19. 雨の気配
不快な手つきで肌にふれる風は生ぬるく、嫌な湿気を含んでいる。じきに雨が降るのだろう。
見ると、山の向こうから流れ込む暗い灰色の雲がセレームの空を覆い始めていた。
『――だから最初に言ったでしょう? 関わるとロクなことにならないって』
遠くで道化師が嘆息した。自分一人だけ、始めから終わりまですべてを見通していたかのように。
結末などわかりきった劇の感想を求められたときのように、その口調にはある種の憐憫が満ちていた。
『意地悪で言ったわけではありませんヨ。私がみなまで言わずとも、貴方だって最初に出会ったときから気づいていたはずです。彼女の姿形がリィンさんに似ているのは、悪い冗談のように無意味な偶然に過ぎないということも』
あくまで淡々と、道化師は彼の感想を述べている。
今にも降り出しそうな曇天の空を眺めながら、ハリトは黙ってそれを聞いていた。
『結局のところ、誰も彼もが彼女のことを思いやり、彼女にとって理不尽な真実を教えてさしあげなかったからこのような結末を迎えることになったのです。誰かがもっと早く伝えてあげていれば、彼女以外は誰も不幸にならなかったかもしれませんネ』
誰に向けて言うでもなく、道化師は独り言のようにそう言った。
丘の上から少女の足音が下りてくる。
ひどく打ちのめされて、帰る場所を失って、行くあてもないまま歩き出した、あまりにも憐れな足音が。
『……祝祭は中止です。明日にも大司教様に手紙を送り、町の人々にはすぐに伝えましょう』
教会の神父が苦渋に満ちた声で話している。やむを得ないことだろう。彼はこれからさらなる悲劇が起こることを恐れ、それを防ぐ方法を考えなければいけない。だから少女を呼び止めはしても、追いかけることはできなかった。
彼がいたら追いかけてくれただろう。しかし、その彼はもういない。
『なあ、さっきの悲鳴……シスターだったよな?』
部屋の中にいた子供たちも異変に気づき始めている。何を感じ取ったのか、声を上げて泣き出した幼い子も。
子供たちを守る清らかな場所であるはずの教会が、惨憺たる有様だ。
悍ましい凶行に及んだ男を乗せたあの馬車は領主の屋敷に向かっている。あのときは気配を消していたわけではない。あれほど探していた少女の存在に気づかなかったはずがないのに捨て置いていったのは、もう必要がないからか。
その少女は黒いローブのフードを深く引き下ろし、下を向いたままとぼとぼと坂道を下っていたが、不意に足元をふらつかせ、何に躓いたわけでもないのに転んだ。もう疲れてしまったのか、なかなか立ち上がろうとしない。
声をかけるべきか否か、正直迷った。
ここから先はただのお節介だ。ここで手を差し伸べてしまったら、もはや通りすがりの他人ではなくなる。彼女について確かめたかったことを確かめることができた今となっては、自分にとっても彼女にとっても、自分がそこまでする正当な理由はない。しかし、ここまで追いかけてきた時点で既に理由や利害といったものは考えてもいなかった。
ただ、情が湧いてしまった。
こんな姿の自分に親しみを持ってくれた少女が、こんな形で一人ぼっちになるのは可哀想だ。
理由といえば、ただそれだけだった。
ハリトはうずくまっている少女に歩み寄り、そのすぐそばに膝をついた。
近づくまで気配を感じなかったのか、少女は驚いて息を飲んだように顔を上げた。
「……戻ってくるの、待ってたの?」
細い、やさしい声で言う。もういないものと思っていたらしい。
待っていたということはつまり、本来戻ってくるはずのない彼女が再び教会から出てくる――というより、半ば追い出されてしまうことを見越していたということになるのだが、そんなことは彼女にとって重要ではない。むしろ、それがあのとき教会に戻ることを止められた理由なのだと、彼女はもう理解している。
ハリトは何も言わずに頷いた。
少女はたちまち両目を潤ませた。
「待っててくれたの」
白目と黒目の境がない、内側に無数の傷を持つ宝石のような眼球の瞳が涙の海で揺れている。それは人間の目ではなく、この世で最も純粋な、何の穢れも知らない美しい生き物の目だ。
その砕けかけた心がこれ以上傷つくことのないように。せめてやわらかな布で包まれることを願って、できる限り優しく語りかけた。
『もうすぐ雨が降る。濡れないうちに帰ろう』
帰ろう、という言葉は適切ではなかったかもしれない。
そこは彼女の家ではない。しかし彼女には帰る場所が必要で、それを与えてくれる人が必要だった。
すべてを失ってしまった少女は、うん、と涙をこらえて頷いた。




