24. 夢から覚めて
――夢を見ていたのかもしれない。
長い夢を。
でも、それはどんな夢だったのだろう。
霞みがかった誰かの面影が目蓋の裏に残っている。
けれど――ついさっきまで見ていたはずなのに、どんなにその景色を思い出そうとしても、色褪せた夢の光景は果てしなく遠い。
「ん…………」
まなじりから冷たい雫がこぼれて頬を濡らした。
その冷たさを感じたことで、自分が目を覚ましたのだと知った。
薄く開いた視界はぼんやりとしていてすぐに焦点を結べない。身体は暖かい毛布にくるまれていて心地良い。意識はまだ半分ぬるんだ微睡みの中にあり、このまま再び目をつぶったらどんなにか気持ちいいだろう。すぐそばには夢の中で見たような暖かい存在を感じて、離れないようにぎゅっと抱きついた。そのぬくもりに安心して、また眠りそうになる。誰かの手が優しく頭を撫でてくれている。ああ、でも、そろそろ起きなきゃ――……そう思いながらも睡魔に抗えずにいると、眠りかけの意識をそっと揺り起こすように、
『お嬢さん』
と、声質の瑞々しさに不釣り合いなほど落ち着いた少年の声がした。
シエルはのろのろと目を開けて、何度か瞬きした。しかし、目の前は塞がっていて何も見えない。何かを包んだ布に顔を埋めていたからだ。今のは誰? と重い頭をもたげて声の主を探そうとしたところで、寝ぼけていたシエルは、ようやく自分が無遠慮に抱きしめていたものの正体を知った。
「! は……わ、わ、ごめんなさ……っ!」
あろうことか、人様にしがみついたまま眠りこけていたらしい。
大慌てで跳ね起きると、壁にもたれて座るというより半ばシエルに押し倒されたような格好になっていたハリトは首を振った。
『気にしなくていい。よく眠れたようでよかった』
と、そう言って目元をゆるめる。でも、それにしても、とシエルはうろたえた。この人、なんて痩せているんだろう。痩せているわりに服越しの体温はとても暖かかったのだが、抱きしめた胴体の感触は人の身体というより布に包まれた板みたいだった。だから余計にシエルは心配した。
「か、身体、大丈夫? 痛くない?」
『何も一晩中こうしていたわけではないから平気だよ。こちらこそ、寝台に運んでやれなくてすまなかった。中からはそこの梯子でしか上に行けないんだ』
そこ、と視線で示された先に昇り降りするための梯子が下ろしてあって、天井の一部が二階に続く跳ね上げ扉になっている。あれでは確かに人を運ぶのは無理だろう。でも、そこまでしてもらわなくても。この毛布だって、わざわざ上から持ってきてくれたものに違いない。
ストーブの火は消えていた。部屋の中の空気は冷えてはいるが凍えるほど寒くはない。
いや、寒くないのは毛布をかけてもらっていたおかげだ。凛と肌にふれる冷気を感じながら、暖かい毛布の中で目覚める――ちょうど、冬の朝のようだった。
一晩中、とハリトは先ほど言っていた。
まさか。
「もしかして……もう、朝……?」
『ああ。そろそろ朝食を用意しなければいけないから起こした。まだ寝たければ寝ていても構わない』
ハリトはそう言うとシエルを置いて立ち上がり、さすがに肩や背中が凝り固まってしまったのか軽くほぐすような動作をして奥に向かった。昨日の湯沸かし器や、ほかにも大小様々な自動装置の類が置かれている奇怪な一角。どうやらそこが彼らの台所らしい。
しゅんしゅんと蒸気が上がり始める音を聞きながら、シエルはふと、もう一人の姿が見えないことに気づいた。
「……フィンドールさんは?」
『外の様子を見に行った。まだ雪が止む気配はないようだ』
床の上でぼんやりと毛布にくるまったまま、手際よく立ち働いている姿を眺める。料理をしている、ということはすぐにはわからなかった。そういえば、誰かが料理をしているところなんて今まで見たことがなかったから。
近づいたら、邪魔になるだろうか。
何を作っているのだろう?
ほどなくして鍋の中から不思議な香りが漂ってきて、シエルは思わずくんくんと鼻先を動かした。きっと、セレームの料理ではない。やがてハリトが器に入れてテーブルに持ってきてくれたのは見たことのない色をしたレンズ豆のスープと、温かいスープに浸されている保存用の固いパンだった。
一体どんな味がするのか興味をひかれて思わずスプーンを手に取ろうとしたシエルは、ハッと慌てて両手を組み、唇になじんだ祈りの言葉を唱えた。
「――天使様。あなたの春のお恵みに感謝してこの食事をいただきます。どうか、ここに用意された異国の食べ物にも天使様の祝福をください。わたしたちの心と身体を支える糧にしてください」
朝と夜。食前と食後に欠かしてはいけない、大切なお祈りだ。
たとえこんなときでも。きっと、どんなときでも。
昨日は祈ることさえ忘れていた。けれど神父様も教会の子供たちも、こんなときだからこそ心を込めて、きちんとお祈りしているはずだった。
ふうと息をつくと、どうやらハリトも目を閉じて一緒に祈ってくれていたようだった。目が合うと微笑んで、どうぞ冷めないうちに、と手振りで勧められた。
それにしても変わった匂いがする。最初の一口をおそるおそる食べてみると、おいしかった。
今まで教会で食べ慣れていた素朴な味とはずいぶん違う。風変わりな味わいで、パンにもよく合う。
シエルはもくもくと食べていたが、ふと、ハリトの器にはパンが入っていないことに気づいた。スープだけで足りるのだろうかと思っていると、彼はこちらを見ずに答えた。
『俺はこれだけでいい。パンが足りなかったわけではないから、遠慮する必要はないよ』
そのときに彼のほうを見て、あっと気づいた。――食べないのではなく、食べられないのかもしれない。
教会でも一週間分のパンをまとめて焼いておき、毎日少しずつ食べていた。そんなパンは日数が経つごとに水分が抜けてだんだんと固くなり、ひどいと石みたいにカチカチになる。だからスープに浸して食べるのだと最初の頃にフィニアンが教えてくれなければ、シエルは歯の立たないパンを少しずつかじって飢えをしのいでいただろう。
ただ彼の場合はパンの固さだけが問題なのではなくて――そもそもの顔が半分こわばってしまっているから、物を食べること自体が難しいのだ、ということに気づいてしまって、シエルは横から頭を殴られたような衝撃を受けていた。
頭の中に聞こえる声と話すことにもその見た目にもすっかり慣れてしまって、シエルは彼が顔面に大怪我を負っているという事実を忘れかけていた。ほとんど骨と皮みたいに痩せているのも、もしかしたらそのせいなのか。
(なのに)
と、そんなふうに考えるのはとても失礼なことなのかもしれないけれど。
それなのにこの人は、昨日といい、こうして当たり前のようにシエルの分の食事を用意してくれる。……嬉しいというよりも、何だか胸が詰まって苦しくなる。
せめて、こんなに優しい人がこれ以上余計な傷を負わなくてもいいようにしてあげたい、と思う。
では今どうすればいいのか、というより、何をしたら彼を傷つけてしまうことになるのか。シエルには、痛いほどわかる。
ただ誰かと語らいたいだけなのに、見てはいけないものとして目を背けられることは、何よりも辛くて悲しくて、とても寂しい。
だから変に目を逸らしたりはせず、シエルは彼のほうを見て、素直に味の感想を伝えた。
「変わった味がしておいしいね、これ」
『遺跡地方の家庭料理だ。多く作れて保存が効く』
「ハリトが作ったの?」
『人に作り方を習った。その通りに作っているだけだよ』
スプーンで少しずつスープを口に運びつつ、ハリトは穏やかに答えてくれた。シエルの視線は特に気にしていないらしい。
少しずつ、ゆっくりと。
口が左側に引き攣って歪んでいるのですごく食べづらそうなのだが、手元や口元を汚したりしないよう細やかに気を遣っているようだ。見ていると、食べ方も所作もバコラを弾くときのように丁寧で、むしろ上品なくらいだった。
時間は不思議と穏やかに流れてゆき、あとは静かに食事を終えて、食後のお祈りをした。
どうかこの雪が止みますように。
どうかこれ以上の不幸が起こりませんように。
どうかみんなが幸いでいられますように。
どうか――異郷からやってきたこの優しい人に、天使様の祝福がありますように。
こうしてあなたを信じるすべての人が、どうかこの寒さから救われますように。
ごおおん……と、ちょうどお祈りが終わったそのとき、時計塔の鐘が重々しくガルガンチュアを震わせる。シエルは少し驚いた。外はまだ雪が降っているという。こんな異常事態の朝であっても、塔守は鐘を鳴らすらしい。正しい時間の運行と町の営みを守るために。
『お嬢さん、昨日はすまなかった』
「え?」
『怖い夢を見なかったか』
不意にじっと見つめられ、そうたずねられた。
その言葉で、急に現実に引き戻されたような気がした。
怖い、夢。
ああ――と、言葉を飲み込んだ途端、昨日見たものや昨夜聞いた話がまざまざとよみがえってくる。邪悪ともいえる道化師の笑顔とともに。
でも。
「……大丈夫。一緒にいてもらったから……ありがとう、ハリト」
シエルがお礼を言うと、ハリトは少しだけ目を瞠った。お礼を言われるとは思ってもいなかったらしい。
改めて考えてみれば、この人に出会ったのはほんの一昨日のことだ。昨日助けてもらって長い半日を一緒に過ごして、それが今日は朝食を作ってもらって一緒に食べた。今、こうしているのが本当に不思議だった。
けれど、一時の夢から覚めるともう穏やかな気持ちではいられない。シエルは唇を噛み、自分で自分を抱きしめるように、夢ではないことを実感するように、人形のようなつくりをした肘と肩の感触を確かめた。
「でも……昨日の話は全部、夢じゃないのよね」
教会でおそろしい出来事が起きたことも。
わたしは本当は生きた人間ではなくて、人間によく似せて造られただけの人形なのだ、ということも。全部。
「目が覚めても、わたしはここにいるし……春なのに雪が降っていて、冬みたいに寒くて。だから、祝祭は本当に中止のままで……」
砂をすりつぶすように呟くごとに、胸はどんどん重く塞がっていく。
ハリトは何を言うべきか迷っているのか、それとも目の前の少女を傷つけない言葉を選んでいるのか、しばらく沈黙を守っていた。
しかしすべて事実だというのなら、沈黙を続けることに意味はない。
ハリトは眉根を寄せて短く息をつき、深い思慮を経た目でまっすぐシエルを見た。
『きみが目にした光景も、俺があの男に話したことも、きみに話したことも、夢ではない。すべて本当のことで、取り返しのつかない現実だ』
「……っ」
『だが』
と、怯えるシエルに対して即座に言葉を重ねる。その先を強く言い聞かせるように。
『彼の生死についてはわからない。だから彼を探す、とも言ったはずだ。それは何もあの場できみの心情を慮って戯言を伝えたのではなく、この事態を引き起こしたのは間違いなくあの領主であり、この事態は彼が殺され奪われたものによって引き起こされているとしか思えないからだ』
「……え……?」
シエルは思わず問い返した。
ハリトの口ぶりは、まるで何かを知っているかのようだった。
昨日の話だと、フィニアンは間違いなく殺されたという。でも、死んだかどうかはわからない。だから彼を探さなければいけない。よく考えてみれば突拍子のない、そんな結論を導き出すに至るような、シエルの知らない何かを。
そのとき。
――ガチャ、と入口の扉が外から開けられた。
「ただいま戻りましたヨー。おやお嬢サン、お目覚めでしたか」
呑気に間延びした声とともに、防寒用の外套を着込んだ道化師がガルガンチュアの中へと入ってくる。昨日よりもいっそう冷たい風が吹き込み、白い雪が舞う。フィンドールはささっと外套を脱いで雪を外にはたき落とそうとし、そうすると当然のようにまた新たな雪がつくのを見ておどけたように首を傾げるなどしていた。ハリトはその滑稽な動作を見ながら溜息をつき、あるいは何か言ったのかもしれない。
「ウフフ、本当にすっかり仲良しで微笑ましいことですネェ。……ああ、お嬢サンの? この分ですと古着屋の開店もアテにできませんから、あるもので適当に見繕いましょう。それよりちゃんとご飯はあげたんですか?」
声が聞こえなくても、フィンドールの反応や発言、ハリトの仕草や目の動きを追っていればやりとりの内容は何となくわかる。外出から戻ったフィンドールの服装。それから、フィニアンを探しに行くという話。外は雪だから、たぶん、シエルの防寒着を用意しなければいけないとか。ご飯をあげたのか、というのは――シエルのことをまるで拾ってきた愛玩動物として扱っているかのような言い方だけれど、そんな言い方をするのはわざとで、おそらくハリトのことをからかっているのだろう。何となくだが、そんなことまでわかってきた。
少し間を置いて、
「――アラ、もしかして一緒に食べたんです? それはまた珍しい。今日は雪が降るのでは……いや、もしやそのせいで雪が降っているのでは? 貴方、彼女のことよっぽど大好きなんですネェ」
くつくつと喉を鳴らして愉快そうにするフィンドールに、ハリトは苦い虫でも嚙み潰したような顔をする。露骨にからかわれているが、怒るよりも心底呆れているらしい。
そんな会話の間に挟まれておろおろしていたシエルは、ふとあるものに目をとめた。
フィンドールの帽子の上だ。視線に気づいたフィンドールが「ン? 何です?」と胡乱げに振り向く。
「あの、それ……」
シエルはおずおずと指さした。振り向いた拍子にどこかへ飛んで行ってしまうのではないかとも思ったが、その心配は無用だった。
黒い帽子のてっぺんに、スズメよりも大きくハトよりも小さいくらいの、黒い鳥がとまっている。大きさからしてカラスには見えない。見たことのない鳥だ。
もちろんフィンドールには頭上のそれが見えていない。彼が「?」と顔に大きな疑問符を浮かべながら帽子の上を両手で払うような動作をすると、さすがに驚いたように鳥はパッと羽を拡げてこちらに向かって飛んできた。
「ひゃっ……」
つい咄嗟に腕で顔をかばってしまう。しかし鳥はシエルの眼前で空中にとどまり、何度か羽ばたく。襲いかかってきたわけではなく、つぶらなその目はじっとシエルを見ていた。まるで聡い意志を持っているかのように。
その目の美しさに気づいたシエルは思わず息が止まるほど驚いた。
――――あの、世にも綺麗なエルフィリア・ブルーの目。
フィニアンとまったく同じ色の目をした鳥はシエルの警戒が緩んだ隙を見て、ストッとシエルの細い肩の上に留まった。鳴くことはなく、ずいぶん人馴れしている様子で頬にすり寄ってくる。フィンドールと、それからハリトも唖然としていた。
シエルはどうしたらよいかわからず、とりあえず手をでふれてみようとした。
指先を近づけると、鳥は何とも嬉しそうに小さな頭をこすりつけてきた。




