36.汚泥の底
――――――
――――
…………
初めてこの目を開けたのがいつのことだったかは思い出せない。
たくさんの景色を見た。たくさんの人を見た。ただ、それらはどれもこの目でただ〝視て〟いただけで、通り過ぎた場所を、流れ行く時間を、ただただ刻み続けた記録の累積にすぎない。
まるで時計の針のように規則的に機械的に集積されていくそれらの記録を保持し、時には死した主人と共に永久的な眠りについて、時には新しい主人に命じられるまま付き従って――わたしの躯はそうしてわたしの意思にかかわらず、きっと世界中を巡り巡って、長い長い旅をしてきたのだろう。
その中に彼の故郷があったのかもしれないし、今となっては彼しか知らないあの歌を聞いたことがあったのかもしれない。
どれほどの時を遡ればその光景にたどりつけるのかはわからない。朽ちることを知らないこの躯が、長い眠りと新しい旅を繰り返しながら刻み続けてきた時間はあまりに膨大すぎて、それはもはや記憶を手繰る指先すら届かなくなってしまった遠い過去の古い断片でしかない。
それからいくつもの時を経て、あの新しい主人に呼び起こされて何度目かの眠りから醒めたのは、つい最近のことだった気がする。
一年? 二年? 正確にはわからないけれど、でも、それくらい最近のはずだ。
おそらくそのときはまだわたしの中にはっきりとした意識がなかったから、記憶の大部分は夢のようにおぼろげなものの、この屋敷に連れてこられたことは思い出せる。
あの、白い男に連れられて。
最愛の人を亡くしたことですっかり心が壊れてしまったのだという、ひどく痩せ衰えた伯爵のもとへ。
「シエルさん」
呼びかけられたことで、過去に逆行していた時間の流れが現実へと引き戻された。
ハッと我に返ると目の前に笑うピエロの仮面があり、フィンドールは正面に跪いてシエルの顔を覗きこむように見ていた。
視線が合うのを待っていたのだろう。彼はにっこりと笑って言った。
「ゆめゆめお忘れなく。たとえ何を思い出そうと、以前の主人が誰であろうと、今の貴女は私のものなのですからネ」
「…………」
「返事は?」
「は、はい」
「よろしい」
まだ半ば忘我状態にあったシエルが言われるままに頷くと、いかにも大仰に頷き返して立ち上がる。
それから部屋の扉を開けるのかと思ったが、フィンドールはヴェルレーヌのほうを見て、それからシエルに指示をした。
「扉は貴女の手で、とのことです。どうぞ開けて下さい」
「……うん」
シエルはただ、その指示に従う。
この部屋のことは何も覚えていない。というより、知らない。わたしはここに一度も入ったことがないのだろう。
ヴェルレーヌは何も言わずに黙って見ている。
緊張して、鼓動が高まる。
樫材の扉はずいぶん重かった。シエルはまず細い両腕で力いっぱい扉を押し、すぐに引く扉だと気づいて、今度は思い切り引いた。
重厚な扉は絨毯の上に積もった埃をこすりながらゆっくりと開き、しばらくぶりの空気の流れが室内に入り込んでいった。
室内で澱んでいた空気もまた、廊下のほうへと流れ出る。
「! ……っ!?」
その臭いを嗅ぎ取った瞬間、シエルはほとんど反射的に鼻と口を両手で覆った。
暗く閉ざされた室内から漂ってきたのは、まともに嗅ぐと胸が腐ってしまいそうな凄まじい異臭だった。すぐに後ろから手が伸びてきて、シエルは何やらいい香りがするハンカチで鼻を塞がれた。しかし、その程度で完全にごまかせるような臭いではない。
「――ヴェルレーヌさん。これ、中でどなたか死んでません?」
シエルに素早くハンカチを渡して自分は鼻に詰め物でもしたようで、変な鼻詰まりの声になったフィンドールは、まず彼女に対する甚だしい不信感を顕にした。
当のヴェルレーヌはまさかこの臭いを感じていないのか、涼しげな表情で肩を竦めてみせる。
「さあね。むしろ、その程度で済めばよかったけれど」
そう言って躊躇なく室内に入っていくが、よほど分厚いカーテンを閉め切っているようで、中はほとんど真っ暗だ。
シエルは借りたハンカチで鼻を押さえながらフィンドールの顔を見上げた。フィンドールは困り顔のピエロの仮面でものすごく嫌そうな顔をして、しかし来たからにはこの屋敷に隠された秘密を全て知る気でいるらしく、ポケットから銀色の何かを取り出した。
ちょうどシエルの懐中時計と同じくらいの大きさの、金属製の小さな箱。
フィンドールがその上部の蓋を片手で弾くように開けると、ボッと音を立てて火が点いたのでシエルは驚いた。奇術か、それとも機術の道具か。どうやら見せかけなどではなく本物の火が出ているようで、それを光源にするつもりらしい。
行きますよ、とフィンドールはシエルを促してから中に入っていく。両手で鼻を塞いでいるので手を繋ぎ直すことはできないが、シエルは乾いた唾を無理やり飲み込んで、臭いのと恐ろしいのとを必死に我慢して、震える足でその後に続いた。
揺らめく小さな火が、室内の闇をぼんやりと照らし出す。
ヴェルレーヌがそれを見て言った。
「ああ、いいものを持ってるね。カーテンを開けてすべて明るくするのはあんまりだからちょうどいい。照らせる範囲で見てごらん」
フィンドールは返事をせず、手元の灯りで周囲を確かめながらゆっくりと歩を進める。
シエルは離れないようぴったりとその後ろについて、おそるおそる目を凝らす。
部屋の中にあるのは大きな机と棚。倒れた椅子。床の上でキラキラと光を反射しているのは、何かが割れたようなガラスの破片。
それから。
「な、に、これ」
所構わず乱雑に積み上げられ、床に読み捨てられた大量の書物。
何に使うのかわからない、見たこともない器材。使いかけて放置された道具。大小様々なガラスの容器の中に満たされた黒っぽい液体。その中に浮かんでいる何か。
大きな机の天板は真っ黒に汚れ、よく見ると汚れの下には木炭か何かで幾何学的な紋様が描き出されている。そしてその上に横たえられた、茶色く干乾びた丸太みたいなもの。よく見たら机の下に散乱している――同じく干乾びて変色している、それは。それらは、まさか。でも、どう見ても。
切り落とされた人間の手足。
首のない胴体。
腹を割いて中身を取り出し、切り刻まれたような何か。
机の上に放置されたその人のほかにも、いくつも。
まるで人とは思えない、必要なものを取るだけ取ってあとは要らない、壊れた何かの残骸みたいに。
「事の発端は三年前――ローランは、本物のヴェルレーヌが死んだことを受け入れられなかった」
と、ヴェルレーヌが腐臭に満ちた暗闇の中で言った。
「黒魔術というものを知ってるかい。王都アンベリールでは禁書に指定されているそれらの古い文献は、蒐集家や錬金術士の間で密かに売買されている。この屋敷の前の主人は一時期そういったものを蒐集していたようで、ローランは妻の死後にそれを見つけたようだね」
淡々と話しているヴェルレーヌの言葉も、音として聞こえてはいるものの、まったく頭に入ってこない。
いっそ気絶してしまえればいいのに、意識はしっかりと保たれている。
「書かれている内容はどれもこれも眉唾だ。しかし、ローランはすべての方法を試そうとした。最初は胡散臭い降霊術や東方の反魂術から始まって、ついには彼女の棺を墓の下から掘り出した」
ヴェルレーヌはドレスが汚れるのも構わず、その正体を知りたくもない液体が黒く乾いてこびりついた机の上に腰掛ける。
揺れる火の明かりがぼんやりとその顔を照らしても、黒いヴェールの下の表情は見えない。長い髪の毛を指先で弄繰り回しながら、彼女は嘆息混じりに続けた。
「――だけど当然、彼女の肉体は見るも無惨に腐っていた。それでもあきらめきれなかったローランは、どうにかして彼女の魂だけでも呼び戻そうとしたんだ。今度は書物の知識じゃなく、腐った彼女の肉体から必要な部分を切り取って容器に入れて、祈った。今度こそ、彼女の身に天使様の奇跡が起きることを信じて」
「……っ」
シエルはその言葉に耐えきれず、とうとう猛烈な嘔吐感を催した。
けれど、嘔吐なんてするはずがない。催したそれは、あまりにも酷い冒涜行為に対する心身の拒否反応だった。
どくどくと心臓がおかしくなったみたいに暴れている。気づけば、両目からぼろぼろと涙が溢れて止まらなくなっていた。
「そうして、どうやらその祈りが別の誰かに届いてしまったようでね」
ヴェルレーヌはそっと溜息を吐いた。
この、名状しがたい狂気と冒涜に埋め尽くされた惨劇の舞台の真ん中で。
金色の髪。黒いドレスに映える白い肌。それから、紅茶色の澄んだ瞳を持つ美しい女性の姿をした彼女は、自らを〝醜い〟と形容したときと同じ口調で言った。
「その容器の中にぼくが生まれた。死んだ彼女の腐り果てた子宮の中で、おぞましい奇跡が起きたのさ」
まるで、自らが犯した罪を告白するみたいに。
汚泥の底から咲いてしまった花のように、彼女は美しく微笑んでみせた。




