29.仮初の愛
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「ではお嬢サン、まず貴女の準備からですネ。先程お約束した通り、貴女はもう私のもの。お人形は主人に一切抵抗してはいけません。嫌がることも悲鳴を上げることも禁止です。私にそういった趣味はないので傷つきます。よろしいですか?」
「は、はい」
「では失礼して。あ、ちょっと腕を広げていてください。そうそうそのまま」
自分で言ったことを、少しだけ後悔していた。
ほしいものをあげればフィニアンに協力してくれるというなら、わたし自身を。この人は珍しい人形としてのシエルを欲しがっていたようだから。たぶん、それをハリトに止められて、ほしいおもちゃをお預けされた子供みたいに、残念そうにしていたから。
けれどもしかしたら、少し考えてきちんと交渉すれば、もう少し契約をゆるめることができたかもしれない。でもそんな交渉なんかしたら、シエルが少しでも尻込みしていたら、頼みを聞き入れてくれなかったかもしれない。
だから、言うことを聞くしかない。
「……っ」
胸元に手が伸びてきた瞬間、シエルは思わずぎゅっと目をつぶった。
しゅるりと紐を解かれる音。合わせを解かれたローブは手際よく脱がされてどこか傍らに置かれ、次は下に着ている紺色のワンピース。先に頭巾を外すとワンピースは頭からかぶるだけの簡素な作りなので、「腕を上げて」と言われたとおりにすれば簡単に脱げてしまい、あとはリネンの肌着一枚だけになってしまった。
何をされるのか怖くてとうとう手足が震えだしたとき、フィンドールが苦笑した。
「そんなに目をつぶっているとかえって恐ろしいでしょう? 痛いことは何もしませんから、どうぞご安心を。というか目を開けてください」
ぎ、ぎ、と床板を鳴らす足音がシエルから少しだけ離れる。おそるおそる薄目を開けてみると、フィンドールは近くの衣装箱から取り出した二着のブラウスをそれぞれ広げてシエルに見せた。
「コチラとコチラ。どちらがお好きですか?」
「え……?」
どちらも色は白。襟元や袖口にフリルを少しだけあしらって上品なレース刺繍を施したシンプルなもの。よりたっぷりしたフリルが幾層も重なってふんわりと広がる袖の形がまるでお姫様のドレスのように見えるもの。どっちが好きかと言われても、シエルは答えられない。
右に左にと定まらないシエルの視線を注意深く見ていたフィンドールは、心得たように言った。
「――コチラですネ。では、早速袖を通していただいて」
「え、え」
選ばれなかった一方は衣装箱の中に戻されて、フィンドールがシエルに着せかけたのは後者のほうのブラウスだった。確かに、飾り気の少ないシンプルなものよりは、そちらのほうに目を引かれてしまったけれど。
慣れた手つきで上から順番にボタンを留められリボンを結ばれ、シエルはまさしく人形のように服を着せられていく。繊細な刺し子が入った暖かなスカートを履かせ、椅子に座らせて保温性の高そうな膝丈のストッキングを履かせ、それをシルクのリボンを結んで留めてからまた立たせ、次はコットンのベストのようなものを着せる。しゅっしゅと小気味いい音をさせながら上から下に紐を通してしっかり締めていくが苦しくはなく、シエルはされるがままになっていた。
そして最後に着せられたのは、きれいな金糸の刺繍が入った厚手の天鵞絨生地の青いドレスだった。
ブラウスの袖のフリルが豪奢にこぼれる、なんてかわいいお嬢さんのような服だろう。うっとりするような手触りと、光沢のある深い青色。シエルにとっては未知の体験であるドレスの着付けは、背中の紐をきれいに編み上げてようやく完成したようだった。
「それでは素敵なお嬢サン、これから私が言うことをよくお聞きくださいネ」
と、フィンドールは再び椅子に座らせたシエルの長い白髪をひとまとめに持ち上げながら言った。
今度は髪の毛をどうにかするつもりらしい。どこからいつの間に取り出したのか、柔らかい獣毛のブラシを当てて丹念に梳かし始める。
「まず一つ。貴女は私の娘です。先立った妻が残した忘れ形見。年が長けてようやく授かった待望の一人娘か、それともかわいい末娘か……いえ、やはり妻子を持たない私が、奴隷として売られていた孤児の貴女と偶然出会い、この白い髪と星空のごとき瞳を気に入って養女に取った。それでいきましょう」
唐突に何を言い出したのかと、シエルは目をしばたたかせた。
しかしその語り口調には、たとえ通りすがりでもつい足を止めて耳を傾けたくなる魔法がかけられているようだった。
「二つ目。私の名はルシウス・ヒューベルテュス。正式な身分はクロアドゥール建国議会の議員です。ほかにも様々な顔を持ち、どうやらトランバニアの名誉貴族でもあるようですネ。先代エヴァンゼール伯爵の知己であり、かつて何度か祝祭のセレームを訪れたことがあります。そんな私の娘である貴女の名前は……」
話を聞いているうちに何かいい香りがしたと思ったら、髪の毛に香油をなじませているらしい。今まで嗅いだことのない、甘やかで上品な、とてつもなくいい香りだ。
一旦言葉を切ったフィンドールはその髪に櫛を通しつつ黙考し、すぐ思いついたように言った。
「――ユーリア。よい名前でしょう? 貴女は生まれつき目を患っており、ごくわずかな光しか感じ取ることができません。ですので、外を歩くときは常に誰かが手を引いてあげなければいけない。繋いだ手が離れてしまうと一人きりで闇の中に取り残されてしまう不安から、とても臆病で大人しい少女です。私は変わり者ですが、そんな貴女をとても大切にしています」
今までこんなお世話をしてもらった経験なんてないが、それでもとびきり丁寧に手入れをしてもらっている、ということだけはわかる。
それ自体が芸術品のような黒檀の櫛を通された髪の毛にそろりとふれてみると、自分のものとは思えないような手触りに変わっていて驚いた。
「どうです、なかなか楽しそうでしょう?」
「う、うん」
同意を求められ、シエルはどぎまぎしながら頷く。
実際、話には聞き入ってしまっていた。それはきっと架空の物語だ。不幸な生い立ちの少女が自分を愛してくれる人に出会い、今はその愛情を一身に受け、こうして毎日大切にされながら暮らしている。名前はシエルではなく、ユーリア。
こうしてきれいな服を着せてもらったわたしは今、その子なのだ。
「身支度を済ませたら、このあとエヴァンゼール伯爵のお屋敷にお伺いしますからネ。怪しい旅芸人と家無し少女というわけにはいきませんので、このような設定でまいります。わかりましたか、ユーリア?」
早速その名前で呼びかけられてどきりとしてしまった。
それよりも、今から。
あの、領主様の屋敷に。
なるほど。これはそのための〝準備〟だったのかと、シエルはようやく理解して顔を青くした。
目の前に鏡が置かれているわけではないので自分では自分を見ることができないが、フィンドールはきれいに梳かし終えたシエルの髪を編み込むように結っている。――さっきのはただの架空の設定であるはずなのにあまりにも手慣れているせいで、何だか本当に毎日こうしてこの人に身なりを整えてもらっているかのような、そんな錯覚さえしてくる。
どのみち、「嫌」と言ってはいけない。協力を頼んでおきながら拒むのもおかしい。それに、おそらくあまり時間もないのだろう。
というか実際に何をどうするかなんて何も考えていなかったし、フィニアンと二人で考えても知恵は浮かばなかったはずで、この人、本当に協力してくれるんだ――と意外にさえ思いながら、シエルは怯える気持ちを飲みこんだ。
「……あなたのことはなんて呼んだらいい?」
言うことを何でも聞くという意思表示のつもりで、そうたずねる。
フィンドールは編みこみの仕上がりに細かくこだわりながら思案する。
「そうですネェ……貴女は私の娘なのですし」
「お父さん?」
自分から思いついてそう言うと、その手が一瞬止まった。
「あ。貴族の女の子なら、お父様……? あと、父上とか……」
これまで色々と読んできた物語の中の様々な身分の少女たちを思い出しながら言う。どうやら自分でも、そのお芝居をすることについては少しだけ乗り気になってしまっているらしい。
そんなシエルを見て微笑ましいとでも思ったのか、フィンドールは普段より柔い口調で答えた。
「フフ。お父さんでいいんじゃないですかネ。貴女は貴族として厳しく教育されてきたわけではありません。ただただかわいい天使のように愛されている女の子。言葉遣いはいくらか拙いほうが愛らしく、設定的にもぴったりですヨ」
前髪や横髪を整える手が頬や額にふれるのが少しくすぐったい。手袋をしているので肌に直接ふれるわけではなく、決してぞんざいにはしない、壊れ物を扱うような手つきだ。
何を考えているのかまったく読めない人なので、本当に優しくされているのか、それとも既にお芝居を始めているだけなのかも判断がつかない。はたしてどこまでが本当で、どこからが嘘なのか。あるいは全部本当で、もしくは全部嘘なのか。
「愛していますよ、ユーリア」
フィンドールは魔法使いが最後の仕上げをするようにそう言った。
まるでその物語の少女のように、シエルを心から愛しているかのように。




