18. 災いの子
目の前に落ちてきた小さな黒い羽を拾い上げようとすると、それは幻のように薄れて消えてしまった。
「……フィニアン?」
と、シエルはもう一度彼の名前を呼んだ。
辺りはしんと静まり返っている。どういうわけか、やはり彼はもう近くにいないようだった。
走って、先に帰った? まさか用事を思い出して町のほうに戻ったのではないと思う。どちらにしてもあんなに一瞬で姿が消えてしまうほど脚が早いわけがないのだが、「彼らのところに戻って」とシエルに言った声だけははっきりと聞き取ることができた。
――わからない。
どうすればよいのか、シエルは途方に暮れて立ち尽くす。しばらくして、遠くからこちらに駆けてくる足音に気づいた。
「! ハリト」
広場からここまで追いかけてきてくれたらしい。
別れの挨拶をしたばかりだが、ハリトはずいぶん急いで走ってきたようで、膝に手をついて呼吸を整えながらシエルの腕をつかんだ。
『……教会に戻ってはだめだ。きみは俺たちのところにいたほうがいい』
「ど、どうして?」
さっき伝えてきたのと同じことを、彼はもう一度シエルに言った。
おそらく、遠くから伝えるだけでは意味がないと思ったのだろう。シエルが教会に戻ることをよほど本気で止めたいらしい。ただごとではないということくらい、その目を見ればシエルにもわかる。
だからこそ理由をたずねるのだが、ハリトは首を横に振るばかりだった。
『言えない。すまない』
断固とした拒否ではなく、その目にはむしろ懇願するような色がにじんでいた。
帰ってはいけないのではない。帰らせたくない。そこに何か――シエルには見せたくない、知ってほしくないものがあるから。
この人は、この先に待ち受けている何かからシエルの心を守ろうとしてくれている。そのことは痛いほど伝わってきたが、でも、シエルには彼がそこまで心を砕かなければいけない理由がわからない。
「ねえ、何があったの? ちゃんと教えて。フィニアンも急にいなくなって……」
そのとき、シエルの耳はある音を聞きとめた。
ガラガラと近づいてくる轍の音。
見ると、丘の上から黒塗りの馬車が坂道を下ってくる。二頭立ての黒い馬が並んでゆっくりと歩を進めてくるが、奇妙なことに御者台には人の姿がない。なのに、二頭の馬は行儀よく馬車を曳いている。
馬車といよいよすれ違いそうになったとき、ハリトは小柄なシエルを自分の後ろに隠すようにした。シエルは目をそらすことができず、その馬車をまじまじと見た。花と狼の紋章がついていて、中のカーテンは閉まっており、乗っているひとの姿は見えない。そもそも、中に人が乗っているのかどうかも。
まるで幽霊のような無人の馬車は、そのままガラガラと丘の坂道を下っていった。
紋章のついた、立派な黒塗りの馬車。――あっ、とシエルは喉の奥で悲鳴を上げた。
「今の、領主様……?」
教会に行くなという理由がやっとわかった。領主様がきていたのだ。きっとまた、シエルを訪ねて。
ハリトが隠してくれたおかげで見つからずに済んだのかもしれない。でも、やっぱりあのとき窓越しに目があったのが領主様だったのだとしたら。シエルが本当は教会にいることを、昨夜は隠していたのだということがバレてしまったのだとしたら。
どうしよう、とシエルの細い手足は震えた。そのことで、神父様が責められるようなことになっていたら――と、シエルはいてもたまらず教会のほうへ駆け出した。
胸騒ぎがするのだ。
『待てシエル!』
一瞬、その声で強制的に足が止められるような感覚があったが、それを振り切って走った。
黒いローブのあわせを両手でおさえ、できる限り早く、早くと気は急いても実際に早く走ることはできない。教会の尖塔を見つめて、その上に広がる空を見上げて。
やがて灌木の小路の先に聖堂の正面が見えてくる。入口の門があって、その先に。
乾いているはずの夕風が、むっと湿った鉄のにおいを運んできた。
嗅いだことのない異臭に身体が驚いて反射的に立ち止まり、前方に目を凝らしてそれを見つけた瞬間、周囲の景色が音を立てて遠ざかっていくような感覚に襲われた。
「! 神父様っ……!?」
シエルは色をなくして叫んだ。
門と聖堂の間に神父様が倒れている。シエルは急いで駆け寄って、「ひっ」と悲鳴をもらした。石畳に広がる赤黒い血溜まりの上に横たわり、マリエル神父はぐったりと青い顔で魘されるように目を閉じていた。見るとぐしょ濡れになったカソックのお腹の辺りが破れており、そこからこんなに多くの血が流れ出てしまったようだ。
うそ。
嘘。
「い……や……嘘…………」
身体が震える。世界が足元から崩れ落ちそうだ。服が汚れることには構わず、シエルはその身体にすがりついて「神父様」と呼びかけた。
でも不思議だ。何度も呼んでいるはずなのに自分の声が聞こえない。
これは……夢?
きっと、夢だろう。
こんなことが起こるはずがないから。
「――――シエル……?」
そのとき、かすれた声が聞こえた。
シエルは驚いて身体を跳ね起こし、信じられない思いでその顔を見た。
マリエル神父は薄目を開けてしばらく視線を彷徨わせ、ようやく、自分にすがりついているシエルの姿を見つけたようだった。乾いた血がこびりついた唇がかすかに動き、深い、長い溜息をゆっくりと吐いた。
「どうして……ああ、でも……無事な姿を見れてよかった……」
「神父様」
「……私は大丈夫ですよ」
少し気を失っていたようです、とマリエル神父は力ない声でいいながら、自分の腕で身体を支えるようにしてどうにか起き上がった。シエルは信じられなかった。うそ。だって、こんなに血が出ているのに。そう思ったが――よく見るともう血は止まっていて、破れた服の下にも、大きな傷がぽっかりと口を開けているわけではなかった。そこには、乾きかけの血で赤黒く汚れた肌が見えているだけだ。
けれど、それでは余計に理解が追いつかなかった。これは一体どういうことなのだろう。
起き上がった拍子に眩暈がしたのか、マリエル神父はひどく疲れた顔をして額を押さえる。シエルはすがるのではなく、支えるためにおそるおそる身体を寄せた。ありがとう、と神父様は微笑んだ。
「本当に大丈夫……? 怪我、してるんじゃない、の?」
「ええ。もう痛みはありませんからね」
「でも……こんなに血が」
「それは」
シエルが戸惑いながら言うと、マリエル神父は明らかに動揺して言葉に詰まった。シエルは食い入るようにその目を見つめ、冷え切っているその手に自分の手を重ねて言った。
「さっき、坂道の途中で馬車とすれ違ったの。フィニアンが言ってた、昨日の人がまたきたの? それで、こんな……ねえ神父様、フィニアンは戻ってきてないの?」
「シエル。まずは落ち着いて」
マリエル神父はそう言ってシエルをなだめようとしたが、考えてもわからない、理解のできないことが立て続けに起きたことで、シエルの頭は混乱していた。辺りを注意深く見回してみると、少し離れた場所の下草の中に、血塗れの短剣が落ちているのが見えた。ぞっと鳥肌が立った。
まさか、あれで。
でも……なら、どうして?
神父様はきっとあの短剣で誰かに刺されたのだ。この血溜まりを見れば、それは死んでいてもおかしくない――というより、生きているほうがおかしいくらいに多量の出血があったことはシエルにもわかる。なのに、破れた血染めのカソックを着た神父様はこうして無傷で生きている。神父様のではないのなら、これは誰の血? 神父様がこんな状態で倒れていたのに、先に戻ったはずのフィニアンがここにいないのもおかしい。何もかもがおかしい。
「神父様、お願い、教えて。何があったの……っ!?」
「シエル」
心の許容量を超えてあふれたシエルの言葉に、マリエル神父の瞳も張り詰めた。一瞬、その表情は幼い子供のようになった。
「フィニアン、は」
今にも泣き出してしまいそうに。
逆にシエルにすがるように。
これまで抑えていた感情に耐えられなくなったように苦しそうな顔でマリエル神父が何かを吐露しかけた、そのとき。
「ひっ……嫌ぁあああああああああ!」
重い沈黙の空気を引き裂いたのは、半狂乱になったシスターの悲鳴だった。
シスターは長いスカートの裾を捌きもせずバタバタと脚に絡ませながらこちらに向かって走ってきて、マリエル神父からシエルを引き剥がすように思い切り突き飛ばした。
「あなた、何をしたのですか!」
見たことのない剣幕、見たことのない形相で怒鳴られ、石畳の上に尻餅をついたシエルの頭は真っ白になった。
それを目の当たりにしたマリエル神父は、今まで聞いたことがないほど厳しい叱声を発した。
「シスター・ソフィア! 落ち着きなさい。私は大丈夫、この通り無事です。彼女は今帰ってきたばかりで何も知りません」
「無事……? でしたら、ここで何があったのか説明してください! この血は何ですか、あの男は何をしたのですか! 神聖な教会でこのようなこと、許されるはずが……」
顔面蒼白でヒステリックに声を荒げていたシスターは、興奮のあまり意識が遠のきかけたらしい。ふらりとよろめいて、その場にくずおれた。
「後で説明しますから、まずはシエルに謝って下さい。……シエル、怪我はありませんか?」
マリエル神父がそう言ってシエルに気遣わしげな目を向けたとき、シスターは呆然としているシエルを指さして、乾いた唇をわななかせた。
頭から杭を打ちつけられたような衝撃で、シエルは動けなくなっていた。
「このような……悪魔の子を」
今までずっと心の奥底に押し込めていた恐怖が、今このときにとうとう溢れ出してしまったかのように。
シスターは地面に膝をついたまま灰色の瞳を見開いて、あふれる恐怖を呪詛のように吐き出し始めた。
「神父様もフィニアンさんも惑わされているのです。そもそも私は最初に申し上げました。このような得体のしれない子を教会に入れるべきではないと。何か恐ろしい災いを招き寄せるに違いないと。……昨日のあの男はこの子を訪ねてきたのです。昨夜のうちに引き渡していれば、こんなことにはならなかった。その子が災いのもとではないとおっしゃるなら、ほかに何があるというのですか」
「言葉が過ぎますよシスター・ソフィア。いい加減にしなさい」
「いいえ。いいえ、神父様。教会でこのようなことが起きるはずがありません。あなたさえいなければ……すべてあなたのせいなのですよ、シエルさん。何もかもあなたが」
「やめなさい!」
吐き散らされた言葉は、シエルの頭の中で破鐘を打ったように響いた。
それに、神父様も。
もはや前後不覚に陥っているシスターの言葉を厳しく叱責はしても、きっぱりと否定はしていない。
――戻ってはいけないと言われた意味がようやくわかった。
こうなってしまっては、ここにはもう、わたしの居場所はないからだ。
もし今ここにフィニアンがいたら、そんなことはないと言ってくれただろうか。何もかもわたしのせいで、わたしがいたせいでこんな恐ろしいことが起きてしまった、なんて。そんなわけがないと思いたいのに、そう言ってくれる人は誰もいない。わたしのせいだと言われたら、わたしには否定することができない。
けれど、なにも感じない。
あまりに大きすぎた衝撃と失望が、あらゆる感覚を希薄にしたようだった。
ぼんやりとした頭の中で思い出されたのは――つい昨日聞いたはずの、神父様の言葉。
わたしのこの目が聖堂の天使様にそっくりだと、神父様は言ってくれた。
それなのに。
「ごめん……なさ……」
気づいたら、両目からぽろぽろと涙がこぼれていた。
シエル、とマリエル神父がその涙に気づいた。しかしシエルは顔を上げることができず、地面に両手をついてうつむいたまま立ち上がり、たっと踵を返した。
「シエル!」
呼び止めようとするその声に背を向けて。
ここではない、どこか遠くへ。




