
笑っているわけでも、怒っているわけでもない。
どんな顔をすればいいのかわからないような表情で彼女を見つめていたフィニアンは、目が合ってもしばらく、言葉を口にすることを躊躇っていた。
彼女のほうはフィニアンの様子から何か感じ取ったのか、ただ黙って待っている。
フィニアンはそんな彼女に尋ねるというよりも、ぽつりとこぼすように言った。
「三ヶ月前に僕が探していた子と、これまで犠牲になった人たちは……みんな、きみの中にいると思えばいいのかな」
それは、彼女からの回答を求めている口調ではなかった。
決して彼女を責めているわけでもなかった。
ただ、行き場を失ってしまった思いの虚しさだけが響くような言葉だった。
彼女は一瞬だけ目を瞠り、わずかに怯んだように視線を逸らした。
「……そんなことはぼくにきかれてもわからない。こんなところには、いないほうがいいと思うけれど」
「そうだよね」
フィニアンは薄く笑い、ゆるゆると頭を振った。
睫毛を伏せて深く物思いしているその横顔に、シエルは思わず息を詰めた。
ああ。
こんなとき、どんな言葉をかけてあげたらいいのだろう。
彼女が悪いわけではない。彼女が罪を犯したわけではない。フィニアンもそう思っているはずだ。けれど、だからといって全てを赦し、受け入れることができるわけではない。
自分の手がだんだんと薄く消えてゆくのを眺めながら、フィニアンは悲しげに微笑したまま呟いた。
「やっぱり、何を言えばいいかわからないや」




