2. 薄青色の花
気をつけないと踏み外してしまいそうな狭い階段を下りて重い扉を押し開けると、教会の中庭を囲む大回廊の、そこにあると知らなければ決して気づかない、隠された一角に出る。
シエルは埃まみれになってしまったスカートの裾を両手で叩き、すぐそばの大きな柱に隠れて注意深く辺りの様子を窺った。
教会の敷地内でシエルが自由に移動できる場所は限られている。子供たちが生活しているのは昔の修道院だったという古い建物で、大回廊から東に抜けた先にある。そこに与えられている自分の部屋と、途中にある薬草園と野菜畑と――みんながお祈りに行っている間だけ誰もいなくなる、この中庭。
別に制限されているわけではない。ただ、自分の姿が人目にふれることを恐れているだけだ。
お祈りの時間はもうすぐ終わる。幸い近くを歩いている人影はなく、シエルはひとまずほっとしながら頭巾を深く引き下ろし、今のうちに自分の部屋に戻ろうとした。そのときだった。
「シエル」
呼び声に振り返る。いつからそこにいたのだろう。
誰もいないと思っていた回廊の陰から、カラスのような黒い影が現れた。
「珍しいね。何してるの、こんなところで」
「フィニアン」
驚くシエルの顔を見て、青年はいつも変わらない澄んだ微笑みを浮かべてみせた。
シエルは彼の正確な年齢を知らない。おそらく十七、八歳くらいだと思うけれど、この国ではきわめて珍しい黒髪に、雪のような白い頬。それだけでも国中の女の子が憧れる特別製の陶人形のようなのに、何より際立っているのはその目の色だろう。
まるで凍てついた冬空のような、嘘みたいに透き通った薄青色の目。
エルフィリア・ブルー。
美しいガラス絵の天使様と同じ色の目をした青年は、にこにことしてこちらに近づいてくる。シエルはそこではっと我に返り、慌てて二、三歩後ずさった。
外からの光を遮る大きな窓枠の影の内へ、自分の姿を隠すように。
「ご……ごめんなさい、あの、わたし」
「? どうして僕に謝るの?」
あたふたしながら口をついて出た謝罪の言葉に、フィニアンは薄青色の目を少し広げてきょとんとした。それからすぐに「ああ」と得心がいった様子で苦笑する。
「謝るなら神父様に謝ったほうがいいんじゃないかな。お祈りに行かないことはともかく、勝手にそこの隠し部屋に出入りしてることとか」
「えっ」
「どうして知ってるのかっていうとね、さっき向こうでアルドに会ったから。あの子本当に正直だよね」
そう言って、悪戯っぽく笑う。
からかうような口調ではあるけれど、その口調には不思議と人を安心させる風韻のようなものがある。やわらかくて、耳に心地いい響き。決して叱られているわけではないのだが、シエルはこちらを見つめる青い眼差しから目をそらし、悪戯を見咎められた子供のようにうつむいた。
「あの扉、中から開かなくなることがあるからね。あと大きなネズミも出るから気をつけないと危ないよ」
フィニアンはそう言いながら近づいてきて、「おいで」とシエルの手を引いた。
その足は回廊の吹き抜けから中庭のほうに向いていた。抗う理由もなかったので、シエルは手を引かれるまま彼に連れられてゆく。
「今から百年くらい前の話なんだけど」
天井のアーチの下から一歩出ると、降り注ぐ光が目を洗うほどまぶしい。
石畳の歩道が敷かれた芝生の中庭は人々の憩いの場で、陽のあたらない隅のほうには冬の間に積もった雪がまだ少しだけ残っている。ひんやりと冷たい朝の風に吹かれながら、フィニアンは聞き心地のよい音程で話し始めた。
「昔、この町で疫病が流行したことがあったんだ。たくさんの人が死んで、町の人たちはそれを冬の魔女の呪いがよみがえったせいだと考えた。そこで当時の領主様は自分の私財を投じて、古くて小さかったこの教会をきれいに建て直すことにした。人々を救済するには、天使様の加護にすがるしかないと思ったから」
中庭の真ん中にはシエルの背丈よりも大きな白灰色の石像が立っていて、シエルはじっとそれを見た。背中に美しい翼。両手を組み合わせて天を仰ぐ美しい女性。教会の敷地内にはそこかしこに天使様の像があり、そのどれも姿かたちが微妙に違う。中庭で祈るこの天使様は昔、一人の修道士が自分の夢に現れた天使様の姿を十年もかけて彫り上げたものなのだという。
そうした古い物語のような話を、この青年はいつも好んでシエルに語り聞かせてくれる。
「……元の教会は壊してしまったの?」
「そうだね。けど、なくなってしまった今だから惜しく思うのかもしれない。その当時の人にとっては、もっときれいにしなきゃと思うくらいに古くて小さい教会だったんだろうから。それに、古い建物を壊してより立派にすることで新たに生まれる信仰心もあるんだ。国中から石工やガラス職人を呼び集めて、完成まで何十年もかかったけれど、その間は再び疫病が流行ることもなかったし、美しいガラス絵の天使様の評判はたちまち遠い町にまで広まって、新しい教会にはそれまでよりも多くの人が巡礼にやってくるようになったんだよ」
ここからは青い屋根に尖塔をそなえた聖堂を見上げることもでき、その向こうにはどこまでも晴れ渡った空が広がっている。フィニアンはちらと振り向いてさりげなくシエルに歩調を合わせつつ、聖堂のほうに目を向けた。少し、まぶしそうに。
「そうしてこの町にはたくさんの人々が集まるようになって、教会の建物も少しずつ大きくなっていった。最後に建て直されたのが……というか今の聖堂が完成したのが百年前のそのときで、今ではみんな、聖エルフィーヌ教会って聞いたらそのとき新しく作られたあのガラス絵の天使様と立派な建物を思い浮かべるようになったんだ。誰よりもその完成を心待ちにしていた領主様は残念ながら建築途中で死んでしまったんだけど、町の人は今でも彼を尊敬しているよ」
「ふうん……」
「で、あの小部屋はね。その領主様が自分のために造らせた部屋なんだって」
「領主様が?」
シエルが問い返すと、フィニアンは「そうだよ」と答える。
「誰にも会わずにミサに与ることができるように。領主様みたいに身分ある人は町のみんなと同じ場所でお祈りできないから、そういう場所が必要だったんだって。実際は誰にも使われることがなくて、入り口の場所も、そんな小部屋があることもずっと忘れられていたんだけどね」
シエルはフィニアンの横顔を見上げた。
不思議な人だ。
物事にはたくさんの見方があって、一つの出来事に対しても色んな解釈があることをシエルは知っている。なのに何事も、この人の言うことが真実だと思わせるようなところがこの青年にはあった。
「フィニアンは何でも知ってるのね」
シエルが言うと、言われたフィニアンは苦笑した。
「知ってることを話しているだけだからだよ。僕が知ってるのは本で読んだり、神父様に教わったことだけ」
この人は神父様のような聖職者ではないらしい。普段は主に教会の孤児院で子供たちの世話をするシスターの手伝いをしており、時々町に出かけている様子もある。ここにいるということはもともと孤児だったのかもしれないけれど、シエルはそのあたりの事情について何も知らない。
あたたかな陽射しの中、心地よい風が吹いている。
一ヶ月前に自分を助けてくれたのがほかでもないこの青年であったことをシエルが知ったのは、つい最近だ。凍死寸前だったシエルを見つけて教会に連れ帰り、目が覚めるまでの間ずっと世話をしてくれていたらしい。
「そうだ。せっかくだし、もっといい場所を教えてあげようか」
薄青色の目が朝日を受けてきらりと光る。何か素敵なことを思いついたらしい。唐突な提案を受け、シエルは首を傾げた。
「いい場所?」
「こっちだよ。ついておいで」
手を引かれるまま中庭を出て建物の外側に回ると、辺りには古い石壁やアーチ型の構造物、苔むした石畳がところどころに残されている。
行き先は孤児院の方角――ではなく、何もないはずの聖堂北側。
どうやらそこがフィニアンの言う〝とっておきの場所〟らしかった。
ここを登るの? とシエルはたじろいだ。
「足元に気をつけて。躓かないようにね」
頭上から淡い光が差し込んでいる。
建物の内壁に沿ってずいぶん高いところまで続く、目が回りそうな螺旋階段。採光のために切られた四角い窓から陽光は直線的に差し込み、内部の空間で白い光の帯が交差している。スカートの裾を踏んでしまわないよう、ゆっくりと慎重に階段を上り詰めたシエルは、そこが聖堂の尖塔のてっぺんであることを知って驚いた。
町で一番高い場所に建つ教会の、一番高い場所だ。
「わっ…………」
と、思わず感嘆の声を上げてしまった。
眼下には、見たことのない町並みが広がっていた。
石造りの城壁に囲まれている、美しい灰色の町。
町の中央にはどこから見ても目印にできるくらい大きな時計塔がそびえ立っており、ひしめきあう建物はここからだとおもちゃのように小さく見える。一日五回、朝八時から二時間ごとに時刻を知らせてくれる鐘の音はきっとあの塔から鳴り響いていたのだろう。上から見ると建物と建物の間に張り巡らされた細い小路がまるで蜘蛛の巣のように入り組んで、知らずに歩けば迷子になってしまいそうだ。町の外には豊かな実りの穂をつける麦畑と果樹園がどこまでも広がっているのが見え、キラキラと光る雪解けの川の流れがある。さらにその先には――
「ほら、あれが」
フィニアンはその方角を指さした。
空は澄みきって遮るもの一つなく、見渡す限りの風景の中、目の前に迫りくるようなその威容に息を飲む。
レターニア山。
雲より高い頂上部は永久にとけない雪に覆われて、その巨大な山体はふもとにあるセレームの町に覆いかぶさろうとするように大きくせり出し、命なき無間凍土から吹きつける極寒の風から町を守るためにそそり立つ壁のようにも見える。
「――あれが禁忌の山。町の中からはあまり見えないようになっているんだ。窓の向きや建物をそういうふうに建てているから」
「すごい。きれい……」
そう口にしたシエルの反応に、フィニアンは少し意外そうな顔をした。
風が強い。頭巾を飛ばされてしまわないよう、シエルは両手でしっかりと押さえた。
それにしてもなんて素晴らしい眺めだろう。しばらく飽きることなく景色を眺めていたシエルだったが、ふと頭に疑問が浮かんだ。
「あれ。でも、禁忌の山なのに……見てもいいの?」
「罰があたるから見てはいけないというのはずっと昔の話だよ。昔の人々は冬の魔女を恐れていたからね」
そう答えたフィニアンは、レターニア山がそびえる北の方角に顔を向ける。
「けれど、冬の魔女は今もあの山で眠りについている。その眠りを妨げないよう、人々はみだりにあの山へ足を踏み入れてはいけない。二度と同じ過ちを繰り返すことがないように」
「…………」
「ところでシエル、これは神父様が今夜みんなに話すことなんだけど」
ひときわ強い風が吹いた。
今まで外の美しい景色を映していた目が、シエルのほうに向けられた。
「もうすぐ、あの山の裾野に青い花が咲くんだよ」
「青い花って……」
「そう。天使様の物語に出てくるエルフィリアの青い花」
「えっ……本当にあるの?」
シエルは驚いた。そうだよ、とフィニアンは笑った。
「七年に一度だけ、聖エルフィーヌの祝日に咲く不思議な花でね。毎年その日は青く染めた布か紙で作ったエルフィリアのリースを家に飾って天使様への感謝を伝える日なんだけど、今年は特別。昔から、エルフィリアの花が咲くとセレームの町に天使様が帰ってくるといわれていて…」
王国で定められた聖エルフィーヌの祝日は八日後だが、この時期になると教会にはたくさんの人がはるばる巡礼にやってくるのだという。
「まず、無事に花が咲くように祝日の七日前からみんなで毎日お祈りをするんだ。そして七日後に教会の子供たちみんなでレターニア山のふもとへエルフィリアの花をとりに行って、特別な花冠をつくる。その花冠をかぶった子が今年の天使様になって、町の人たちに青い花の祝福を与えてくれるんだよ」
それが、七年に一度の特別な祝祭なのだという。
「へえ……」
「もちろんシエル、きみも一緒にね」
思いがけないことを言われて、シエルは言葉を失った。
ここは王国の一番北に位置する辺境の町。しかし七年に一度の祝祭の年は特別なので、巡礼の人々だけでなく行商隊や旅芸人の一座、王都の貴族まで見物にまでやってくるそうだ。天使様の花が咲く七年に一度だけ、セレームの町はとても賑やかになるらしい。
フィニアンはやさしく微笑したまま、まるですべてを見透かしているみたいに、薄青色の澄み切った眼差しでシエルを見つめていた。
「こわい?」
「……うん」
「だいじょうぶだよ。最近はアルドとも仲良しみたいだし、神父様と僕もいる。きみが怖がることなんて何もない」
お祈りの時間はもうすぐ終わる。
やがて下からお祈りを終えた子供たちのはしゃぐ声が聞こえてくることだろう。聖エルフィーヌは子供たちを守ってくれる天使様。だから教会には、いつも子供たちの笑い声が絶えないのだ。
教会の子供たちはまだ幼いから、特別な祝祭を迎えるのはきっとみんな初めてのことだろう。
レターニア山の青い花冠をかぶった小さな子供の天使様が、町の人たちに青い花を分け与える。まるでガラス絵の天使様の再現のようだ。
シエルには、自分がみんなと一緒にその場面の中にいる姿を想像することが難しい。
――にゃあ。
そのとき突然、シエルの右足にやわらかい感触が絡みついてきた。
「ひゃっ!」
驚いて振り向くと、足元にはクリーム色の毛並みをした大きな猫がいた。猫はぴんと人懐っこく尻尾を立てて、ゴロゴロ喉を鳴らしながらシエルの足に身体をこすりつけてくる。
「け、ケルシー」
素っ頓狂な声で名前を呼ばれ、にゃあ、と愛想よく返事をする猫。
教会に住みついている馴染みの猫だ。いつも中庭あたりにいるのだが、気づかないうちについてきてしまったらしい。
「やあ久しぶり。ケルシー、このごろ僕の前にはぜんぜん出てきてくれなかったよね」
フィニアンは親しげに言ってその場にしゃがむと、ケルシーの背中に手を伸ばそうとした。
しかしケルシーはその手をするりとかわし、シエルのほうに甘えてくる。背中や頭、あご。一生懸命にすりつけてくるところを手で撫でてあげると、ケルシーは気持ちよさそうに目を細めた。
「ずいぶん懐かれてるんだね」
「そ、そうかな」
「きっと動物にもわかるんだよ。きみは怖くなんかないって」
猫を間に挟んで二人、お互いにしゃがんでいると目線の高さが同じになる。撫でようとした手をかわされてしまったフィニアンは少し残念そうにしつつも、それ以上は無理にふれようとしなかった。シエルが顔を上げると、いつもは見上げている相手の顔がすぐ目の前にあった。
「実はこの子、ラセルにしか懐いてないんだ。僕もまださわらせてもらえたことがなくて」
「そうなの?」
「うん。というか僕、猫にも犬にもあまり好かれないから。うらやましいな」
「フィニアン、いい人なのに」
「ありがとう」
シエルが言うと、フィ二アンは嬉しそうに笑った。
本当にきれいな人だな、と思う。
あまりに整いすぎた白皙の容貌は無機質で冷たい印象を与えそうなものなのに、冬の空と同じ冷たい色であるはずの青い目さえ、その眼差しはいつも穏やかであたたかい。
「僕も最初に見たときから、きみの目は星空みたいできれいだと思ったよ。それは世界できみだけの特別なもので、きっと出会った人に幸運を与えてくれる。だから下を向いてばかりいないで、笑っていればだいじょうぶ。きみは何も怖がらなくていい。そうしたら、誰もきみを怖がったりなんかしないよ」
まるで絵本の物語を読み聞かせるように言いながら、フィニアンは同意を求めてケルシーのほうを見る。
「きみもそう思うよね、ケルシー」
にゃあ。
と、ケルシーは返事をした。ふさふさの尻尾が左右に揺れる。
シエルはそれを見て思わず小さく笑ってしまった。フィニアンが言うとその言葉がすべて本当のことのように思え、冷たい氷をとかすように胸の奥があたたかくなるのが不思議だ。
シエルはもう一度レターニア山に目を向けた。山の裾野を覆うように咲くという天使様の青い花。きっと、ここからなら見えるだろう。
でもフィニアンの言葉通りなら、そのときは自分もみんなと一緒にあの山のふもとへ行くのだという。まだ教会の外に出たこともないのに。
それにあんな遠いところ――どうやって行くのだろうか。
「ねえ、フィニアン」
「何?」
「あそこまで、みんな歩いていくの?」
シエルが尋ねると、フィニアンは立てた人差し指を口元に当てた。
それは秘密、ということらしい。
「祝祭の日になればわかるよ。その日は、天使様の奇跡が起きる日だから」
フィニアンはそう言った。
その言葉には不思議な余韻があり、秘密めいた彼の表情と共に、シエルの頭の中にいつまでも残り続けた。




