30.この先のこと
ようやくすべての身支度が終わったあと。
フィンドールにうながされ、昨日あった姿見の鏡に自分の姿を映しに行くと、そこには見たことのない女の子がいた。
アンクル丈の裾からレースが覗く青い天鵞絨のドレスに、真珠のような光沢を引き出してもらった白い髪の毛。繊細な花冠みたいな編み込みに、ドレスとおそろいの大きなリボン。ブラウスの袖とストッキングは真っ白で、銀の留め具がついたピカピカの黒い靴はいかにも特別な物のように思える。
顔や手、その指先や爪まで蒸したタオルで温めてから良い香りのする水で拭いてもらった。幽霊みたいに気味が悪い、あの陰気な女の子はどこへ行ってしまったのだろうか。
「手間と時間を惜しまず、きちんと手入れしてあげることが大切なのですヨ。その衣装は貴女のための高級仕立服ではありませんが、間に合わせの冬服としては良いでしょう。――ああ、男所帯の馬車の中に何故こんなにも乙女の心をくすぐる魅力的な品々が取り揃えられているのか、とお思いですか?」
大きな衣装箱に、髪の手入れをするための道具箱。肌を整える化粧品。フィンドールはそれらの片付けをしながら、シエルの心の中を言い当てるように言った。
振り向いて、にっこりと笑う。
「勿論、ただの趣味です」
「……趣味?」
「ハイ。人形の蒐集、手入れ、衣装を作ること。それが私の趣味なのです。ここにあるものが全てではありません。貴重な蒐集品を持ち歩いたりなどしませんからネ」
そう言いながら、シエルが元々着ていた服も片付けようとしている。あ、とシエルは思わず手を伸ばしかけた。
ずっと着たままだった黒いローブ。
「あの……それは着てもいい?」
「ン?」
着る服を選ぶなんて、そんな贅沢な権利を与えてもらえるとは思っていない。さっきだって、予め用意されていた二着のブラウスをどちらにするか選ばせてもらっただけ。あとは服も靴も頭のリボンまでこの人が吟味して、きっとシエルというお人形に一番似合う完璧な組み合わせにしてくれた。それが完璧な組み合わせなのだとシエルでもわかるくらいなので、そこに意見することを許されるとも思えない。
でも、それを手放したくはなかった。
「フィニアンに貸してもらったの。……だめ?」
「貴女が着たいと言うなら構いませんヨ」
「え?」
「黒い服は高価なものです。上に羽織るものは必要ですし、仕立ても悪くはありません」
拍子抜けするほどあっさりと許してもらえて、シエルは目を丸くした。
はいどうぞ、とにこやかにローブを着せかけられる。フードの形を整え、軽くブラシをかけてから、フィンドールは「フム」と顎を引いた。
「よさそうですネ。では私も支度せねばなりませんので、少々待っていてください」
「……二階に行っててもいい?」
「ええ、どうぞ。あの程度なら難なく登れるでしょう。落ちて壊れても直ぐに修理して差し上げますが、スカートの裾を踏まないよう気をつけるんですヨ」
ピエロの仮面は好々爺然とした笑顔でそう答え、特に何か言いつけたりもしなかった。
――どうやら、思ったよりも好きにしていいらしい。
目の届く範囲であれば、ということだろうか。それとも、ちゃんと言うことを聞いたから?
よく、わからない。
何だかうっすらと空恐ろしいものを感じつつ、シエルは二階に続いている梯子にそっと手をかけた。
音を立てないように気をつけてもあまり意味はないのかもしれないが、言われた通りスカートを踏んでしまわないよう一段一段ゆっくりと、できるだけ静かに梯子を登る。
先程から、バコラの音が聞こえることに気づいていた。
よいしょと力をこめて天井の跳ね上げ扉を押し開けると、くぐもって聞こえていた音がようやく鮮明になった。
立って歩くには低すぎる天井。カーテンで塞いだ四つの窓。決して広くはない、ここの造りはおそらく二階というより屋根裏部屋なのだろう。一つだけ置かれたベッドを背もたれの代わりにし、ハリトはバコラを抱いて床の上に腰を下ろしていた。
そして、彼はバコラのてっぺんを止まり木代わりにしていたらしい。
「フィニアン」
シエルが呼ぶと、黒い鳥はパタパタと羽ばたきの音をさせてこちらに飛んできた。
あのあと第五元素石をもう一粒あげようとしたのだが、この姿ならしばらくは大丈夫なのだという。しかしその代わり、この黒い鳥は鳴くことも話すこともできないらしい。
おいで、と両手のひらで迎えるように待っているとその中に飛びこんできてくれたので、シエルは柔らかい羽毛に覆われた小さな身体を両手で包んで頬を寄せた。暖かくはなく、匂いもない。けれど彼だということを知っている。思わず頬ずりしてしまったのは、とても大切な、宝物のように思えたからだ。
『よく似合っている。かわいいな』
――と、頭の中に響いた少年の声にどきりとしてしまった。
褒める言葉があまりに率直だったので、シエルは慌てて下を向いた。
「あ、ありがとう。フィンドールさんが全部してくれて」
『きみはあの男の一番気に入りの人形になったから、きみに与えられる物はこの国の王女と変わらない。誰よりも丁重に扱ってもらえるし、今までのように意地悪をされる心配もないよ』
「……そう、なの?」
『ああ。きみにとって彼は最も安全な場所だ。ただしきみはあくまで感情を持っているだけの人形だから、彼の言うことに逆らってはいけない。そのことは忘れないように』
「う、うん」
わかった、と頷きながらも、シエルは心の中でその言葉に大きな戸惑いを覚えた。
落ち着いた口調はいつものように淡々としつつも穏やかなのに、今までとはまるで正反対のことを言われた気がしたからだ。
いつも事実を伝えるその声と一緒に伝わってきた感情も、あたたかなものではなかった。かといって、決して冷たいものではなかったけれど。
戸惑いを浮かべて、じっと見つめたせいだろうか。
ハリトはそんなシエルをエメラルドグリーンの目で静かに見つめ返すと、抱えていたバコラをシエルのほうに動かした。
「?」
無数の弦が張られたその面を、シエルに差し出すように。
さわってもいい、ということだろうか。
窺うようにその目を見ると無言で頷いてくれたので、シエルは手の上のフィニアンを膝の上に下ろし、おそるおそる指を伸ばして、ごく細いその弦の一本にふれてみる。少しだけ力を入れてみたが、思ったように音が鳴ることはなかった。
すると、ハリトが教えてくれた。
『弦を押さえてはいけない。指で弾くんだ。そうすれば綺麗に鳴る』
「こ、こう……?」
隣の弦にふれてしまないよう気をつけて、知らず息を止めて、言われた通り一本だけ、えいと弾く。
自分の指先があまりにきれいな音を響かせたその瞬間、全身に鳥肌が立つ感じがした。
『上手だ。きみの指は奏者に向いているな』
ハリトはそう言って褒めてくれた。
本当に? と顔を上げるシエルに頷いて目を細め、見ていろと言うようにバコラを抱え直す。
左手で長い首のほうの弦を、右手で広い胴体の弦を弾くように構える。それからゆっくりと音を鳴らしてみせるが、たしかにどの指も弦を押さえてはいないようで、細い弦と弦の間で指先を軽やかに踊らせるように、弾きたい弦だけを器用に弾いているらしい。
『興味があるのなら正しい弾き方を教えよう。簡単な曲ならさほど難しくはない』
「……いいの?」
『ああ。きみになら』
ぎこちなくも優しい微笑。それは今度こそ、彼らしいあたたかな言葉だった。
ハリトはバコラの弦を撫で、えも言われぬ美しい調べを響かせて、練習をすればこのように鳴らせるということを教えてくれた。
『一月か二月も練習すれば、すぐに簡単な一曲を弾けるようになるだろう。おそらく君の時間には限りがないから、いずれは俺の知る全ての歌を覚えられるかもしれない』
「え……?」
シエルは思わず聞き返してしまったが、ハリトは黙ってその視線を受け止めた。
彼の知るすべての歌を覚える。それには一体どれほどの時間がかかるのだろうかと考えて、シエルは気づいた。
ああ、そうか。
わたしはもうこの人たちと離れることはない。おそらくこれから先、ずっと一緒なのだ。
この馬車の持ち主に、自分で自分を売ったのだから。
『帰ってきたら早速教えよう。あの男が出かけるなら俺は留守番をしていなければいけないから、ここできみの帰りを待っているよ』
よく見ると、エメラルドグリーンの瞳には深い寂寥が浮かんでいる。
この楽器を間近で見せてくれたあのとき、わたしが興味を持ったことを覚えていてくれたのだろう。今まで交わした言葉も、この人は一つ一つ全部覚えてくれているに違いない。
そんなこの人とこれからずっと一緒にいられるというのに、なぜか嬉しさや喜びを感じることはできなかった。
返す言葉を見つけることができなかった。
この人はそんなわたしのために、この楽器に興味を抱いた少女の心を一層大切にしようとしてくれているのだということを理解して、ますます何も言えなかった。
この馬車で人形として所有されることを選んでしまったシエルが、せめてその心を失ってしまうことがないように。
――そんな、祈るような願いが伝わってきたから。




