27.約束と契約
夢を見ているのかもしれない、と思った。
今度こそ、もう二度と会えないのかもしれないと思っていた。
「――フィンドールさん、貴重な鉱石を分けてくれてありがとう。たぶん、あまり長くはこうしていられないと思うけど」
トポトポとカップにお茶を注ぎ入れる音が響く。
手ずから用意したお茶をシエルとフィニアンそれぞれに差し出し、笑うピエロの仮面をつけたフィンドールは再び椅子に腰を下ろした。
「私がお嬢サンに差し上げた物を、お嬢サンが貴方に差し上げたまでのこと。私へのお礼は結構ですヨ。して……そのようにご自身の最も重大な秘密を明かすことさえ厭わずに我々を訪ねてこられた、貴方のご用向きは何でしょう?」
にっこりと慇懃な様子でたずねるフィンドールに、フィニアンは頭を振った。
「そこまで秘密にしていたわけじゃないよ。今の町の人たちと一緒に暮らしてみたくて、この土地のために使う力をほんの少し自分のために使ってただけ。それくらいのわがままなら、彼女も許してくれるだろうから」
「フム。彼女とは何処の何方です?」
二人は穏やかに会話を進めているが、シエルは一人おいてけぼりを食らっているかのようで、まだ何も理解が追いついていない。
シエルからすれば、あのとき姿を消してしまったきり。そのあと殺されたのだと言われていたはずのフィニアンが、なぜか黒い鳥の姿でシエルのもとに戻ってきて、いま再び、元のきれいな青年の姿で目の前にいる。
話で聞いていたようなおそろしい怪我などしていない、そんな様子など微塵もない、本当にきれいなままで。
「フィニアン」
シエルが思わず彼の服の裾を引くと、彼は視線をこちらに流して微笑み、立てた人差し指を唇に当てた。静かに。または、後でね、という意味だ。春風のような笑みを浮かべてはいるが、今は話す時間を惜しんでいるようだった。
その指先がうっすらと透け始めていることに気づいたシエルは、「え……」と放心するような声をもらした。
シエルが気づいたことに気づいたのだろう。フィニアンは微笑を深くして顔を寄せ、そっと囁くように言った。
「驚かずに聞いて。見ての通り、僕は本当は人間じゃないんだ。でも元々は人間で、きみに話したように貧民窟の家無し子だったのは本当だよ。親も兄弟もいなくて、いつも寒さに震えてた。……何百年も昔にね」
あまりにもすんなりと、彼はシエルに秘密を明かした。
やっぱり、彼自身にも隠し事はあったのだ。そのことを本人の言葉で知らされた衝撃よりも、なんびゃくねん、と頭の中で何度反芻しても信じられない気持ちのほうが大きくて、何も言葉が出なかった。
ずっと湛えていた秘密を明かした薄青色の目はより一層深く澄んで、いっそ神秘的な眼差しでシエルを見つめてから、先のフィンドールの問いに答えた。
「彼女はニヴオールの魔女。今は冬の魔女と呼ばれている、誰よりもこの土地を愛していた人だよ」
どきん、と心臓が大きく跳ねる。
冬の魔女。
聖典の書で、神父様の説教で、それから彼が教えてくれた物語の中で、何度となく聞いたおそろしい名前。
しかし彼は今まで一度としてシエルに聞かせたことのない、明らかに違う語調でその名前を口にした。
「はて……」
その言葉を聞いたフィンドールは記憶を手繰るように顎を撫でる。
「……それはまた随分と古い地名ですネ。何百年どころか……何時の時代の話です?」
「地名は僕が生まれるよりずっと昔のものだからはっきりいつのことかはわからないけど。僕が生まれた頃、セレームはいつも雪が降っていたせいで寒くて貧しくて、余分な子供や病人は口減らしに北の山へ送られてた。そのときにはまだ、北の山に実際に棲んでいた彼女はニヴオールの魔女と呼ばれていたよ。その年は吹雪がとても厳しくて、僕は魔女の慰めにされることになったんだ。吹雪を起こすニヴオールの魔女は、レターニア山の青い宝石の輝きを好むとされていたから」
しん、と沈黙が降りた。
ハリトは黙って部屋の隅に佇んでいる。シエルは言葉を失っており、フィンドールは彼が話し始めたその内容に興味深く聞き入っていたようで、「どうぞ、お続けください?」と茶菓を勧めるように首を傾げて話の続きをうながした。
フィニアンは微笑ともつかない曖昧な笑みを唇に乗せ、少し迷うような口調で続きを語った。
「彼女が言うには、この土地がニヴオールという古い名前で呼ばれていた頃は緑がとても豊かなところで、春にはたくさんの花が咲いていた。けれどあるときから土地の力がどんどん失われていって、冬にはおそろしい寒波がやってくるようになった。彼女は特別な力を持っていて、その寒波からこの土地を守ろうとしていたんだ。――特別な力を持って生まれた代わりに口をきくことができなかったせいで、誰もそのことを知らなかったけれど」
今まで教会で慣れ親しんできた話とはまったく違う話を、彼はシエルの前で初めて語っている。
正教会の神様の教え。聖女エルフィーヌの奇跡の物語。それらは人々が信じるべきものであり、疑うことなど考えもしない。
彼の口からそんな話が語られていることが信じがたく、聞いているのがおそろしい気がして、シエルは無意識のうちに先ほどもらった薬袋と懐中時計を胸に押さえつけていた。
フィニアンは憂いを帯びた薄青の瞳に長い睫毛の影を落とし、彼も自分の左胸に手を当てた。
「寒波はどんどん強くなって、土地の力はどんどん弱くなって。もう彼女の力だけでは足りなくなってしまっていたから、彼女は土地の力を強くするための道具を作ることにした。自分の特別な力をいつまでもこの土地に巡らせて、それがより大きな力になるように。……土地の精霊として生まれ変わらせた僕にその力を預けて、いつまでもこの土地を守ることができるように。僕が奪われてしまったあれは、彼女が作った大切な永久機関なんだ」
人であれば脈打つ心臓の鼓動を感じるはずのその胸の中は今、からっぽだというのだろうか。
見た目では何もわからない。わかるのは、さっきは指先がうっすらと透けている程度だったのに、もうその手がほとんど透明になって消えかかっているということだけだ。
話を聞いたフィンドールは、「フーム……」と腕組みして一旦天井を仰いだ。
それから改めて、フィニアンに向き直った。
「貴方のご事情はよくわかりました。お話の寒波というのも心当たりがあります。おそらくは旧ペルネージュ王国暦九七〇年頃の大寒波。貴方は八百年前の人間で、死した後に魔女の力で精霊に生まれ変わり、本来ならば永劫の雪に閉ざされるはずであったこの土地を守護する存在になったと。大筋はそのような理解でよろしいですか?」
「すごい。……あなたは本当に物知りなんだね」
フィンドールがすらすらと述べた答えを聞いて、フィニアンは驚いたらしい。見事な正解だったのだろう。
旧ペルネージュ王国?
八百年前? とシエルの頭の中にはさらなる疑問が増えるばかりだ。二人の間でのみ、まるで互いに時を越えるかのように会話が成立している。
フィンドールはしばし黙考しつつ、馥郁とした香りのお茶を一口飲んで、相変わらず貴族のような所作でカップを置く。
それからふうと息をつき、さっと顔に手をかざしたかと思えば、困り顔のピエロの仮面でにっこりと笑った。
「現在の状況を鑑みれば、お話を信じるほかないのでしょうが……そのお話を信じるのなら、この町はもう終わりでは?」
一見すると心から同情をあらわしているようでいて、その実、口元は笑みを隠そうともしていない。
え、と虚を突かれたようなフィニアンの声が聞こえた。
フィンドールは彼に対してあくまで慇懃な態度は崩さずに、しかしあからさまに揶揄するような口調で言った。
「緑豊かな土地の力は既に枯れており、その永久機関とやらによるエネルギー循環の補助がなければ、新しい草木が芽吹くことはなく凍った川の流れが戻ることもない。即ちこの土地は既に死んでいる。八百年前の時点でそのように死んでいた土地を、時と自然の摂理に反して無理矢理に永らえさせてきただけに過ぎない。貴方がその大いなる力の源を失った今、はたしてこの雪は止むのでしょうか。ただいまお聞かせ下さったお話は我々に一刻も早くこの街を離れるようにという、親切な精霊からの勧告と受け取ってよいのですか?」
まさか助けてほしいなどと仰いませんよねと、その笑顔は言外にそう言っている。
いや。
「――まさか、助けてほしいなどと宣うおつもりではないでしょうネ? 支払う対価さえ持ち得ない、力をなくした精霊ごときが」
実際に紡ぎ出されたその言葉は、シエルの想像以上に断固として厳格な拒絶の意を彼に伝えた。
ただ隣にいるだけなのに、シエルは思わず身体を竦ませた。
フィニアンはあまり動じなかった。しかし、見るとその顔は凍ったように表情が消えていた。
誤解なきように申し上げます、とフィンドールは笑うピエロの仮面に戻し、改めて机の上で両手を組む。
「貴方のお話に耳を傾ける価値はありました。もはや誰も知る者のいない伝承の真実。季節外れの雪を降らせる呪いとやらの種にも興趣はありましたが、しかし知ってしまえばただそれだけのこと。何度も申し上げておりますように、我々はただの旅芸人。この町に愛着があるわけでも、聖エルフィーヌの信仰者でもありません。つまり、この町を救うために何らかの助力を差し上げる義理はまったくないのですヨ。お話を聞いたからには、これ以上雪が深くなる前にさっさとこの町を出るしかないでしょう」
「それは……そう、だね。そのとおりだと思う」
フィンドールの言葉を聞き終えたフィニアンはかすれた声でそう言って、ゆっくりと、まるで石でも飲み込んだかのようにうつむいた。
言われて初めて、そのことを失念していたことに気づいたようだった。
おそらく、本当に必死だったのだろう。だから肝心なことが抜けていたのだ。
彼にとってはこの町が世界の全てでも、外から来た人間にとっては決してそうではない。フィンドールはそのことであえて彼を嘲弄し、わざと嬲るような言い方をしている。
それは助けを求めてきた彼に対して、あまりにも残酷な仕打ちだとシエルは思った。
やれやれと肩を竦め、フィンドールは嘆息した。
「――この私がそう何度も何度もたかが善意で人のために動くと思ったら大間違いなのですヨ、まったく。エヴァンゼール伯爵が貴方の心臓を使って何をどうしようが、広い世界への影響はせいぜいこの町一つが雪に覆われ地図から消える程度のこと。それ自体、我々にとっては知ったことではない。至極どうでも良いのです」
そのように独りごちながら悲しいピエロの仮面に付け替えて、憐れむようにフィニアンのほうを見やる。
「だいたい貴方八百年も生きてきて、神父の命ひとつ救うためにその特別な力を下手人の目に晒すなんてあまりにも迂闊が過ぎたのでは? この町の人々にはまことに気の毒なことですが、この事態は半ば貴方の自業自得。土地の精霊が私情と私欲をもった報いです。まあ八百年間働いてきたわけですし、別にこのまま消えたって罰は当たらないでしょう。それとも何か我々が貴方のために働くに値する対価となる物をお持ちです ? まあこんな辺鄙な町で貴方が得られる物などたかが知れている。唯一得難い価値が認められるとすれば貴方が奪われてしまった永久機関くらいのものでしょうが、取り戻したところでそれを下さるわけでもないのでしょうし……」
「――フィンドールさん!」
いい加減聞いていられなくなって、シエルはたまらず椅子から立ち上がった。
完全に凍りついていたフィニアンはそれを見て、驚いたように目を瞠った。
何でしょう? とフィンドールは立ち上がったシエルをにこやかに見上げる。その笑顔が決して優しいものではないことはもう知っている。
シエルは両手で力いっぱい胸元を握りしめて頭を振り、思い切って言った。
「それなら、わたしをあなたにあげるから。それならきっと足りるでしょう? お願い、フィニアンのこと助けてあげて」
「……シエル?」
茫然自失の声でフィニアンが呟いたのと同時に、カップを取って二口目のお茶を飲もうとしていたフィンドールの手がぴたりと止まる。
ピエロの仮面の奥にあるあの目が、シエルの顔をじっと見つめてくるのを感じた。
やけに長く。
上から、下まで。
じっくりと吟味するように。
そうしてフィンドールは静かにカップを置き、その手で再び自分の顎をつまんだ。
「フム。それは、ご自身の所有権を全て私に委譲していただけるということでしょうか」
「う、うん」
「貴女自身に代わる貴女の新たな所有者として、以降私は貴女に何をしても良いし、貴女をどのように扱っても良い。好きに抱こうが興味本位で解体しようがぶっ壊そうが、貴女はその一切の拒否権をここに放棄する。そのような契約的発言と受け取ってよろしいのですネ?」
「えっ? ……それは」
そこまでは言っていない――思わず喉まで出かかったけれど、あげる、という言葉だけでは確かに支払う対価としては曖昧で、きちんと明確にするなら、そういう意味になるのだろうか。
「言っておきますが」
立ち上がったシエルに対してフィンドールもゆっくりと立ち上がり、テーブルの上に両手をついて身を乗り出し、シエルの目と鼻の先――ほとんど吐息がふれあうくらいの距離にまで舐めるように顔を近づけて、言った。
「たとえ口約束でも、私との契約は絶対ですよ。物の弾みでそんなことを言ってしまって本当によろしいのですか?」
いつもの調子外れな口調とは別人のように低い声が耳に忍び込んできた瞬間、爪先からから喉元までおそろしい悪寒が這い上がってきてぞわりと全身の肌が粟立った。
しかし シエルは自分を懸命に奮い立たせて、臆さずその目を見つめ返した。
「いいよ。……フィニアンを助けてくれるなら」
声は、震えてしまったが。
フィンドールは低く喉を鳴らす笑い方をして身体を離し、満面の笑みを浮かべた。
「よろしい。では承りましょう」
恐怖に縛られて、息を止めてしまっていたらしい。
ふう……と息をついて、胸を押さえる。鼓動が早鐘を打っている。頬が、額が、やけに冷たい。
ハッと我に返って、慌てたのはフィニアンのほうだった。
「だ、だめだよシエル。そんなこと。きみだって、この人たちと一緒に町を出ればいいんだ。きみがそこまでしなくても」
「そんなことできるわけない」
ひどく狼狽しているフィニアンの取り縋るような言葉を聞いて、シエルはぴしゃりと言った。
見れば、もう既にその顔もうっすらと透け始めている。土地の精霊だなんてまるでおとぎ話みたいな話なのに、本当なのだと思うしかない。きっとあの黒い鳥が彼の本当の姿で、大切な力をなくしてしまったという今の彼にとって、この人間の姿を保っているのは楽なことではないのだ。このまま放っておいたら本当に消えてしまって、手を伸ばしても、声を出しても、届かなくなる。そんな気がしてならず、だんだんと込み上げてきた涙とともに、シエルは彼の両肩をつかんだ。
「あなたが困ってるのに、このままだと消えちゃうのに、見捨てていくことなんてできない……! 関係ないなんて関係ないの、あなたが助けてくれたから、ずっと守ってくれてたからわたしはここにいられるの。協力してほしいってあなたがお願いしたんでしょう? あなたのためなら、わたしだって何でもするの!」
自分でもこんなに大きな声が出るとは思わなかった。フィニアンはどやしつけられたかのようにびっくりして固まって、薄青色の目をこれ以上ないほど見開いた。
それから何度か瞬きをして、魂が抜けてしまったかのような、すっかり放心した声で。
「あ、ありがとう……」
もう手の輪郭はほとんど見えなくなってしまっているが、彼は自分の肩をつかんでいるシエルの手にふれるようにして、ようやく表情をゆるめた。
きっと、ずっと不安だったのだろう。ひどく申し訳なさそうな、苦しそうな、でも、花びらがそっと開くような、ようやく安心したような――シエルが今まで見たことのない、そんな表情だった。
「ウフフ。これなら私もこの町にきた甲斐があったというもの。というわけで喜んで協力して差し上げますヨ、教会のフィニアンさん」
すっかりご満悦の様子で椅子に座り直したフィンドールは、そんなフィニアンに向かってコロリと科を作ってみせた。
今までほとんど気配もなく、壁際に黙って佇んでいたいたハリトがひそかに溜息をつくのが聞こえた。ずいぶん長い溜息だった。
これほど時間が立ったのに、フィンドールが手にしたカップを満たす蜂蜜色のお茶はまだ温かな湯気を立てている。
出されてから一口も飲んでいない、シエルとフィニアンのお茶はとっくに冷めきっているというのに。
自分ばかり温かなお茶を飲みながら、仮面の道化師はほくそ笑んだ。
「――さて、まずは何から始めましょうかネ」




