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星のアンブロシア  作者: 榑井タキ
第五章 別れの挨拶
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17. 教会の青年

 大切にしたいと思うものが増えるにつれて、手足はだんだんと重くなる。

 誰に縛られているわけでもないのに身動きを取ることができないのは、一つ一つ大切に拾い集めたものたちを、たった一つでも取り落としてしまうことが怖いからだ。そのために、何よりも嘘をつくことがずいぶん巧くなってしまった。


 いつから教会にいるのかとたずねてきたあの子も、おそらく彼女のように何かを感じ取っていたに違いない。三年前というのは嘘だ。でも、まるっきり嘘でもない。嘘をつくことに慣れすぎて、本当のことを上手く話せる自信はないけれど。

 まだ嘘が下手だった頃は、長い時間を一緒に過ごした彼女にその嘘を見透かされていたことにも気づいていなかった。


「……きっと仕方ないのよね。あなたってそういう人だもの。昔からずっと、ずっと変わらない。ずっと綺麗なまま」


 憑きものが落ちたような、諦観めいた表情を浮かべた彼女は最後に笑った。

 まるで、彼の心の裡まですべて知っているみたいに。


「何だか私だけが変わっていくみたい。だけどね、いいの。あなたの中のわたしはいつまでも小さくてかわいいままだし、そのままずっと変わらないみたいに優しいところが好きだから。だから、これからも変わらないでね」


 レジーナ。彼女もまた、彼にとって大切なものの一つだった。

 けれどそれは特別なことではない。あれは十年前。冬死病でたくさんの人が死んだ。彼女の両親も亡くなってしまい、一人残された彼女は聖エルフィーヌ教会に身を寄せた最初の孤児の一人になった。ブルネットの髪を持つ幼い女の子は明るくて溌剌としてみんなに可愛がられることになったけれど、部屋で一人になると泣いているのを彼は知っていた。だからそばにいてあげた。彼女が誰かに恋をする年齢になるまでそのことを覚えているなんて、思ってもいなかった。


 けれど彼女はおそらくすべて気づいていたから、何も言わなかったのだ。


 五年前、彼女が十五歳になるのも待たずにやけに潔く荷物をまとめて教会から出て行ってしまったときも、悲しみはなかった。

 一抹の寂しさを感じはしたが、それは共に暮らす家族が一人欠けてしまった光景に対して抱いた感情で、決して悲しい別れではなかった。その気になればいつだって、アルチザン通りのあの店で元気に働いている姿を見ることもできたから。


 かつて雛だった鳥は生まれ育った巣を離れたあと、もう二度と親鳥と出会うことはない。最初の頃は何度か会いに行って近況をたずねることもあったけれど、明るい彼女はすぐに町で新しい友達をつくり、一人前の菓子職人を目指して毎日頑張っていた。だから彼女が教会にお祈りにくるときも、その姿を遠くから見守っていた。彼女はきっと素敵な女性に成長していき、そのうち誰かと結婚して、いつかその子供を連れて教会にやってくるようになるのだろう、と思っていた。


「――私(ワタシ)も風聞以上のことは知りませんが」


 そう前置きして、機械の国からやってきた道化師は彼の問いに答えた。


「当代のエヴァンゼール伯爵について奇妙な噂がまことしやかに囁かれていること自体は事実ですヨ。殊に三年前、最愛の妻を亡くしてからはひそかに外道の錬金術士とつながりを持つようになったとか、彼自身が悪魔に魂を売った魔術師なのだとか、エヴェンゼール家はそもそも恐ろしい吸血鬼の家系なのだとか。まあ、そもそもご本人が領地の屋敷に引きこもってしまっておりますのでネ。王都に暮らす人々にとって、こうした物語の真偽はさして重要なことではありません」


 去年の冬。

 彼女が行方不明になったセレームの町の陰惨な猟奇殺人事件の噂は、王都にも届いていたという。


「真偽を問わず知っている限りのことを話せと言われるのでしたら……そうですネェ。事件が起きる少し前、エヴァンゼール伯爵は王都の仕立て屋に新しい婦人用のドレスを注文したそうです。仕立て屋はなぜかその後まもなく店を畳んで王都を去ったとか去らなかったとかいうのもやはり真偽不明の噂話なのですが、もしや伯爵は黒魔術で死者の魂を呼び戻そうとしているのではないかとか、あの事件の哀れな犠牲者たちは、伯爵が妻を蘇らせる儀式の生贄にされたのではないかとか――ああ、残念ですが私(ワタシ)はそのようなオカルトにはあまり興味がありませんので。あくまで面白半分の噂話として耳にしたことがあるだけですヨ」


 ――確かに昨晩、夢遊病者のように教会を訪ねてきた伯爵の姿は聞いていた年齢よりも若く、そのような噂にも信憑性を与える酷薄な印象を受けた。


 義兄として親しくしていたはずのエリオットも、その人物が間違いなくローラン・ド・エヴァンゼール伯爵本人であるという確信は持てていなかった。

 三年のうちにひどく窶(やつ)れて人相が変わってしまったのかもしれないが、それでもまるで別人のようだと。

 顔の印象だけではなく、嗄れた声も、口調も。よく似てはいるがどこか違う。「……いいえ、あれは彼ではありませんでした」とエリオットは青い顔をして結論づけた。


 では、娘を探して訪ねてきたあの男は誰だったというのか。


 何もわからないというのは嘘ではなく本当だ。だからこそ、また何かが起きる前にあの男の正体と目的を確かめなければいけないし、守れるものがあるなら守りたい。けれど知るべきことを知るための鍵は、やはりあの子がなくしてしまった記憶の中にあるのだろう。


 道化師は、伯爵家の所有物に間違いないという懐中時計を宝物のように持っている真っ白な少女のことについても語ってくれた。

 すべての疑問は、当事者であるこの子によって解かれるはずだと。

 聞いた話をすべて鵜呑みにすることはしないが、彼自身も既にそう思い始めている。何よりも、最初に出会ったときにこの目で見た最も重大な事実を、この子にはまだ伝えていない。

 伝えなければいけないと思いながらも、まだ柔い無垢な心が壊れてしまいそうで、あえて伝えることをしなかった。


「あのね、シエル」

「何?」


 呼びかけられるといつも幼子のような素直さで振り向く少女の顔を見て、彼の心は大きく揺れた。

 この少女も、守ってあげなければいけない大切なもののひとつなのだ。

 何をどのように話すべきか、それとも話さずにいるべきかを秤にかけて考えながら歩いていた彼だったが、この華奢な少女を一度危険な目に遭わせてしまったことを思い出し、結局何も言えなかった。せめて今日でなくていい。一旦考えをきちんと整理して、また明日にでも――と、道の途中で丘の上の教会を見上げたとき、なぜか全身が凍るような悪寒がした。


 何を見たわけでも、音を聞いたわけでもない。

 けれど、おそらく彼の中に備わった本能のようなものが激しく警鐘を鳴らした。

 昨晩と同じように。


「ごめん、きみは彼らのところに戻って」


 考えるよりも先に彼らの顔が浮かび、何かに戸惑っている様子の少女にはそう伝えた。だいじょうぶ。彼ら、というよりもあの異国の青年ならきっとこの子を安全に保護してくれるはずだ。誰かに信頼を向けることは祈ることと同じだった。秘密を隠すために、彼は一瞬だけ少女の視界を塞いだ。


 再び目を開けたとき、あの子は彼を探すだろう。

 夕陽の空に飛び立った小さな黒い鳥は、教会にいる彼の友人のもとへと真っ直ぐに飛んだ。


(……エリオット!)


 ひどく嫌な予感がする。心の中で名前を呼び、強く強く無事を願った。なぜかわかる。今、彼の身に大きな危険が迫っていることが。

 門のそばには二頭立ての黒い馬車が停まっており、御者の姿は見えず、つながれたニ頭の馬はまるで作り物のように大人しく首を垂れている。門から聖堂の正面(ファサード)までまっすぐ続く石畳。その途中に、見慣れたカソック姿の友人が倒れているのが見えた。


 黒い鳥は急いでそのすぐそばに降下し、この町で彼らと共に暮らすための青年の姿に戻って、倒れた友人を抱き起こそうとした。杖は近くに転がっている。うつぶせに倒れていた身体を起こされ、友人は苦しそうにうめいた。


「エリオット、だいじょうぶ?」

「ああ……フィニアン。よかった、きみとシエルがどこにもいないから、皆で心配していたのですよ」


 友人は目を開けてほっとしたようにそう言ったが、彼は愕然とした。

 その身体を支えた手がぬるりと生暖かく濡れた。見ると、手のひらが真っ赤に染まっている。紺色のカソックの腹部の辺りの色がぐっしょりと濃く湿っており、深い傷口から流れ出した血液が石畳を赤黒く濡らしている。錆びた金属のような、嗅ぐだけで胸が悪くなるような血の臭いは、そのときになってようやく感じた。


「フィニアン、シエルは……一緒ではないのですか」

「喋らなくていいよ。シエルなら安全な場所に匿ってもらったからだいじょうぶ」

「よかった」


 咄嗟に嘘をついたようなものだが、友人はそれを聞いて安心したらしい。引き攣るように細い息を吐き出した途端、ごぼっと音を立てて口の中に血があふれた。内臓まで深く傷ついているということだ。血を失いすぎた顔色が紙のように白くなりつつあるのを見て、彼は思わずその傷口を手で押さえた。一体誰が、なぜ、という疑問は一旦腹の底にしまいこみ、声にも表情にも出さなかった。今、これ以上喋らせてはいけない。


「子供たちも、シスターも……皆、隠れていますから、無事です。昨夜の男が今、聖堂に……天使様の像が必要だと……」

「エリオット」


 しかし、喋るなと言っているのに友人は聞かない。今にも意識を失いかけているのだろう。その前に伝えるべきことを伝えなければと、途切れそうな意識を懸命につなぎとめているのがわかる。

 彼はその今際(いまわ)の際のような途切れ途切れの言葉を遮り、既に力が入っていない友人の手を強く握った。


「だめだよ。きみが死んだりしたら子供たちはどうなるんだ」

「……ええ。でも」

「しっかりして。きみのためなら、これくらい治してあげるから」


 もう目蓋の重みにも耐えきれなくなっていた友人は、ハッとしたように目を瞠った。彼はそんな友人に微笑みかけてから傷ついた身体を地面にそっと横たえて、血塗れになった手を自分の左胸に当てた。

 指先に規則的な鼓動の感触が伝わってくる。祈るように念じるとその鼓動が強まり、ほのかな光が内側から漏れ出した。


 すうっと自分の身体の疲れが消えていく。さらに念じると心臓から血の中に光が流れ込んでいくように、指先までほの白く輝いた。その光を友人に。できる限り分け与えるために、より強く。目を閉じて深く集中していると、手のひらで直にふれている傷口から友人の身体の中へと光が伝わっていく流れができたのがわかった。ああよかった、と彼は心から安堵する。間に合ってよかった。本当に。


「フィニアン」


 力なく落ちていた手がのろのろと持ち上がり、彼の服をつかんで揺する。こんなことをして大丈夫なのかと、彼を心配するように。

 大丈夫だと頷いて応えようとした、そのとき。


「――――え?」


 どん、と後ろから突き飛ばされるような強い衝撃があり、驚いて目を開けると、自分の左胸から赤くぬめった鉄の刃が飛び出しているのが見えた。

 だがそれは彼だけの血ではない。既にほかの誰かを刺し貫いて、まだその血に濡れたままの短剣の刃。

 背中から肋骨を砕いて深々と柄まで突き立てられた刃は、肉の中を無遠慮に掻き回すように傷口を拡げて引き抜かれ、無造作に放り捨てられた。


「あの子が戻ってこないのならもう間に合わないと思っていたのですが、こんなに良いものがあるとは思っていませんでした」


 いつの間にかすぐ後ろに立っていた男はそう言いながら傷口に手を差し入れ、丁重ともいえる手つきで何かを探り当てると、力任せに引き千切ってずるりと体外に引きずり出した。


「なっ……」


 彼は心臓をもぎ取られた胸の傷を押さえることも忘れ、かろうじて背後を顧みた。

 エヴァンゼール伯爵を名乗る、昨夜の男。

 その表情は見えない。視界はもう暗く閉じ始めている。それでも、手を伸ばした。

 男は何か短い言葉を言い残し、ゆっくりと歩き去っていく。


 ――思惟は、そこで途切れた。


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