28.幸福の在り処
すっかり悄然としてしまった様子の鳥が目の前にいる。
彼女の着替えのために追い出される形で二階に上がったハリトは、別に何を言われたわけでもないのに自分についてきた黒い鳥に憐憫の目を向けていた。
『……ねえハリト。あの人、あの子に本当にひどいことをする人ではないよね』
『心配ならあちらについていればよかったのでは。俺が言葉で肯定したところであなたは安心できるのか?』
精霊とは概して無邪気なものだ。助けを求められれば助ける。求められなくても自分が気に入った者を助ける。望まれれば何でも叶えようとする。富を願えば金脈の在り処を。永遠の愛を願えば盲目の恋をと――そこに自他の境界などないから、ごく当たり前のように人を信じてその願いを受け入れる。魔女に見初められて精霊になったというこの青年は、きっと人間だったときからそのような性質を持っていたのだろう。
人間であるにもかかわらずそのように生きていたのなら、見返りや損得など何も知らないよほど純粋な心の持ち主で、元より薄命な生涯であったに違いない。
『きみが心配していないなら、きみのことを信じるよ』
と、黒い鳥はそう言った。
目の前――膝の上に抱えたバコラの頭をいかにも丁度よさそうな止まり木にして、つぶらな青い目でこちらを見つめている。
ハリトは溜息をつき、手慰みのためにバコラを抱え直した。
実際のところ何かを危惧する必要はまったくない。所有するということは即ち、素手で不用意に触れることもなく、傷一つ付かぬよう常に細心の注意を向けて美しい状態を保つということ。蒐集家とはそういうものだ。
そして、気に入りの蒐集品は二度と手放すことはない。
しかし――彼を助けたいと彼女自身が願ったのなら、それは仕方のないことだ。
他人に物を頼むのなら相手が望む報酬を用意しなければいけない。それはただの道理だ。法外の要求に見合うだけの持ち合わせがあったことはむしろ僥倖でしかなく、さもなくば自分たちは今にもこの町を発っていただろう。あれの言う通り、こちらにはこのまま冬に閉じ込められる危険を冒してまでこの町を助ける理由も留まる理由もありはしないのだから。
『あなたはあの狼に襲われた後、その姿で逃げたのか』
『うん、そうだよ。それとあんな狼が町の中にいるはずがないから、どこに帰るのか確かめなきゃいけなかった。きみはその間にあの子を助けてくれたんだね』
黒い鳥の声を聞きつつ、何を弾こうと考えるでもなく指先は弦に触れる。音が空気を震わせ、その余韻が美しい旋律を導くように連れてくる。
『……何の曲?』
黒い鳥はあのときの少女と同じように小首を傾げた。
ハリトは答えなかった。これは本当にただの手慰みなので、答えようもない。
答えが返ってこないことを知り、黒い鳥は特にそのことを悲しんだりはせず言葉を続けた。
『あの狼はお屋敷に帰っていったよ。三か月前に一度だけお屋敷を訪ねたときは見かけなかったから、最近になって山から迷い出てきたか、何かあったんだと思うけど……本人に聞いても答えてくれなくて。ごめん、僕ぜんぜん役に立たないね』
『だから助けを求めてきたのだろう。助けを求める相手も間違っていない。少なくとも、あなたには幸運がついている』
『そうかな。でもありがとう、きみは優しい人だね』
人の姿であれば、きっと美しい微笑を見せていたところだろう。
それにしても、力を持たない精霊というものは今まで見たことがない。それはもはや自然の一部でしかなく、そもそも個として存在することがないからだ。そう考えると自力で姿を保つことさえできない目の前の鳥はもうほとんど彼の残り滓のようなもので、あとは消えるのを待つばかりとしか思えない。
大切な物を取り戻したところで、この雪を止ませることなどできるのだろうか。
ハリトはそのことをたずねようとしたが、その前に別の質問を投げかけられた。
『……そういえば。フィンドールさんは協力を引き受けてくれたけど、きみはよかったの?』
『座長が決めたことに意見はしない。良いも悪いも俺にはない』
『シエルのことは?』
質問の言葉は曖昧でも、意味は伝わる。
あのようなことを言ってしまった彼女のこれからを思って、胸が痛みはしないのかと。
ハリトは首を横に振った。
『あなたに言っても仕方がない』
彼女が特別な動力を必要とする自動人形である以上、知識と技術を持った人間の手元に置かれることが最も安全であることは疑いようもない。
彼女の選択は正しいのだ。
しかし個人的な感情として、それは正しくとも望ましいことだとは思えなかった。
たとえそうしなければ長くは生きられないとしても、あんなに傷つきやすい心を持った少女を人形のように扱うべきではない。人形として誰かに所有されるようなことは、あってはならない。
彼女とってどちらが善いことなのか。それを決める権利など自分にはない。しかし、彼女が一人の少女として最も安心していられる場所がどこなのか――それだけは知っていたから。
『俺はあの子をあなたのもとに帰してやりたいと思っていた。しかし人が何を思おうと、全てはあらかじめ運命に書かれていることだ』
悲しみを覚えることはない。
ただ、どうかあの子の身にこれ以上の不運が降りかかることがないように。
心からそう願うだけだった。




