32.仮面の素顔
クリーム色の小さな背中を追いかけて、石畳の薄氷を靴のかかとで踏み砕くように駆けていく。
足の遅いシエルなんか置いていくようにずっと先を行くケルシーは、しかし時々立ち止まって振り返る。ちゃんとついてきてる? と確認するみたいに。やはり人間の勝手な思い込みというわけでもなく、案内をしてくれているようだった。
「あの猫サン、貴女のお知り合いなのですか?」
と、フィンドールがたずねてきた。
シエルは急いで走っているつもりでも、かかとの高い靴やしっかり着込んだドレスは走りづらいし、この足は若鹿のように早く走れるわけでもない。シエルよりずっと背が高くて脚も長いはずのフィンドールは、焦らず急がず、そんなシエルに手を引かれるようにしてひょこひょこと後ろをついてきている。迷い道で少女が猫を追いかけるというまるでおとぎ話のような状況を、しばし傍観して楽しむつもりでいるらしい。
「教会に住み着いてた子なの。いつも同じところにいたわけじゃないけど……」
走りながらでも、シエルは息切れせずに答えることができた。
膝が痛んだり脛が軋んだりすることもない。球体関節はなめらかに動作して、躯の中に巡らされた見えない糸が手足を動かしてくれているかのように、自分の体重も何も負担に感じない。
もしかするとフィンドールは機術士としての目でシエルを眺め、実際の動作を確認でもしていたのかもしれない。おそらく質問の返答には興味もなかったのだろう。
「フムフム? なるほどなるほど。貴女は色々と数奇な運命から愛されているのですネ」
愉快そうなその声を聞きつつ、とにかくケルシーを見失ってしまわないように。
狭い街角を右に折れて、左の道に入る。今度も右。また右に。そうして名前の知らない通りをいくつか抜けると――本当に、たどりつくことができた。
領主様のお屋敷がある、あの町外れの森。
昨日のように丘の斜面を下ってきたわけではないので、きちんと舗装された石畳の道が森の奥へと続いている。
真っ白になった冬の森を目の前にして、シエルは辺りを見回した。
「……ケルシー?」
ずっと追いかけていたはずのその背中が、どこにも見えなくなったのだ。
石畳の道の先には大きな鉄製の門扉が見える。ここまできたから、あとはもう待たずに行ってしまったのだろうか。
――お屋敷に?
ケルシーが、どうして?
今さらのように疑問が浮かぶ。まるで知恵を持っているかのようにここまで案内してくれたけれど、あの子は教会の敷地内で自由気ままに暮らしているだけの、ただの猫だ。
そもそもどうして町の中にいたのだろう。教会を抜け出してこっそり遊んでいたのだろうか。それで、偶然見かけたシエルを遊びに誘っていたのだろうか。……それともまさか、本当はこのお屋敷の猫だったのだろうか?
「ユーリア」
と、その名前で呼びかけられてハッとする。
何にしても、目的地に到着したのだ。
虫の声も鳥の声も聞こえない、死んだように凍てついた森の中の馬車道を、シエルはフィンドールに手を引かれて進んだ。
前方に近づいてきた門はあまりにも大きく、厳重に閉ざされている。ただ、近づいてみるとその鉄はひどく錆びているようで、招かれざる来訪者を拒むために錠を下ろしているわけでもなかった。
フィンドールが片手で鉄格子を押すと、錆びた鉄がこすれあう耳障りな音がして、あっけないほど簡単に門は開いた。
「あ、開けていいの?」
「開いたのですからいいのでは? 行きますよ、ユーリア」
シエルは焦ったが、フィンドールは平然とそう言いのけて中に入ろうとする。手を繋がれているのがまるで手綱か何かのようで、シエルはついていくしかない。
そうして門をくぐりつつ、空いているほうの手でピエロの仮面を外し、そのまま懐にしまうのが横目に見えて、思わず「え?」と視線を上げてしまった。
「? どうしました?」
と、いかにも怪訝そうに首を傾げてシエルを見下ろしている、その顔。
シエルは声も出なかった。
「……いくら父親だからといっても、そうじろじろと異性の顔を見るものではありませんよ? 貴女の目は視えてなどいないとしてもね」
そう言って困ったように苦笑してみせたあの道化師の素顔が、あまりにも普通の顔だったから。
鼻梁は高くも低くもなく、輪郭に過不足もなく。ピエロの仮面の下にあったのは、特にこれといった特徴もない、あまりにも平凡な、ごく普通の茶色い目だったから。
何度か瞬きして、目をこすった。けれど、そんなことをしても今見ている人の顔は変わったりなどしない。
拍子抜けしたというよりも、騙されたかのような心地だった。
だって、忘れようもない。シエルはあのとき確かに――ピエロの仮面の奥に、人ではないおそろしいものの目を見たはずなのに。
道端ですれ違ってもおそらくまったく印象に残らなさそうな、どこにでもいそうな普通の顔なのに貴族だと言われれば不思議と違和感もない、そんな三十代半ばくらいの十人並みの容貌で、フィンドールは品よく笑った。
「ほら、行きましょう」
少々強引に手を引かれる。中に入ってみると、屋敷の庭は思った以上に荒れ果てていた。
美しく整えられていたはずの庭木は剪定されている様子もなく、薔薇の蔓が伸び放題に伸びた末、地面を這って力尽きたように枯れている。どう見ても、人の手から離れて久しい廃墟の様相だ。
しかし玄関前の馬車寄せには昨日見かけたあの黒い馬車が停まっており、不気味なくらい静かに頭を垂れて微動だにしない二頭の馬がつながれたままになっていた。まるで生気が抜けてしまったようなあの馬たちは、はたして生きた本物の馬なのだろうか。
「ふむ。こうして訪れるのは二十数年ぶりですが、もはや人が住んでいるのかどうかも疑わしいほどですね。本物の伯爵は既に殺されており悪魔に成り代わられている、などという低俗な噂もあながち嘘ではないような気がしてきます」
フィンドールは庭の様子を眺めながら一人呟く。顔だけではなく声も口調も普通なので、自分が今誰といるのかわからなくなってしまいそうなほどだ。
しかしやはり普通ではないその発言内容がシエルをぎくりとさせたことを繋いだ手から感じ取ったのか、「ああ、すみません」と即座に謝罪の言葉を口にした。
「王都の麗しきご婦人方の無聊を慰めるためだけの、ただ刺激的で倒錯的な、根も葉もない噂話の類ですよ。貴女を怯えさせるつもりはなかったのですが……む?」
と、言っている途中で何かに気づいたように庭の奥へと目を向ける。
足音は聞こえなかった。
シエルはその存在を忘れていたわけではなかった。
ただ、それはあくまであの森の中にいて、まさかこんな屋敷の庭で遭遇することになるとは思っていなかった。
――――あのときの、狼だ。
思わず悲鳴を上げそうになった口は、自分で押さえる前にフィンドールの手で押さえられた。
「どうやらお屋敷の番犬をしているらしい、とハリト君に聞いていたことをすっかり忘れていました。本当にいたのですね、狼」
「!?」
なんでそれを忘れるの、と言いたかったが言えない。
狼は低い唸り声を上げている。灰色の毛並みを逆立てて、鋭い牙を剥き出しにして、縄張りの侵入者を威嚇しているのだ。爛々と光る金色の目に射竦められ、シエルは動けなくなった。唸り声は昨日よりも低い。森の中から屋敷を覗き見るどころか、庭にまで入ってきてしまったから。きっと、昨日よりも怒っているのだ。それを叩きつけるだけでシエルの手足など簡単に砕いてしまえそうな大きい前肢で、雪に覆われた枯れ草を踏みしめるように一歩、一歩と近づいてくる。
「ご安心を。忘れてはいましたが、備えがないわけではありませんので」
フィンドールは特に動揺する様子もなくそう言って、コートの中からおもむろに何かを取り出そうとした。
そのとき、ひやりと背筋を冷たく撫で上げるものがあった。狼の耳がピクリと動いた。
屋敷の玄関扉が、内側から開いたのだ。
「やめなさい灰色狼。その方々はお客様です」
そこに立っていたのは、真っ白な服を着た男の人だった。
銀糸を細く伸ばしたような髪の毛。白いというよりも青白い、死人めいた肌の色。美しく整った、けれど削ぎ落としたように肉の薄い顔立ち。それから、やけに暗い翡翠色の目。
その姿を目に映した途端、シエルの身体の奥にあるものが何かを思い出して震え始めた。
「ローラン……」
――ぎゅっと、フィンドールの手を握りしめる。
屋敷の主人はそんなシエルを見て目を細め、まだ来意さえ告げていない二人の客人を招き入れるような仕草をした。
「そのうちお越しになるだろうとお待ちしていました。どうぞ、中へお入り下さい」




