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星のアンブロシア  作者: 榑井タキ
第九章 凍てついた屋敷
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33.偽物の正体

 一階から二階まで吹き抜けになっている玄関ホールには、数年分の空気が停滞して澱んでいるようだった。


 そこかしこに大きな蜘蛛の巣が張っている。床に散らばっているガラスの欠片や燭台は、天井から落下したらしいシャンデリアの残骸だ。


 屋敷の中には誰もいない。

 生きている何者の気配も感じ取ることはできない。

 がらん、とした静寂無音の空間に硬い靴音を響かせ、白い男は振り向いた。


「私はじきにここを去ります。どの部屋も鍵はかかっておりませんから、どうぞご自由にご覧ください。探し物が見つかるとよいですね」

「……ふむ?」


 フィンドールは釈然としない様子で首をひねった。


「失礼とは存じますが、貴方はローラン・ド・エヴァンゼール伯爵でお間違いないですか?」

「ええ、今は」


 白い男は謎めいた口調で答えた。

 その唇は社交的な笑みを形作っているものの、目は笑っていない。

 シエルは怯えるように身を固くしたまま、気づくとフィンドールの腰の後ろに隠されていた。フィンドールは礼法正しく右手を胸に当てつつ、つとめて慇懃(いんぎん)な口調に懐疑心を内包して問いかける。


「此度は突然の来訪にも関わらず、我々の名すらお尋ねにならないのです?」

「ではお尋ねします。あなた方はどちら様でしょうか」


 言われるままに質問を返した白い男はこちらを見てはいるが、それはただ視線がこちらを向いているというだけのことだった。

 実際には、何の興味も関心もないのだろう。

 あまりにも無感情だった相手の声に対し、フィンドールは物柔らかな挨拶の言葉を返した。


「クロアドゥールより罷(まか)り越しました、ルシウス・ヒューベルトゥスと申します。先代のアルバン・ド・エヴァンゼール伯爵には大変親しくして頂いておりました」

「先代が死んだのは二十五年前です。ずいぶんとお若く見えますが、どのようなご関係でいらしたのですか」

「よく言われます。こう見えましても彼とはちょっとした昔馴染みでして、気の合う蒐集家仲間だったのです。此度はその旧交を懐かしく思い、七年に一度の祝祭と聞いて久方ぶりに旅してきたのですが、思わぬ悪天候に見舞われてしまい……」

「全て私の仕業だと?」


 それは薄く研いだ刃物のような、鋭さと同時に粘度も高い、寒気がする眼光だった。


「単刀直入に申し上げれば、その通りです」


 フィンドールは微塵の動揺も見せずにそう答えた。

 白い男は、ふっと笑うのでもなく目を細める。


「そのようなことは決して。私にそれほどの力はありません」


 黒いコートの裾に身を寄せて、シエルはひどく緊張していた。どく、どく、と心臓の音がはっきりと耳にまで聞こえるようだ。

 やっぱりわたしは、この人を知っている。

 ローラン。その名前で呼んだ覚えが確かにある。それがわたしにとって慕わしい名前ではないことも。

 ただ、どうにも拭いきれない大きな違和感があった。


 それは――本当に、この人だったのだろうか。


 シエルは目の前の白い男を見つめ、繋いだ手に指先が白くなるほどの力をこめた。そうしないと手の震えが止まらない。そんなことをしても震えが止まることはなかったけれど、大きく息を吸いこんで、勇気を奮い起こした。


「……神父様とフィニアンにひどいことをしたのは、あなた?」


 その瞬間、シエルは〝演技〟のことなんてすっかり頭から抜けていた。

 けれど、おそらくそんなものには始めから何の意味もなかったのだろう。

 白い男は暗い緑色の目をつと動かして、シエルのことをじっと見た。


「エヴァンジェリン」


 そう呼ばれたのは自分だと、すぐにわかった。

 シエルの心の目はそのとき、頭の中の隠された引き出しの底にしまわれていた記憶の映像を見た。


 閉ざされたカーテンの隙間から差し込む夜明け前の光。

 薄い天幕を下ろされた寝台の上。

 こつ、と足音が聞こえた。

 次の一歩は、やわらかい絨毯をそっと踏みしめる音がした。

 近づいてきた人影が天幕に透ける。麝香(じゃこう)のような匂いをつれて、誰かが天幕の内に入ってくる。 


「あ……」


 時間が止まった。

 神様の愛娘。福音の娘。そのように名付けられたことを、思い出した。

 でも、誰に?

 それはきっと、目の前にいるこの人ではない。


「彼女が恋しければあの部屋に行きなさい。彼女もあなたを待っていることでしょう」


 シエルの問いかけなど意にも介さず、白い男はそう言った。

 彼女、とは。

 次の瞬間、シエルは世界の輪郭が急にぶれたように感じた。

 薄暗い玄関ホールの景色も、目の前にいる白い男の姿も、凍てついた大窓から差し込む外の光も、何もかも。


「……ッ……!」


 シエルは左手で頭を押さえ、床にうずくまった。


 色んな景色。色んな音。色んな文字、色んな言葉――頭の奥底に押しこめられていたそれらが記憶の奔流となって溢れ出し、出口を求めて暴れている。


 記憶の断片が浮かんでは次の記憶に押し流されて、押し潰されて、また浮かぶ。怒涛のように押し寄せる景色や音やにおい、それらが全て混ざり合って、ごちゃごちゃで、次から次に流れ出す映像はもう、どこからどこまでが一つの映像なのかもわからない。


 次第に現実の感覚までその濁流に巻きこまれ、自分が今どこにいるのか、いないのか。上も下も右も左もわからない濁った流れの勢いは凄まじく、抵抗もできなくて、荒れ狂う川に投げこまれた木の枝みたいにバラバラに、粉々に、この身体ごと砕かれてしまう――その、寸前。



 ――ガウン!



 と、鼓膜を破って腹の底に響くような轟音が放たれ、ホールの空気を震わせた。

 びくっと全身でたじろいで跳ねるように顔を上げたシエルは、いつの間にか小柄なシエルを庇うように身体の向きを変えていたフィンドールが、その手に持った何かを白い男のほうに向けているのを見た。


 それには片手で握るための持ち手があり、銀色に光る金属製の筒口から細い煙がたなびいている。かすかに鼻先をかすめたのは、今までシエルが嗅いだことのない、鼻腔にこびりつくような臭いだった。


「先ほど、我々の来訪を予見しておられたようなことを仰った。我々が何を探しているのか、その身に確(しか)とお心当たりがあるはずですが」


 大きな音に驚いて、心臓が早鐘(はやがね)を打っている。

 シエルは、銀の筒口が向けられているその先を見ることが恐ろしかった。この人は今、何をしたのか。

 白い男は答えない。

 恐怖と、それから一種の心配が綯(な)い交(ま)ぜになった気持ちでごくりと唾を飲み、シエルはおそるおそるそちらに目を向けた。


「……ふふ」


 と、白い男は笑った。

 シエルは目を見開いた。

 その立ち姿が、上(・)と(・)下(・)で(・)半(・)分(・)に(・)分(・)か(・)れ(・)て(・)い(・)た(・)か(・)ら(・)。


 正確に言えば――白(・)い(・)霧(・)か(・)煙(・)を(・)寄(・)せ(・)集(・)め(・)て(・)形(・)を(・)成(・)し(・)て(・)い(・)た(・)そ(・)の(・)身(・)体(・)が(・)、《《ちょうど胸の位置に打ち込まれたものによって》》、半(・)ば(・)吹(・)き(・)飛(・)ば(・)さ(・)れ(・)て(・)し(・)ま(・)っ(・)た(・)み(・)た(・)い(・)に(・)。


 ぞくりと震えて、シエルは自分の胸元を握りしめる。今まで目の前にいたものは、生きた人間ではなかったのだ。


「私はじきにここを去ると言いました」


 白い男は唇をいびつにゆがませた。それは、微笑、とはいえない。あるいは嗤笑(ししょう)と形容したほうが近いかもしれない。

 ほどけてしまった白い煙と霧をまといながら、首と切り離されているはずの右手が動いてこちらを指す。

 シエルを。ではなく――その肩の上にとまっている黒い鳥を指さして、白い男は絶えず揺れ動くその煙と霧のような声で言った。


「ですのでそ(・)ち(・)ら(・)の(・)彼(・)か(・)ら(・)お(・)借(・)り(・)い(・)た(・)し(・)ま(・)し(・)た(・)物(・)を(・)、直(・)接(・)お(・)返(・)し(・)で(・)き(・)る(・)機(・)会(・)が(・)得(・)ら(・)れ(・)な(・)い(・)こ(・)と(・)を(・)申(・)し(・)訳(・)な(・)く(・)思(・)っ(・)て(・)お(・)り(・)ま(・)し(・)た(・)。さぞお困りでいらっしゃるでしょうから、それだけが心残りだったのです」

「! やっぱり、あなたが……!」


 シエルは思わず身を乗り出しかけたが、フィンドールの大きな手に肩を掴まれて止められた。

 見ている目の前で、白い男の姿はたちまち薄れ始める。あのときのフィニアンみたいに。でもそれはフィニアンと違い、煙みたいに消えてここから立ち去ろうとしているのだ、とわかった。


「お父さん……っ!」


 どうすればいいかわからず、シエルは繋いだ手を引いて泣訴するように縋りついた。

 しかしその思いは虚しく白い男の姿形はすっかりほどけて霧散し、大窓から差しこむ白い光の中に溶け込むようにして、消えてしまった。  

 フィンドールは短い溜息を吐き、銀の筒を懐にしまってからシエルを見下ろした。


「その設定、まだ続けます?」

「……え?」

「フフ。私(ワタシ)はどちらでも構いませんヨ。ひとまず、貴女(アナタ)のことをエヴァンジェリンさんとお呼びするのはやめておきましょうかネ」


 その耳慣れた口調を聞いて仰ぎ見ると、いつの間にかその顔にはピエロの仮面が戻っている。

 フィンドールは「立てますか?」とシエルの手を引き、ふらつくシエルが立ち上がるのを助けてくれた。玄関ホールは冷えきった静寂に押し包まれ、パキパキと足元の破片を踏む音が響く。


「さて……あの部屋がどうのこうのと言われておりましたが。私(ワタシ)のユーリア、何か思い当たることはありますか?」

「そ、それより、あの人」

「消えてしまいましたネ。気味が悪いので一旦忘れておきましょう。幸い邸内を探索する許可は既に得ているのですから、探し物をするのに支障はありません」

「でも」

「ユーリア」


 笑うピエロの仮面が笑顔でシエルを見つめる。

 黙って言うことを聞け、と。

 シエルの身体は硬直した。目を動かすこともできず、おそらく顔の表情もこわばった。しかし何か意思表示をしなければと――そのまま、こく、と小さく頷くと、フィンドールは「よろしい」と大きく頷き返した。


「どうしようもない些事(さじ)にいちいち拘(かかずら)っていては物事の本質を見失います。今更元凶を捕らえて糾弾したところで事態が好転するわけでもなし。あの者の正体を知る必要があるのならいずれ自(おの)ずと知ることになる。そのような事柄に心を囚われるのは大いなる時間の無駄ですヨ」


 フィンドールはそう言って、ざっとホールの中を見回した。

 正面には一面の大窓と大階段。左右には暗い廊下が続いており、きっとその先にいくつもの部屋がある。

 白い男が言っていた「あの部屋」。それはどこにあるのだろう。

 思い出さなきゃ、とシエルは目をつぶって必死に記憶の景色を手繰り寄せようとした。さっき見た記憶の奔流の中に、その部屋もきっとあったはずだ。天蓋付きの寝台がある、あの部屋? たぶん違う。そこではなくて、その部屋を出て。燭台の灯りも何もない、薄暗い廊下の先の闇の中。そこに。


「本が、たくさんある部屋……が、あった気がする」

「フム? 場所はわかりますか」

「たぶん……カーテンの開いた窓があって、庭の木が下に見えたから……二階?」


 おぼろげな記憶を辿りながらたどたどしく言うと、フィンドールは満足げに口端を上げて頷いた。


「よく思い出しました。いい子ですネ」


 そう言って、シエルの髪を指で梳くように撫でる。

 まぎれもなく優しい手つきであるはずなのに、やはり心が緩むことはない。むしろこうして優しく触れられるたび、決して甘えたり心を許したりしていい相手ではないのだと、改めて知ることになる。

 ほっと息つくこともできないシエルに、フィンドールは朗らかな声で問いかけてきた。


「で、それはどこですか?」



 ――――――――

 ――――


 …………


 ――ふっ、と蝋燭の火が掻き消えた。

 それまで手元を明るく照らしていた光が消えて、室内は薄闇に包まれた。

 カーテンが揺れている。外はさぞかし寒かろう。いつでも勝手に開けて入ってくればいいと言っているのに、硬いもので窓を叩く音がする。

 女は立ち上がり、律儀な彼のため窓辺に歩み寄った。 

 

「知っているよ。あの子が帰ってきたんだろう」


 今日も窓の外に座って待っている彼は、尻尾を大きく揺らして応えた。

 入っておいで、と窓を大きく開けてやる。

 彼は――灰色の美しい被毛を持つ山の狼は、まず全身を震わせて雪粒を綺麗に吹き飛ばし、それからようやく室内に入ってきた。

 冷え切ったその背の毛並みを撫でてやる。生まれが雪山の狼であっても、人の手のぬくもりは恋しいものか。女は静かに語りかけた。


「きみは山へ帰ったらどうだ。守るべき庭の花も、きっともう二度と咲くことはない」


 賢しげな金色の両目が女を見つめている。

 物言うことはできずとも、この獣は人の言語《ことば》を解することができる。

 だからこそ、女は何度となく語りかけてきた。


「きみが待つべき主人も、二度と帰ってくることはない。……ぼくはきみの主人ではないんだよ」


 狼はただ女を見つめる。何も言わずに。何も言う必要などないというように。

 女は細い吐息をもらした。


「もう自由におなり、グレーベル。きみも、あの子も、呪いのような人の思いに縛られることはない」


 狼は首を振る。

 甘えるようにすり寄ってくる獣の大きな背を抱いて、女は溜息を吐いた。

 そのときだった。


 時が止まった屋敷の中で、何かが壊れる音がした。 


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