35.麝香の微笑
ヴェール越しでも、とても美しい人だとわかる。
どうやら幽霊ではないらしい。けれど初めて目にする貴族の女性の美しさに、シエルは魂を抜かれたように見惚れてしまった。
「こんな部屋には何も残されていないし、もう長いこと誰も訪れちゃいない。きみたちが見るべき部屋を教えてあげるからついておいで」
女性はそう言って艷やかな長い髪を払い、柳のように優美な曲線の背中をこちらに向ける。返事を待たずにさっさと廊下に出ていくその後ろ姿を、シエルはほとんど呆けたまま見送った。
「だそうですが、どうします?」
と、フィンドールはそんなシエルに伺いを立てるように笑顔の仮面を向けてくる。
「え……と……」
「まあ、彼女が我々を冥府へ誘う幽霊ではないという保証はありませんがネ」
「聞こえてるよ」
すぐに出てこなかったことで痺れを切らしたのか、扉の前に戻ってきた女性は憮然とした目でフィンドールを睨めつけた。
「ぼくは幽霊なんかじゃない。くるの、こないの? こないならもう知らないよ」
その声や話し方に、シエルは微かな懐かしさを抱いた。
初めてではないのだ。おそらく、わたしはこの人を知っている。
「……ついていっても、いい? フィンドールさん」
逸る気持ちを抑えて、おずおずとコートの裾を引く。いいですヨ、とフィンドールは再びシエルの手を取った。
女性は部屋の外で腕組みをして待っている。手を引かれ、ヴェール越しに表情が見える距離まで近づいて、シエルは唐突に気づいた。
どうしてそんなことに気づいたのかはわからないけれど、でも、違う。
女性……では、ない。
そういえば口調も、よく聞けば声も、女性らしくはなかった。でも、ならば男性かと訊かれたら、それも頷けない。
訝っていると、彼女の目がこちらを向いた。
「シエル、と呼べばいいのかい」
「……え?」
「それが今のきみの名前だと聞いたけれど」
シエルはきょとんとしてしまう。
女性は迷うように視線を揺らし、形容の難しい表情を浮かべて息をついた。シエルを見つめる眼差しに険はなかった。むしろ笑みを浮かべようとして失敗したような顔のまま、「こっちだよ」と廊下のほうに歩き出す。
ふわっ、と麝香のような香りが鼻先をくすぐった。
この人は一体、誰なのだろう。
そう思っていたら、フィンドールが率直に尋ねてくれた。
「ところで貴女のお名前は? この廃屋の住人でいらっしゃるのでしょうか」
「人に名を尋ねるときは自分から名乗るのが礼儀じゃないのか? まあ屋敷の中に招かれたということは玄関先で一度名乗ったのだろうから、同じ口上を二度やらせるのも忍びないが」
「申し遅れました。私はルシウス・ヒューベルトゥスと申します」
「さっきその子に違う名前で呼ばれていただろう。別にどっちが偽名でも構わないけれどね。ぼくはヴェルレーヌ」
女性はそう名乗って振り向くと、まるで少女のように悪戯っぽく身体を傾げてみせた。
「きみ、ぼくのことをどう思う?」
「ハイ?」
「見た目。第一印象。最も簡潔な言葉で」
「大変お美しいと思いますヨ」
「そう。褒めてくれてありがとう」
ほとんど間髪入れずにさらりと答えたフィンドールに対し、ヴェルレーヌと名乗った女性は言葉つきほど嬉しく感じてはいないようだ。
ふいとつまらなさそうにして睫毛を伏せ、まるで劇の独白場面を演じるように呟く。
「――けれど、ぼくほど醜くおぞましい生き物は他にいない」
黒のヴェールが表情を覆い隠してしまう。シエルは、垣間見えたその横顔から視線を外すことができなくなっていた。
醜い、だなんて。
まさかこの人は鏡を覗いてみたことがないのだろうか、と思った。きっとセレームの町で一番きれいな女性はこの人に違いない。わずかな動作のたびにさらさらと揺れ動く髪の一房だけでも、光を縒り集めたかのように美しく輝いて見えるというのに。
シエルの肩の上で、黒い鳥が小さくはばたく。
彼も同じことを感じたのか、それとも何か伝えたいことがあるのか。
どうしたの、と柔らかな羽毛にふれながら小声で問いかけていると、フィンドールがさっと耳打ちしてきた。
「ヴェルレーヌというのは、三年前に亡くなられた奥方のお名前です」
「……え?」
「おい、聞こえる距離でこそこそするな。不愉快だ」
と、ヴェルレーヌは不快感を隠しもしない声で言う。やはり、男性とも女性ともつかない不思議な声だ。
「ぼくはあいつの妻じゃない。けれど、そのように造られて生まれた。そんなふうにこそこそと様子を窺って探りを入れるような真似をしなくても、きみの下世話な想像の通りだよ」
長い睫毛に縁取られた目が、ヴェール越しに射抜くような鋭さでフィンドールを見る。
絹糸みたいな髪色の淡さもドレスに包まれた肢体の細さもたおやかで儚げなのに、その唇から紡がれる言葉や態度は驚くほど毅然としている。フィンドールも少々気圧されたようで、「それは失礼致しました」と速やかに詫びた。
詫びつつ、尋ねる。
「――私の聞き間違いでなければ。貴女は今、ご自身のことを〝造られて生まれた〟と仰いましたか」
「ああ、そう言った」
聞き間違えようのない明瞭さで肯定し、ヴェルレーヌはまっすぐ前を向いて歩きながら続ける。
「そしてそれはもちろんぼくの本意じゃない。だから、この屋敷に誰かがくるのを待っていた」
シエルには、二人の会話の内容を正確に理解することは難しかった。
三年前に亡くなった領主様の夫人の名前。それがヴェルレーヌで、その人はもう五十歳近いマリエル神父の妹にあたる人だとフィニアンが言っていた。
領主様の年齢は聞いた覚えがないのでわからない。でも、目の前にいる〝ヴェルレーヌ〟はどう見ても若い。きっと若すぎる。つまり本物の夫人ではないのだということは、シエルにもわかる。
けれど――造られて生まれたというのは、どういうことなのだろう?
ヴェルレーヌは大階段を下りて一階に向かい、玄関ホールから左側の廊下のほうへと進んでいく。シエルはただ、固唾を飲んでついていくしかない。こそこそするなと言われたからか、それとも考え事をしているのか、フィンドールも黙っている。
廊下の飾り台に置かれた花瓶の花は枯れていた。
通り過ぎていく部屋の扉のドアノブは、もしかしたらもう何年も、誰にもふれられていないのかもしれない。
雪粒に叩かれる窓のガラスはくすんでいて、床には埃がうずたかく積もっていて、それでも掃除をする人はいないのだ。
知らず、繋いだ手を握る力を強くしてしまった。
この屋敷の中にはあまりにも、生きているものの気配がない。シルクの手袋越しであっても、人か悪魔かわからないような人の手であっても、不安に揺れるシエルの心を支えてくれるのは唯一そのぬくもりだけだった。
フィンドールはそんなシエルの手をしっかりと握り返した上で、再びヴェルレーヌに問いかけた。
「ときにヴェルレーヌさん。本物の伯爵はどこにいらっしゃるのですか」
「…………」
返答はなかった。
ヴェルレーヌは長い髪とドレスの裳裾を揺らして立ち止まる。ほかと特別変わったところもない、閉ざされた樫材の扉の前で。
「ここがローランの部屋」
と、彼女は言った。
くるりと振り向いたその表情は端正な微笑でありながら、どこか自嘲的な笑みにも見えた。
「案内してあげたのだから自分の目で確かめるといい。このようなことはほかの誰かの言葉ではなく、まず本人が残した真実を知るべきだ」
「……フム」
その言葉を聞いたフィンドールは、何か思うところがあったらしい。
シエルがその顔を見上げてみると、相変わらず笑うピエロの仮面を着けてはいるものの、珍しく神妙な表情を浮かべているようだった。
フィンドールはほんのわずかな時間でおそらく深く思案した後、ヴェルレーヌに対して一つ重要な点を確認するように言った。
「その真実とやらは、この子が知っても問題ないことなのですか?」
「知るべきだよ」
即答だった。
それについては、訊かれる前から回答を用意していたかのように。
というより――彼女は始めからそのことを目的として、そのために二人をここに連れてきたのかもしれない。
「人間であれば悪人も善人も始めは等しく母親の胎から産まれ、神や教会が何をどう説こうとも、その生命の誕生に罪はない。だが、ぼくらはそうとは限らない。どのように造られたのか、どのように生まれたのか、それを知らずに生きていくことは許されない。――そうだろう、シエル」
彼女がその言葉を向けていたのはフィンドールではなく、シエルのほうだった。
え、とシエルは彼女の顔を見る。
黒いヴェールの下にあるその目はシエルを見つめている。
厳かな詩を諳んじるように、彼女は言った。
「きみは全ての真実を知るためにここへ帰ってきた。だから、この扉はきみが開けるべきだ」
そう言われた瞬間、シエルは思い出した。
胸に下げている懐中時計の針が、そのときはまだ動いていたことを。
ゼンマイを巻かれて動き出す時計の仕組みが面白くて、生まれて初めての興味を抱いたときのことを。
そして今、目の前にいる彼女のことを。
「あなた……は」
最後の覆いが取り払われて、懐かしい香りとともによみがえった過去の情景がシエルを包んだ。
――きみはどこからきたの?
――じゃあ、名前は? ……まさか名前もないっていうの?
――仕方ないな。呼び名がないのも不便だから、いま考えてあげる。
エヴァンジェリン。
星の瞳を嵌め込まれた白い人形に美しい名前を与えてくれた女性は、出会ったときもそうであったように、なぜか哀しげに見える優しい微笑みを浮かべてみせた。
「おかえり、シエル。多くの人に何度も呼んでもらったその名前のほうが、今のきみにはずっと似合っているよ」
その言葉が頭の中の発条を一気に巻き上げたかのように、シエルの目の前には無数の風景が広がった。




