22. 告げられた真実
寒くはないか、とハリトがストーブに火を入れてくれた。
シエルは確かに身体の冷えを感じてローブの胸元をかき寄せ、肩を縮こませていた。時季外れの雪が降りだしたせいか、気温が急激に下がってきたようだ。本来、この時期であればもう雪は降らない。遠くから町にやってきた人々は当然のごとく寒さへの備えなどなかったようで、外では薪や暖房を求めるちょっとした騒ぎが起きていた。
広場に滞在している行商や旅芸人たちは町の商会の認可を受けているらしい。先ほど祝祭の中止を知らせる商会の使者がガルガンチュアにもやってきて、万が一にも凍死者を出すことがないように、ひとまず今夜は商会の建物を宿泊所として開放するということが伝えられた。
どうやら、ひどい吹雪になりそうだという。
シエルはフィンドールが座長として対応しているのに聞き耳を立てていたが、ドアを開けて半身だけ外に出しているその隙間からびゅうびゅうと吹き込んでくる雪と風の冷たさはまるで冬のようだった。
「やれやれ、とんでもない天候になりましたネ」
と、短い対応の間だけですっかり雪粒まみれになったフィンドールがドアを閉めて肩をすくめる。
ハリトは湯沸かし器を使ってお湯を沸かし、温かいお茶の用意をしていた。シエルはそれを彼が自分で飲むものと思っていたが、淹れたてのお茶を注いだそのカップはシエルの目の前に置かれることになった。
「……わたしに?」
シエルは思わず確認してしまった。
本当は飲み物も食べ物も必要とはしていなかった、人形なのに。
しかし、ハリトは至極当然のように言った。
『きみは人形とはいえ生きている。つまり人間の少女と同じだ。身体が冷えるのなら温めなければいけない。今更その扱いを変える気はないよ』
その言葉は慰めでも励ましでもない。考えてみれば最初こそ気づかなかっただけで、その後からはずっと、この人は気づいた上でシエルに接してくれていたのだ。たとえシエルが人形でも人間でも、どちらにしても彼にとってはただの一人の少女なのだと――今更、その事実が変わるわけではないと。
胸がじんとした。
嬉しかった。
「ありがとう」
どういたしまして、と言うようにハリトは目を細めた。
淹れてくれたのは滋養のありそうな香りがするハーブティーだった。一口飲んだだけで、身体がぽかぽかと温まる感じがした。
おかげで少し気持ちが落ち着いた気がする。しかし薄く色づいたお茶の水面を見つめていると、頭の中を渦巻く様々な疑問がそこに映し出されるようだった。
シスターが糾弾したように、昨夜のうちにシエルが領主様のもとに帰っていれば教会も町も平穏なままで祝祭の日を迎えることができたのだろうか。祝祭が中止になったことと、この雪は何か関係があるというのだろうか。フィンドールはいかにもすべてが関係しているというような口ぶりだった。人形のわたしと、教会でみんなと暮らすフィニアンが、もし出会っていなければ。
――そういえば、祝祭の中止はどうやって知らされたのだろう?
この雪の中、神父様の脚では無理だ。シスターはあの様子だった。じゃあ……と考えかけたところで、シエルの思考を読み取ったかのようにフィンドールが言った。
「この天候急変を見て、商会の人間が慌てて教会に走ったのでしょう。年間で唯一最も穏やかであるはずの祝祭の時期にこんな大雪なんて、どう考えても天から不吉な知らせ以外の何物でもないですし」
見ると、ピエロの仮面は困り顔だった。実際かなり困った状況だ。この雪が一晩で止めばいいが、冬のセレームは閉ざされた町になるという。街道が深い雪に覆われて凍りつき、まともに通行することができなくなるからだ。もしこのまま降り続けば最悪の場合、彼らはここで何日も立ち往生してしまうことになるかもしれない。まさかそんなことにはなるまいと思う。でも、どうしても不安を拭い去ることはできない。
「このような状況――まるで冬の魔女の呪いのようだと、この町の人間なら考えるのではないですか?」
「あ……」
フィンドールがそう言ったとき、シエルはそれこそ身体の芯から凍える真冬の寒気を感じた。
かつて、永遠にとけることのない雪と氷に閉じ込められていた小さな村の物語。
七人の子供たちが禁忌の山から氷の花を盗んだことで、怒った冬の魔女は子供たちの村に呪いをかけた。それによって村には恐ろしい病魔と飢餓が蔓延し、子供たちは罪を償うため自ら生贄となることを選んだが、最後に残った一人に代わって村を訪れた翼の聖女が自分の命を捧げたことで呪いは解かれ、冬の魔女は眠りについた。
だからこの町の人々は、翼の聖女エルフィーヌを天使様と呼んで信仰する。
感謝と贖罪の祈りは決して忘れてはいけない。
七年に一度の祝祭は必ず行われなければならない。
さもなければ――聖女エルフィーヌの気高い犠牲の魂に打たれて人の罪を許した冬の魔女が、人の愚かさを再び思い出してしまうから。
「祝祭をやめたから、冬の魔女が怒って目を覚ましたの……?」
「エ? あー……ハイ、まあ、そういうことになるんですかネェ。知りませんけれども」
ハリト君はどう思います? と、フィンドールはなぜかシエルの問いをかわしてどこか投げやりに話を振った。思わせぶりなことを言うだけ言っておいて、シエルがそんなふうに食いついてくるとは思っていなかったのかもしれない。
ハリトは首を横に振った。知らない。というより、異郷の旅人である彼が教会での教えや信仰に関わることに答えられるはずもない。シエルもわかっている。そのことを誰かにたずねたいのなら、ほかの誰でもなく神父様にたずねるべきだ。祝祭を中止にすると最終的に決めたのも、きっと神父様なのだから。
けれどあのような形で教会を出てきてしまった以上、もう二度と聞くことはできないのかもしれない。
あるいはもしかしたら、フィニアンならわかるかもしれない。聖女エルフィーヌの伝説についても天使様の信仰についても、フィニアンはまるで神父様のように詳しかった。それにあのときガルガンチュアに戻るようにと言っていたのは彼自身だから、きっとシエルがここにいることも知っている。
今、彼はどこにいるのだろう。
気づくと無意識に胸元を押さえていた。そこにある懐中時計は、やはりシエルにとっては大切なお守りだった。
来歴などはもうどうだっていい。これはシエルが目覚めたときに、肌身離さず大切にするようにと言って彼が手渡してくれた物。そのときの優しい表情も、シエルの手を取って手のひらにそっと時計をのせてくれた感触も覚えている。思い出すと心が温かくなる。それは、シエルがはっきりと思い出せる一番最初の記憶だ。
彼はシエルの親鳥になってくれたのだとフィンドールは言っていた。その通りかもしれない。
フィニアン。
どこにいるの、とシエルは町を覆う不吉な雪空に祈るように彼のことを思った。
何となく、胸がざわついているのだ。何かとても嫌なものが足元から這い上がってきているような、それが皮膚の内側でざわざわと蠢いているような、ひどく落ち着かない感覚だった。
「……ねえ、ハリト」
シエルは目の前に座っている彼におずおずと呼びかけた。
その声だけで何を問われるか察したように彼はこちらを見た。その顔を見た瞬間になぜか問いを引っ込めてしまいそうになったが、シエルは勇気を出して、思い切ってたずねた。
「フィニアンがどこにいるか、わからない? あのあと……たぶんすごく急いでて、わたしを置いて先に教会に帰ったんだと思うけど……姿を見てなくて」
「………………」
ハリトは答えなかった。
呼びかけに応えてこちらを見たはずなのに、いつの間にか視線を外して、わずかに顔を逸らしている。こちらには包帯に覆われている顔の左側を向けて。考えに沈んでいるのだろうか。けれどただ答えるのに考える必要はないはずだし、そうされると表情が見えない。回答を拒むにしても、そのようにして何も言わないのは彼らしくない。それはもう、何か最悪の答えを暗示しているようだった。
それでも聞かないわけにはいかず、シエルは自分の言葉を励まして続けた。
「ちょうど、ハリトが話しかけてきたときにね。教会に戻ったらだめだって。だから、そのあとのこと……もし知ってるなら教えて。あのとき、何かが聞こえたから、わたしにそのことを教えてくれたんでしょう……?」
「アラ。貴方が言えないなら私が言いましょうか、ハリト君?」
二人の様子を興味深そうに眺めていたフィンドールがそう言って口を挟むと、ハリトはガタっと椅子を鳴らした。
エメラルドグリーンの目を見開いて表情をこわばらせ、食い入るようにフィンドールを見ている。明らかに動揺している。もしくは、やめろ、と彼を止めようとしたのかもしれない。しかしおそらくその制止を聞かずに、穏やかな笑みを浮かべた道化師はさらりと言った。
「フィニアンさんはもういませんヨ。貴女を置いて教会に戻った後、エヴァンゼール伯爵を名乗ったというあの男に刃物で刺されていずれかの臓器といいますかおそらく心臓を引き千切られ、結果殺害されました。――と、私はハリト君から聞いたのですがネ。違いました?」
「え……」
かろうじて唇からこぼれた声はそれだけだった。
今、なんて?
聞き返そうにも、何だか自分の周りの音が遠かった。おっと失礼、と言うようにフィンドールが笑うピエロの仮面に手をかざして悲しみのピエロに表情を変える。その光景もまるで鏡の向こうの世界を目の前に映し出しているかのようで、現実感がなかった。
嘘だ。
そう言いたいのに、声が出ない。
歯の根が合わない。頭から血の気が引いていく。
目の前がチカチカする。赤くて、黒くて。ランプの光が異様な明滅を繰り返している。
脳裏にまざまざとよみがえる、あの血塗れの光景。
神父様が倒れていた。でも生きていて、泣きそうな顔で彼の名前を口にした。なら、あの血は。まさか。そんな。
ぐらりと一瞬意識が遠くなり、椅子から床に倒れこみそうになったシエルの肩を、向かいにいたはずのハリトの手が支えてくれた。
何だか呼吸がおかしい。そのための器官が誤動作を起こしてしまったような呼吸を幾度も繰り返して、シエルは一番近くにあるハリトの顔を見た。
「どうして……?」
彼がひどくうろたえていたのは、シエルの表情が凍りつき、そのまま泣き崩れていく過程を目撃したせいだろう。
自分が何を言いたかったのかわからない。
どうして、彼が。
どうして、教えてくれなかったのか。
教えてくれれば、きっとすぐに、探しに行ったのに。
『……どうか落ち着いて。きみが見た光景をよく思い出してくれ。そこに彼はいなかった。そうだろう、お嬢さん』
動揺して千々に乱れるシエルの頭の中に、冷静な声が語りかけてきた。
目の前には、吸い込まれそうなほど深いエメラルドグリーンの目。ハリトは他者が負った傷の痛みを分かち合うように、そして自分の痛みはじっとこらえるような眼差しでシエルを見つめていた。
『俺はこの目で見てはいないから、そこで何が起きたのか正しくはわからない。しかし彼があの男に殺害されたとして、あの場に駆けつけたきみがその姿を見ていないのはおかしい。つまり彼は確かに殺されたはずだが、本当に死んだかどうかはわからないんだ』
「な……にを、言ってるの……?」
感情がおかしくなっているのか、唇が笑うように引き攣ってしまった。
ハリトはシエルの両手を取って強く握った。
『不確かな言葉を伝えることはできない。だが、きみが亡骸を見ていないというなら彼の現状は消息不明だ。きみが見た血は彼ではなく先に刺された神父のもので、あの神父は本来ならあの場で絶命していた。彼がその命を救ったんだ。そしてその後、彼は刺されて死んだのではなく、跡形もなく消えてしまった。今、きみに伝えられることはそれだけだ』
「消えた、って、何……? どういうこと……?」
『わからない。だから、俺は彼の行方を探そうと思う。きみはもう休んだほうがいい』
ますます混乱するシエルの顔を瞳に映し、ハリトはそう言った。
彼自身も不可解な出来事ばかりで混乱しているようだが、何よりもその声にこめられていたのは、傷つき疲れ果てた少女に対する憐みと労りの思いだった。
『今日はもう何も聞かなくていいし、これ以上考えなくていい。すべて悪い夢だと思って眠るべきだ。……疲れたただろう、お嬢さん』
そう言って、彼は少しだけ微笑した。
これは夢。
今日起きたことはすべて、悪い夢。
そんなはずがないのに、今だけはそう思ってもいいと彼は言う。
きっと目が覚めたら何もかも元通りになって、いつも通りの朝を迎えることができる。
だから今はただ、すべてのことを忘れて、眠るようにと。
それが彼自身の願いであるかのようにそう言われ、シエルはゆっくりと瞬きした。
今まで、瞬きすることも忘れていたらしい。
けれど涙は流れなかった。流れる涙はもう枯れていた。
ハリト、と動いたのは唇だけで、引き攣った喉は上手く声を出せなかった。
どうしてこの人はこんなに優しくしてくれるのだろう。
こんなにひどいことになったのは、もしかしたら全部、わたしのせいかもしれないのに。
そんなことはないと言うように彼は首を横に振った。
「…………ッ……!」
途端に色々なものがいっぺんに込み上げきて、シエルはたまらなくなって彼の服を掴み、思い切りしがみついた。
彼は驚いたはずだが、シエルを突き放したりはしなかった。
深く息を吸うと、土のような樹木のような、何だかとても懐かしい匂いがした。
不思議と心が落ち着いて、身体の力が抜ける。
もう何も考えたくなかった。
何だかまぶたが重くて、目をつぶった。
いつしかそのまま、シエルは深い眠りに落ちていた。




