34.書庫の再会
二階に続く大階段を一段上がるごとに、記憶の風景は少しずつ鮮明になっていった。
階段を上れば凍った大窓の外に白く凍った木々の森が見えることをわたしは知っていて、その景色は実際にそこでわたしを待っていた。
それはまるで、忘れていた記憶たちから「おかえり」の言葉を聞くようだった。
けれどおそらく、わたしはまだ今のようなわたしではなかったのだろう。
思い出される記憶のすべては一切の感動を伴わず、色も音も、ただ無機質な情報として頭の中に記録されていただけ。
ここで過ごしていた頃のわたしは――きっと本当に、ただ動くだけの人形だったのだ。
「……あっち、だと思う」
夢の場所を再訪するような不思議な感覚の中、シエルは階段の上で左右に分かれた通路の右を指さした。
屋敷の中のすべてを知っているわけではないけれど、かつての自分が行ったことのある部屋がどこにあるのかはわかる気がする。実際に部屋のほうへ歩き出してみると、曖昧だったその感覚はより確かなものになった。
フィンドールの手を引くように歩きながらふと、まだ手を繋いだままでいることに気づく。
あ……とシエルがその手を見ると、フィンドールは「どうしました?」とその視線にすぐ気づいて尋ねてくる。思わず、ぎくりとしてしまった。
「えっと……手、離してなかったから……」
「フフ。何を仰いますやら。貴女の小さな手を離してしまうことは私が心配なのです。きちんと捕まえていなければ、逃げてしまうかもしれないでしょう」
「に、逃げたりしないよ」
「逃がしませんよ」
そう言って、手には少しだけ痛いと感じるほど強い力をこめられた。
別に、振りほどこうとしたわけではないのに。
「その代わり、二度と貴女の身に危険が及ぶことはありません。この私が終生お守りして差し上げるのですからネ」
にっこりと笑顔でそんなことを言われても、どんな思いで受け取ればいいのかわからない。
嬉しくはない。
安心もできない。
でも、約束は守ってくれている。シエルのことも、守ろうとしてくれている――というのはおそらく、疑う必要のない事実だった。
ひとまず手の力をゆるめてもらえたことにほっとして、シエルは廊下の奥にその部屋の扉を探した。
奥から二番目の扉が、わずかに開いていた。
中にはたくさんの書架がある。
どれも天井に届くほど背が高くて大きい。
その部屋からは、古い本の香りが漂ってくるようだった。
「……ここが〝あの部屋〟ですか?」
「たぶん……?」
シエルが足を踏み入れると、床板はぎしっと軋んだ。
書架と書架の間にできた通路は狭い。この屋敷の主はずいぶんな蔵書家だったようで、見るからに古い書物から比較的新しく製本されたものまで、様々な本がぎっしりと収められている。奥には飴色に磨き上げられた上等の机と椅子があり、記憶の中で見たままの、カーテンを開け放して庭を見下ろす窓があった。
その光景を見て、思い出した。
ここで本を読むのが――文字と言葉を学ぶことが、好きだった。
好き、だったはずだ。だってわたしは、いつもここで過ごしていたから。
「蔵書の一部が持ち出されているようですネ」
「え?」
やや離れたところから聞こえた声に振り向くと、フィンドールはいつの間にかシエルの手を離して手近な書架に並んでいる本を一冊一冊検分していた。シエルは思わず、解放された右手とピエロの仮面を交互に見てしまった。
離していいんだ、と。
もはや毎度のことのように拍子抜けするシエルの顔を見て、フィンドールは「……ム?」と怪訝そうにした。
それから何か合点がいったように、「ああ」と手元に開いていた本を閉じながらやや見当違いなことを言う。
「昔ここにきたことがあるというのは本当なのですヨ。アルバンは私の良き友人でした。御子息は幼少のお姿を何度かお見かけしたことがある程度なので、私のことなど覚えてはおられないでしょうが」
シエルは目をしばたたかせた。
先程の会話の中で、あの白い男は何と言っていただろうか。
アルバン。先代エヴァンゼール伯爵。亡くなったのは、二十五年前。
それより前から交流があった、とすると――……
「フィンドールさんって、何歳……?」
「ウフフ。とにかく、彼が好んでここに蒐集していたはずの禁書の類が一冊も見当たりません。生きているうちに保管場所を移したか、処分したか、あるいは」
言い終わる前に、その背後で足音がした。
あるいは、と続く言葉を遮ろうとしたかのように。
立ち並ぶ書架の向こう。部屋の入口に誰かが立っている。
「ふぃっ、フィンドール、さん」
「ハイ?」
「う、うしろ」
シエルは〝それ〟を目にした瞬間急に周囲が暗く一段と室温が下がったかのような異様な冷気を肌に感じ、慄然と震える手で、そちらを指さそうとした。
あの白い男とは正反対の、真っ黒な影。屋敷に澱む暗がりの影が人の形をとってにじみでてきたような、揺らめく漆黒の衣裳。小さくて真っ白な顔。肩から背中に落ちて流れる、絹糸みたいな美しい髪。実体なく揺らめいて見えるのは幾重にも重なる繊細なレースで、顔の表情がよく見えないのは、きれいな刺繍を施した黒い薄絹のヴェールをかぶっているから、で。
「――失礼だな。幽霊でも見たような反応をしないでくれるかい」
現れた女性はどこか挑発的な口調でそう言って、紅い唇に嫣然とした笑みを浮かべてみせた。




