20. 冬の呪い
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ざあざあと雨粒が絶え間なく石畳を叩く音がする。ハリトが言っていた通り、あのあと間もなく雨が降り出した。
再び戻ってくることになったガルガンチュアのあの一階の部屋には明り取りの窓がなく、天井から吊るされたランプが唯一の光源となっている。書棚とたくさんの大道具に大部分を占められた狭い空間のテーブルを囲む椅子には今、シエルとフィンドールが向かい合って座っていた。ハリトは座らず、立ったままシエルの後ろの壁に寄りかかっている。
ハリトがシエルを連れて帰ってくることをこの道化師は予め知っており、待っていたらしい。
ただし出迎えは笑顔ではなく困り果てた表情の仮面を着けた上、唇はへの字型で、テーブルに肘をついた右手で自分の頬を揉んでいるその表情は困惑しきりといった感じだった。シエルはいたたまれない気持ちで、重苦しい沈黙の中にいた。
「フム。祝祭は中止ですか……困りましたネェ」
と、残念そうに呟いた声におそるおそる目線を上げると、フィンドールの鼻の穴から小さな旗をいくつも連ねた飾り紐が伸びているのが見えて目を疑った。
その先端はフィンドールの手が握っているわけだが、どういうわけかその旗には果てがないようにどこまでも伸びていく。かと思えば「ぽんっ」と空気が弾けるような軽い音がして、反対側の手元にいつの間にか出現していた帽子の中から、白い煙と色とりどりの造花があふれ出している。
「…………」
「アラ、面白くなかったですか?」
シエルが固まっていると、フィンドールはそれらの小道具を服の中にしまいこんで居住まいを正した。鼻から伸びていた旗もいつの間にか消えていた。
何事もなかったかのように。
「ちなみに私が困ると言いましたのは、せっかくはるばる祝祭見物のためにやってまいりましたのにそれが叶わずこの町を後にしなければいけなくなること、ではなく。間もなくこの町を後にしなければいけないというのに、どこぞのハリト君が貴女を拾ってきたことですヨ」
そしておもむろに話を戻していきなりズバリと言われ、シエルは思わず肩の線を固くした。
フィンドールは指でトントンと机を叩く。困り顔のピエロの仮面は続けてシエルの後ろにいるハリトのほうにその矛先を向け、彼を叱りつける――というより、いかにも不服そうに文句を垂れ始めた。
「いいですかハリト君。たとえばこの先の旅にお嬢サンを一緒に連れて行くというなら別に構いませんけどネ? ですが、そういうわけではないでしょう。ここにお連れしたのはあくまで一時の仮の宿を提供するというだけであって、お嬢サンにもそのような意志があるわけではないようですし。それによって幾日か滞在期間を伸ばすことになるとしても、先行きを急ぐ理由はないのでまあ構わないといえば構わないのですけれど。つまり何が言いたいかといえば、当面の間お嬢サンを匿ってさしあげるとして、その後はどうするのです? というかこれシンプルに誘拐ですからネ? 教会の人に訴えられでもしたら、罪の責任を問われるのは座長の私ですよネ?」
つらつらと並べ立てられたその内容は、しかし、極めて真っ当な意見であるように思えてならなかった。
シエルは思わず後ろにいるハリトを見上げた。まるで犬や猫の仔を勝手に拾ってきた子供かのように懇々と言い聞かせられているが、彼にも彼の言い分があるのだろうか。けれど、フィンドールに対して何か反論しているのかもしれない彼の声はシエルには聞こえない。一旦相手の言葉を聞くような間をおいて、フィンドールは聞こえよがしの溜息をついた。二人の間に明らかに険悪な雰囲気が漂い始めている。
――かと思えばフィンドールは困ったピエロの仮面を笑うピエロの仮面にさっと付け替え、にっこりと笑った。
「まあ、こんな事態の最中で教会の人がお嬢サンを探すことも訴えてくることもないでしょうから問題ないでしょう。ですがお嬢サン、こうして再びおいでになったからにはすべての事実をきちんと説明させていただきますからネ」
「……はい?」
何が何だかわからなくなったシエルに、ハリトはようやく教えてくれた。
『今のはただの小芝居だ。いくらなんでも無断できみを連れ帰りはしない。先に今のような話を済ませた上で、結論としては問題ない、というのを一連の流れとしてきみにも聞かせたかっただけだろう』
「ほ、本当に……?」
『大丈夫。この男は間違いなくきみを歓迎しているよ。理由はこれから聞けばわかる』
その言葉を信用するには心もとない状況だが、相変わらず本当のことを言っているということだけはわかる。
事実、ハリトがシエルに向ける表情は優しかった。この場において、この人はシエルの味方でいてくれるつもりなのだ。もしかすると、そのためにこうしてわざわざ同じ側に立っているのかもしれない。許可を得ているというなら、別にこれから説得をするとか言い争いをするとか、そういうわけではないのだろうが。
コホン、と咳払いするのが聞こえて、シエルはおそるおそるフィンドールのほうに向き直った。フィンドールはテーブルの上で両手を組み、客人を迎える主人の態度で優雅に小首を傾げながら会話を進めた。
「時にお嬢サン、身体の調子はいかがですか?」
唐突に健康のことをたずねられたかのようで、シエルはきょとんとする。
しかし、そもそも自分は倒れていたところをハリトに助けてもらい、ここでしばらく休ませてもらったのだ。改めて聞かれるのは、そうおかしなことではなかった。なので。
「おかげさまで、何とも……」
シエルが戸惑いながらそのように答えると、フィンドールの唇の両端が上がった。
「そうでしょう。気分的な問題はさて置いて身体は普段よりも快調で、お腹もそんなに空いていないはずですヨ」
「?」
そのときになってふと、シエルは馬車の中が静かなことに気づいた。あの重く響いていた機械の振動音が止まっていて、黒鉄の車体を叩く外の雨音だけが聞こえる。それから、自分が呼吸している音。それをいやにはっきりと意識しながら、シエルは目の前の道化師に問いかけた。
「……なにか理由があるの?」
「貴女には本来必要なものが著しく不足していましたので、特別に無償で補給させていただいたのです。私の本業は機術士ですからネ」
そう言いながらフィンドールがテーブルの上にコトリと置いたのは、小さな握りこぶしほどの赤い鉱石だった。
実物を見たことはないけれど、ルビーだろうか。あまりにも鮮やかな真紅がランプの光を透過してキラキラと輝いており、シエルは目を吸い寄せ
られるように見惚れてしまった。「綺麗でしょう?」とフィンドールに言われ、こくこくと頷く。
「それは第五元素石といいまして、最も平明な言葉で言い表すならこのガルガンチュアの燃料です。材料と製造方法は秘匿されていますが素晴らしいエネルギー効率を誇ります。貴女には、このように小さく割った一欠片を与えました」
「あっ」
と思わず声を出してしまったのは、フィンドールがその鉱石に鑿を当てて実際に削ってしまったからだった。
削り出した切片を、ハイどうぞ、と彼はまるで飴か何かのようにシエルの口元へと差し出してくる。先ほど、これをシエルに与えた、と言っていた。けれど、それはどう見ても石だ。え、え、とシエルは目を白黒させた。
「食べられるの?」
「イイエ? ですが、貴女は食べることができますヨ」
柔らかい唇に、薄く硬い刃のような鉱石の切片がふれる。しかし、その感触はなかった。
ふれる寸前にフィンドールの指先でふっと解けて形をなくし、細かな光の粒子のようになってシエルの唇の隙間に吸い込まれていったからだ。
あっと思ったときにはもう溶けてしまったのか、舌の上には何もなくなってしまった。けれど熱くも冷たくもなく、味も香りも何もなかった。
「――このように、ネ? 近づけてあげれば自然に反応して吸収することが可能です」
「……え?」
「お気づきにならなかったのも無理はありません。貴女はそれほどよく出来ている。効率は悪いのでしょうが、食事によるエネルギー摂取が可能なことにも驚きました」
何を言われているのか理解できなかった。
この道化師の言葉はいつもシエルには理解できないことばかりだが、今度は本当に何を言っているのだろう。
ハリト、とシエルは後ろにいる彼のほうに助けを求めた。言われたことの意味を、わかるように教えてほしい。ハリトは落ち着いた眼差しでシエルの困惑を受け止めると、そのことは始めから自分が伝えるつもりでいたかのように、まっすぐ目をそらすことなく静かに言った。
『お嬢さん。きみは生身の人間ではなく、信じがたいほど精巧に造られた人形なんだ』
「………………え?」
この人まで、一体何を。
シエルはそう思ったが、ハリトはそっとシエルの手を取った。その手は間違いなくただの少女の手で、見た目ではどこにもおかしなところはない。だから、ますますわからない。ハリトがそのまま覆いを取り除けるようにシエルの服の袖を捲ると、白い柳の枝のように細い腕があらわになる。それから、肘まで。そんなところを自分でまじまじと見たことがなかったから気がつかなかったけれど、こうして見せつけられてみると。
そこは確かに、変だった。
肌がなめらかにつながっておらず、奇妙な継ぎ目がある。石膏で型取って造ったような生身の少女そっくりの腕を、肘の部分できちんと動かせるように球体の関節がつないでいる。
それはちょうど、大道具の中に座っているあのドレスの持ち主のような――まさしく人形の腕だった。
「で、でも」
シエルはうろたえて、何か反論しようとした。
だって今、手を握られている。その感触とぬくもりを感じている。この手にはそのような感覚があって、肌も陶器のように硬くはない。自分の意志で動いているし、呼吸もしているし、胸の中には心臓の鼓動だってある。もし自分が人形なのだとしたら、こんなふうに感情が大きく揺れ動いたりするはずもない。
そう言いたいのだが頭の中で言葉がまとまらず、シエルはただハリトの手を強く握りしめた。とにかく心を保つために、そのぬくもりを拠り所とするように。
ハリトはそんなシエルを思慮深い目で見つめながらもう片方の手を取って、まだほんのわずかなふくらみしかない胸にその手を当てさせた。
『きみの胸の中にあるのは心臓ではなく自動装置の動力機関のようなものだ。しかし、冷たい鉄の機械とは違う。きみは間違いなく生きている。だから俺も最初は気づいていなかった。人間の心音とは違うとはっきり区別がつかないほどに、きみは見た目も中身も限りなく人間に似せて造られているということだ』
「そんなの……」
説明する声はいつものように淡々としていた。シエルは結局、勢いに任せて反論することもできなかった。
信じたくない、受け入れたくないと思っても、この人の言葉は頭に直接入ってくる。否応なく、ただの事実として。
嘘ではない。
それが、本当のことなのだと。
呆然として、力いっぱい握りしめてしまっていた手の力が抜ける。シエルが力を抜いても、ハリトは自分から手を放そうとはしなかった。放さなくてもいいらしい。確かに、今はこうして何かにつかまって、できれば支えていてほしかった。
事実を伝える前も、伝えたあとも、シエルを見つめるエメラルドグリーンの目の色合いは何も変わらない。
伝えてくれたのがこの人でよかったと、シエルは心から思った。
でなければ、きっと耐えられなかったはずだから。
「信じろと言われてもすぐには受け入れ難いことでしょう。ちなみにフィニアンさんにはそのことをお伝えしましたが、彼は知っていたようですネ。勿論、貴女の仕組みや内部構造といったところまでご存知だったわけではないようですが」
フィンドールはいつの間にか一人でゆったりとお茶を飲みつつ、落ち着いているというよりもどこか呑気な口調でそう言った。
――フィニアン。
ああ、でも、それはそうだ。出会った最初のときからずっと、シエルのそばに一番長くいたのは彼なのだ。あれだけシエルをよく見てくれていたのに、こんな事実に気づかないほうがむしろおかしい。どこかで気づくかあるいは最初から知っていて、そのことをずっと隠していたのだろう。シエルにも、ほかの子供たちにも……ひょっとしたら神父様にも、ほかの誰にも知られないように。
シエルが、ただの人間の少女でいられるように。
もしかしたら……ずっと、守ってくれていたのかもしれないと、シエルは思った。
彼がずっと何かの秘密を隠しているような気がしていたのは彼自身のことではなく、シエルのことだったのだ。
「――以上が貴女を打ちのめす残酷な真実というものです。その真実を理由といたしまして、私は住処を失った貴女がこのまま我々の旅についてくるとおっしゃるなら喜んで歓迎しますヨ。対価は一切不要です。言ったでしょう? 貴女にはその未知なる稀有な眼球だけで小国を買えるほどの価値があると。それは領主様も血眼になって貴女を探すはずです。ヒュロッペンの時計など、それ一つで貴女の歓心が買えるのなら安い物。気に入って手にしたのなら咎めることなく与えましょう。貴女を手元に置けるのなら、それ以上に価値のある品など他にはあるはずもありませんからネ」
フィンドールはこの上ない満面の笑みでそう言った。
ちゃり、と服の中で金の鎖が鳴る。シエルが森の中に倒れていたときから持っていたという、大切な懐中時計。どうして自分がこんなものを持っているのかわからなかった。盗めるようなものでもないと言われた。けれどきっと過去の自分につながる唯一の、大事な手がかりだと思っていた。
なるほど。
そもそもシエル自身が領主様の所有物だったのなら、フィンドールが言うように、この時計のことはさして重要ではないのかもしれない。たまたまそこにあった壊れた時計を子供が気に入ったから玩具のように与えてやった。ただ、その程度のことに過ぎないと。
そう言われれば、今までのすべてが空しくなるほどすんなりと腑に落ちるような気もした。
「これは単なる私の推論として申し上げますが、貴女は一か月より前の過去を覚えていないのではなく、起こった出来事を記憶できる自我が芽生えたのが一か月前のその瞬間だった、とも考えられます。お屋敷から外に出て、フィニアンさんがまだ自我のない貴女を見つけてくれたことは、実に幸運であり不運でもあったといえるでしょう。貴女は彼が親鳥になってくれたおかげで雛鳥のように健やかに自我を育むことができた。しかしお二人が出会わなければ斯様な悲劇が生まれることはなく、これほど最悪の事態に発展することもなかったのです」
心臓ではない何かが、胸の中でドクンドクンと脈打っている。
フィンドールは涙を流す悲しみのピエロの仮面に付け替えて、芝居がかった身振りと口調でそんなことを語り始めた。悲劇。最悪の事態。それは教会で血が流れる事件が起きたことだろうか。刺されたらしい神父様は無事だったとはいえ、それによって祝祭が中止になったらしいことだろうか。
どうやら違うらしい。
あまりにもたくさんのことが起こりすぎて、シエルは一つ大切なことを忘れていた。
そうだ。
フィニアンはどこにいったのだろう。
あのとき、神父様は何かを言おうとしていた。シエルが見たことのない泣きそうな表情で、フィニアンのことを。
もしかしたらその答えを知っているのかもしれないフィンドールは、椅子から立ち上がってガルガンチュアの入り口ドアに向かった。外はまだ雨が降っている。しかし窓がないので、外の様子を見るにはそこを開けるしかない。
ガチャリと音を立てて、フィンドールはドアを開けた。蝶番の軋みとともに、室内には驚くほど冷たい風が吹きこんできた。
雨ではなかった。
シエルは目を疑った。
――――外は、雪が降っていた。




