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星のアンブロシア  作者: 榑井タキ
第一章 天使様の教会
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1. 白髪の少女

「…………私たちは忘れてはいけません。かの聖女が起こした奇跡と、その大いなる犠牲を」


 冷えた石壁の向こう側から声が聞こえる。

 あたたかくて深みのある、おだやかな神父様の声。


「数百年の昔、北のレターニア山には恐ろしい冬の魔女が棲んでいました。かつて小さな村であったセレームは魔女の呪いを受け、永遠にとけることのない雪と氷に閉じこめられていたのです」


 ちらちらと向こう側の光がもれる古い石壁の隙間に耳を寄せ、彼女はじっと息をひそめていた。頭上の小窓から差しこむ清らかな朝の光が一筋の白い帯になり、床の石材の継ぎ目と、外から入りこんだ蔦植物の花を暗がりの中に浮かび上がらせているこの小部屋は、しばらく前に彼女が見つけた秘密の場所だ。


「村に降る雪は死の病を。氷は飢餓をもたらしました。凍った畑に作物は実らず、罪なき子供や老人はみな病魔にとらわれ、人々は嘆きました。すべては七人の無垢な子供たちが禁忌を犯して山に立ち入り、魔女の特別な氷の花を村に持ち帰ってしまったことが原因でした」


 壁に隔てられた向こう側――教会の聖堂には今日、町中の子供たちが集まっている。小さな美術品のように装飾された聖書を手にして語る神父様の声に、皆が敬虔な面持ちで耳を傾けていることだろう。今日は、子供たちのためにある祈りの日だから。


「はじめは氷の花を魔女に返せばよいと考えた子供たちでしたが、持ち帰った氷の花は既にとけてなくなっていました。七人の子供たちは取り返しのつかないことをしたと知り、大人たちにすべてを打ち明け、自ら犯してしまった罪の償いのために魔女のもとへ行くと言いました」


 ――『七枚の花びらと七人の子供』。

 冬の魔女が棲むレターニア山に生える草木は魔女の呪いの力でみんな氷になってしまう。氷の森の中には魔女が作った氷の花が咲いていて、大人たちに内緒で冒険に出かけた子供たちはその美しさに魅せられ、青く透明な花びらが七枚ある氷の花を一輪だけ持ち帰ってしまうのだ。

 山のものは魔女のもの。たとえ氷のほんの一欠片でも、そこには魔女の呪いがこめられている。氷の花を盗まれた魔女は、その報いとして村に冬の呪いをかけた。呪いをといてもらうにはきっと失われてしまった花を元通りに返さなければいけないけれど、七枚の花びらはもう跡形もなくなってしまっていたからどうすることもできなくて、子供たちは七日七晩に一人ずつ、年長の者から順番に山を登っていったのだ。


「疲れ果てていた大人たちはその姿に胸を打たれ、罪深く憐れな子供たちの無事を神に祈りました。そして祈りは神に届き、いよいよ最後に残った七人目の子供が山へ向かおうとしていたそのとき、一人の女が村にやってきたのです」


 女は村人たちに問いかけた。どうしてその子を山へ行かせようとするのかと。

 村人たちはこの子が罪を犯したのだと答える。罪を犯したら、犯したぶんだけ償わねばならないのだと。けれど女は言う。七枚の花びらを合わせていてもそれは一輪の花であり、その損失を七人の命であがなおうというのでは罪秤の重さがつりあわない。

 ではどうすればよいのかと村人たちに問われた女は、清らかな声で答えた。

 わたしが代わりにまいりましょう、と。


「村人たちは驚きました。女の背には金色の光輝を放つ美しい翼があり、レターニア山に向かって飛び立ったのです」


 冬の魔女は女の来訪を喜んで迎え、こう言った。その金色の光をくれるならば六人の子供たちを両親のもとへ返してやり、村にかけた呪いをといてやってもよいだろう。女はすすんで魔女の求めに応じ、迷うことなくその身を山の一番深い谷に投げ入れた。

 すると、たちまち奇跡が起こった。


「その金色の光はレターニア山を包みこみ、まばゆいほどに輝きました。永久に降り続くと思われた雪は止み、氷は見る間にとけてゆるやかな川の流れを作り出し、凍てついた大地には次々に芽吹く草木の縁が広がってゆき、レターニア山の裾野には、七枚の花びらを持つ青き花が一面を覆うように咲きました。……長き冬の呪いはとけ、村に再び春が巡ってくるようになったのです」


 それはこの町に生まれ育った子供たちが幼い頃から語り聞かされる物語。

 村にやってきた女は人々の祈りを聞き届けた天使様で、魔女は「この山に春を与えてくれるなら」と言ったのだ。春の光に包まれた冬の魔女は安らかな眠りにつき、使命を果たした天使様の魂は神様の慈悲によって再び空に還った。氷漬けになっていた六人の子供たちはその目で見てきた光景を大人たちに伝え、七人目の子供は天使様がその身をなげうって村を救ってくれたのだということを六人の子供たちに伝えた。そして子供たちは春の奇跡をもたらした天使様への感謝と贖罪の祈りをいつまでも忘れぬよう、天使様が翼を広げて飛び立った丘の上に小さな教会を建てたという。

 いつかまた天使様がこの地を訪れたとき、この地で翼を休めることができるようにと。


「こんなところにいたのかよシエル」

「わっ……!」


 シエルは思わず大声で叫んでしまいそうになり、自分の口を両手でふさいだ。ここで大きな声など出したら壁の向こうまで響いてしまうに違いない。しかし彼のほうは何もシエルを脅かそうとしたわけではなかったようで、逆に慌てて声をひそめた。

「しい。静かにしろよ、こっちはこそっと抜け出してきてんだぜ」

 と言いつつ床下のハシゴ階段を登って小部屋の中に上がりこんできたのは、見知った少年だった。目立つ赤毛頭に、教会の子供たちが着るお揃いの服。「アルド」という彼の名前をシエルは知っているが、その彼がどうして今ここにいるのかわからない。だってこの場所は、誰も知らない秘密の場所であるはずだったのに。


「アルド、どうして」

「? なんだその顔。さてはお前、この場所知ってんの自分だけだと思ってただろ」


 図星をつかれたシエルはこくこくと頷いた。するとアルドはなぜか得意げにフンと鼻を鳴らし、埃まみれの床の上にどっかりと腰を下ろして、いかにも年長者ぶった腕組みしてみせた。しかしどんなに大人びていても見た目はシエルより幼く、歳はまだ九つらしい。


「知らないんだろうから教えてやるけど、ここ本当は入っちゃだめなんだからな」

「ご、ごめんなさい」


 忠告をくれるアルドに、シエルは謝る。かと思えば彼は急にぐいと体を寄せてきて、「どうやって見つけたんだよ。誰かに訊いたのか?」と好奇心旺盛な茶色の目で遠慮なくシエルの顔を覗きこんできた。


「ええと……ケルシーが教えてくれて」

「はあ? 猫じゃん。猫がしゃべったりするもんか」

「そうじゃなくて、ケルシーがここの入り口のところで鳴いてたから、何かあるのかと思って。そしたら」

「ふうん」

「……もしかして、みんな知ってるの?」


 額と額がくっつきそうな距離の近さに戸惑いつつ小声で問いかけると、アルドはそこでようやく適切な位置に座り直し――ひとつ咳払いをして、自分の声の大きさに十分気をつけながら答えた。


「みんなは知らねえよ。たぶん」

「でも、入っちゃいけない決まりがあるんでしょう?」

「そりゃあ……勝手にここに入って、階段下りるときにお尻がつっかえちまって身動きとれなくなって、二日くらい閉じこめられたやつがいて、大騒ぎになったから」

「それって、アルドが?」

「お、おれじゃねえよ。おれがそんなヘマするかよ」


 うっかり墓穴を掘ったアルドは早口でまくしたてるようにそう言ってからそっぽを向いた。表情がくるくる変わって忙しく、よく喋る少年だけれど、嘘やごまかしはあまり得意ではないらしい。シエルはつい笑ってしまった。

 耳を澄ますと、壁の向こうから聖歌の荘厳な響きが聞こえる。それは天使様に捧げられる子供たちの歌声だ。


「アルドは行かなくてよかったの」


 そして今なぜだかシエルの目の前にいる少年は、いぶかるシエルに対して特に悪びれたふうもなく平然と答えた。


「お前だってここにいるじゃん」


 わたしは、とシエルは何か言おうとしたが、口をつぐんだ。言いかけたくせに結局黙っていると、しびれを切らしたようにアルドが言った。


「今日はお祈りの日だからみんな行かなきゃだめなんだぞ。おれに行けっていうなら、お前もちゃんと聖堂に行けよ」

「でも、わたし」

「町のガキどもだってみんなくるんだ。こんなとこに隠れてこっそり盗み聞きするくらいなら、お前も行って一緒にお祈りしてくればいいだろ。神父様だってきっと喜ぶぜ?」


 少年の目はまっすぐにシエルの目を見つめてくる。無垢な茶色の瞳に映っているのは、この薄暗い小部屋の中で、顔の半分が陰になるほど深く頭巾をかぶった少女の姿だった。


 指先にほのかな桃色をかざす小さな爪や血の色を薄く透かしたくちびる以外、不気味に青ざめたような白い肌。頭巾の中から胸元に垂れる長くて不揃いな髪の毛も白い。それも決して美しい純白ではない。まるで古くなった麻糸か、老女と見間違うようなみすぼらしい白髪だ。

 それから――まるで夜空の星々を盗んで閉じこめたように、鈍く瞬く無数の小さな光がちりばめられた、ガラス玉みたいな奇妙な両目。

 気味が悪い、とシエルは思う。

 しかしアルドはそんなシエルを前にして、欠けた前歯を自慢するようにニカッと笑った。


「な、今からでも一緒に行こうぜ。お前まだ聖堂のガラス絵も見たことないんだろ? ここにいたって見えないけど、聖堂の中に入るとすげえんだ。光に色がついてて、特に青い色がさ、なんとかブルーっていうめちゃくちゃきれいな色でさ。この町のみんなの自慢なんだぜ。お前も見てみたいだろ」

「う、うん」


 シエルはその笑顔に押されるようにしてうなずいた。しかし思わずうなずいてしまっただけで、本当に「今からでも一緒に」行く意志があるわけではなかったので、それを見て取ったらしいアルドは露骨に不満げな顔をする。けれどその不満はシエルに向けられたものではない。では、誰に向けたものなのか。


「お前さあ。悪いことしたわけでもないのにこんなとこに隠れて閉じこもってんの、自分で変だって思わないのかよ?」

「変だよね……」

「っていうか、おかしいだろ。我が身のように隣人を愛せっていうのが天使様の教えなのに、少しばかり見た目が珍しいからって怖がったりして仲間外れにするなんてさ」


 ここにはいない誰かに対して怒ったように言うアルドにどう答えればいいのかわからず、シエルはぎこちなく微笑した。

 怖いものを怖いと思うのは仕方がないことだと思う。

 ただ、いくら言葉を尽くしてその理由を説明しても、彼は「わからない」と言うだろう。

 誰に禁じられたわけでもない。行きたいのなら行けばいい。それは悪いことではないし、お祈りの日に教会へ行くのはいいことなのだから。その理屈は実に単純明快で、それがアルド少年の性格であることをシエルは知っていた。しかしシエルは、自分の姿が他人の目にどう映るのかも知っている。


 長く伸びた白髪に青ざめた肌。そしてこの、暗闇の中でもぼうと光って見える星色の目。

 こんな目を持つ生き物をシエルは知らない。もしいるとしたらそれは、物語の中に登場する精霊や妖精――あるいは、恐ろしい怪物なのだ。

 罪のない人々をむやみに怖がらせたくはない。それが子供たちならなおのこと。何よりもシエルは、自分を怖がる人々の顔を見ることが恐ろしく、耐え難いのだった。


「相変わらず暗いなお前。臆病なやつらが勝手に怖がってるだけなんだから、お前はなんも気にしないで堂々としてればいいだろ」

「ありがとうアルド」


 シエルがそっと笑い返すと、アルドは「よせよ」と照れたように鼻をこすった。そして何を思い出したのか、急に慌ただしく立ち上がる。


「じゃ、じゃあおれ、忙しいからもう行くぜ。お前もいつまでも引きこもってないで、さっさと出てくるんだぞ」

「うん」


 シエルがうなずくと、アルドはちょうどウサギが巣穴に飛びこむような印象の身振りで床下に続く狭いハシゴ階段を下りていった。みんなが聖堂に集まっているこの時間に一体何が忙しいのかはわからないが、今からでもみんなのところに戻るつもりなのだろうか。

 本当はわかっている。

 アルドはお祈りが嫌で抜け出してきたわけではなく、ただシエルを心配して探しにきてくれたのだということ。……秘密の小部屋の存在が自分だけの秘密でなかったことは、ちょっぴり残念だけれど。


 再び一人きりになったシエルの胸元で、ちゃり、と金属の鎖がこすれる音がした。

 首から下げて服の中にしまいこんでいるそれは、シエルの大切なお守りだ。シエルのような子供が身に着けるにはいささか以上に不釣り合いな――金の懐中時計。

 鎖をつまんで引っ張り出し、シエルはそのずしりと重く硬い金属の質感と温度を手のひらの上で確かめる。花模様の精巧な彫金細工が施された蓋を開けると、淡い七色の貝殻に数字を刻んだ美しい文字盤が現れる。しかし時計の針は時を止めたまま動かない。シエルにはよくわからないが、中の機械《キカイ》というものが壊れてしまっているらしい。

 それでも、肌身離さず大切に持っているようにと言われた。しかし決して誰にも見せてはいけないと。


 ここにはシエルのほかにもたくさんの子供たちがいる。けれど、シエルのように高価な物を持っている子はいない。なぜならみんな――家族を亡くし、あるいは家族に捨てられて、身寄りをなくした子供たち。時計どころか、彼らはその日食べるパンさえ持たずにこの教会へやってきた。

 シエルは懐中時計を見つめ、そっと目を閉じた。

 アルドには言わなかったけれど、本当は一度だけ、見たことがあるのだ。

 

 ――誰にも内緒だよ。


 そう言って真夜中にシエルを部屋から連れ出して、扉を開け、聖堂の中を見せてくれた人がいる。

 真っ暗なはずの聖堂内部は明かり取り(クリアストーリー)のステンドグラスを透過する月の光に満たされて、たくさんの長椅子を並べた身廊の通路が魔法のように明るく照らし出されていた。


 ――こんなに明るいのは、きっときみを歓迎してくれているからだね。

 ――勝手に入ったのに……?

 ――ううん。これは、天使様のお導きなんだよ。


 彼はそう言うと、シエルを一番奥のステンドグラスの下へと導いた。

 ひときわ深い暗闇の中、見上げるほど大きな窓枠いっぱいに、静謐の青い光がたたえられていた。シエルはまばたきするのも忘れてそれに見入った。

 天使様の物語を描いた、この世で最も美しいといわれるガラス絵。

 跪いて祈りを捧げる人々に祝福の青い花を授ける、少女のように可憐な聖女エルフィーヌ。

 そこだけがまるで夜とは思えぬほど明るく澄んだ青い光に包まれて、その姿は迷い子を導くしるべのように神々しく浮かび上がっていた。


 ――これがエルフィリア・ブルー。天使様に愛された青、っていうんだ。


 もしかしたらあの光景はシエルの見た夢であったのかもしれない。最初のころの記憶はまるで夢のように曖昧で、正直なところあまりよく覚えていない。

 一か月前の冬の夜、シエルと名付けられた少女はこの教会で目を覚ました。

 聖エルフィーヌ教会。

 ここは天涯孤独の子供たちのためにある、天使様の教会だ。


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