16. 夕暮れの帰途
シエルが借りていたあの服は、人形用のドレスだったらしい。
ガルガンチュアの中の衣装掛けにたくさんのドレスがあるのを見てシエルは驚いたが、それらはすべてフィンドールが特別に誂えたものなのだという。高価な絹織りの布に金糸や銀糸で刺繍を施した豪奢なものから、町娘のように素朴なものまで。あの乱雑に置かれた大道具たちをよく見ると、なるほどその中に驚くほど精巧な女性の人形がお行儀よく座っていた。この人形を着せ替えてあげるための衣装だったというわけだ。
洗濯機とやらできれいにしてもらった紺色のワンピースに着替えると、すぐ近くに大きな姿見の鏡があった。そこに写っていたのはもちろん自分の姿だ。こんなに大きな鏡で自分を見るのは初めてだった。
服に着られているような、痩せっぽちで白髪の、気味が悪い目をした女の子。
「そうですネェ……一つアドバイスを申し上げるなら、髪をきれいに梳るだけでも印象は変わるものですヨ。あとは顔を上げ、背筋をしっかりと伸ばすことです」
「ひゃっ……!」
鏡の中のシエルの背後に音もなく現れた道化師の姿を見て、シエルは悲鳴を上げてしまった。フフフ、とフィンドールは満足そうに笑った。
「美しい淑女たちは髪が命と申します。しかし、美とは稀少価値です。華やかなドレスで着飾った彼女たちなどよりも、稀少価値でいえばお嬢サンのほうが遥かに勝るでしょうネ」
「……え?」
「フィンドールさん、シエルは怖がりだからあまり脅かさないであげて」
と、一緒に入ってきたらしいフィニアンが後ろから困ったように苦言を投げてくれた。
フィニアンの姿を見た瞬間、正直ほっとした。ハリトとは反対に、フィンドールのほうはなぜか近くにいるだけで緊張してしまうのだ。安心できないというより、安心してはいけない気がする、そんな緊張感だった。
「いやはや申し訳ありません。人を驚かせるのは私の趣味、いえ生きる喜びのようなものでして。突然のお声かけ大変失礼致しましたが、せっかくですのでお別れの前にコチラも鑑定させていただこうと参りました次第です」
「か、鑑定……って?」
「失礼」
次の瞬間、何が起こったのかわからなかった。
決して乱暴ではない手でおとがいを持ち上げられたかと思ったら、鼻先がふれあいそうなくらいの至近距離に笑うピエロの仮面がある。
心臓が止まるほど驚くシエルの反応にも構わず、フィンドールはもう片方の手をシエルの右目の辺りに近づけてくる。まるで医師のように慎重な二本の指で上下の目蓋を押し広げ、眼球を直に覗きこもうとする。
シエルは動けない。
こわい。
「フーム……深遠なる宇宙に広がる星空を閉じ込めたかのようで、いやはや何とも美しい。視力に問題がないというのが実に不思議ですが、外傷や眼球の疾患が原因というわけでもなさそうですネ。もしも王都の蒐集家や錬金術士の目に留まることがあれば、小国を買えるほどの値で取引されることになるやもしれません。それこそヒュロッペンの時計など目ではない、大変な稀少価値です」
「――フィンドールさん!」
ただの硝子玉かそれとも価値ある宝石かを言葉通り〝鑑定〟するようにシエルの目を覗きこんでいたフィンドールは、慌てたフィニアンが間に入って止めようとする前にさっと後ろに退いた。その手が離れた途端、シエルはふらりとよろめいてしまった。
見てしまったからだ。
笑うピエロの仮面の奥にあった、あやしい輝きをたたえた真紅の瞳。
人間の目ではなかった。
白目が真っ黒で、瞳が鮮血のように光る、悪魔のような目だった。
「ウフ。少し脅かしすぎてしまいましたかネ」
「本当だよ。シエル、大丈夫?」
「う、うん。だいじょうぶ……」
半ば放心して腰を抜かしたシエルをフィニアンが横から支えてくれたので、どうにか正気に戻ることができた。フィンドールは相変わらず悪びれた様子もない。特に気にしたふうもなく、言葉を続けた。なぜか今度は、フィニアンに向けて。
「人知を超えた美しさを人は畏怖するものです。それは貴方も同じですヨ、フィニアンさん。ですので私からは忠告を。――どうか決して不吉なモノを貴方達の教会に招き入れることのないように。貴方が持つそれも、この世に二つとない至上の稀少価値を持つのですから」
「……よく、意味がわからないけど」
この道化師は、一体何を言っているのか。
フィニアンは露骨に嫌な顔こそしなかったものの、さすがに相手の言動を警戒するように眉をひそめている。
どういう意味だろう、とシエルは考えた。しかし、フィンドールの口調は妙に意味深で、思わせぶりで。わざと迂遠な言い回しをするのは、言われた側を悩ませて、その反応を愉しみにしているようにしか思えない。
悪趣味だ、とシエルは思う。
フィニアンは言われた自身のことには何もふれず、微苦笑とも呼べない曖昧な笑みを唇に乗せて、社交的な言葉を返すことにしたようだ。
「忠告ということなら心に留めておくよ。改めて、色々話を聞かせてくれてありがとう、フィンドールさ」
ん、と最後まで言い終える前に。
シエルが、自分の胸の中でドクンドクンと不穏な脈動を感じ始めたその瞬間に。
「――キャアアアアッ!? 何っ! 何ですかハリト君ッッ! わかったわかりましたゴメンナサイやめて! 頭がっ」
フィンドールが突然耳を劈くような金切り声を上げて悶絶し始めたので、シエルとフィニアンはそろって目を丸くした。
両手で頭を押さえ、まるで気の狂った鳥みたいに奇怪な動きをしているのは、どうやらじっとしていては耐えられないほどの猛烈な痛みか不快感が突如として襲いかかってきたらしい。「へ……?」と、シエルは呆けたような反応をしてしまった。フィニアンも呆気に取られていた。
「不要な冗談などではないですヨ。私はただ親切心で申し上げているだけですのに、まったくもう……ああ、スミマセン、お帰りになられるのでしたかネ」
ここにはいない誰かにぶつぶつと不満を言いつつ、フィンドールはたった今の挙動が嘘だったかのようにけろりとした様子で振り向いた。
口角の両端をにっこりと持ち上げて、上機嫌のお手本のように笑っている。
「え? あ、うん、もう帰ろうかと……」
「ウフフ」
戸惑う、というよりさすがにフィニアンも少し引いている。仮面の道化師は胸の前に手を当てて大仰に一礼すると、天井のランプが作り出す陰影によってひどく不気味に彩られた笑顔でこう言った。
「それではお二人とも、またどこかで」
――何だか薄ら寒いような気がしながら外に出ると、少しずつ暮色に染まりつつある太陽の光をやけに眩しく感じた。
石畳の上に降り立つ前に、シエルはまず彼の姿を探した。姿が見えなかったのでどこかに行ってしまったのかと思ったが、ハリトはガルガンチュアの陰にいた。
さっきのは、彼が何かしたのだろうか。
ハリトはシエルの視線に気づいたようにこちらを見て、しかし何も言わずに微笑しただけだった。
「またね、ハリト」
と、シエルは声をかけた。
『ああ、また』
少しだけ寂しそうな風韻のある声が頭の中に優しく響く。まるで別れの挨拶のように、その手はバコラの弦を美しく鳴らした。
「……それじゃ、帰ろうかシエル」
「うん」
また会うという約束をした。きっと、また会えるだろう。
シエルは黒いローブのフードを目深にかぶり、フィニアンに手を引かれてガルガンチュアを後にした。
帰り道はアルチザン通りを通るようだ。たくさんのテントや馬車、行き交う人々の間を通り抜け、フィニアンは時計塔広場を南のほうに歩いていく。
その途中で、彼は珍しく肺の中をからっぽにするような深い溜息を吐き出した。どうやらずいぶん緊張していたらしく、ガルガンチュアから離れてようやく安堵したらしい。
「なんていうか……フィンドールさん、物知りだけど変な人だったね。……シエルはもう平気?」
うん、とシエルは頷いた。自分よりも、むしろフィニアンのほうがよほど気疲れしているように見える。
そういえば食事はとったのだろうか。朝からあんなことがあって、それからずっとシエルを探し回っていたなら、もうヘトヘトのはずだ。
「フィニアンこそだいじょうぶ?」
「さすがにちょっと疲れたかな。でもだいじょうぶだよ、ありがとう」
青年と呼ぶには男性的な精悍さに欠ける中性的な容貌は、見慣れていても時々ハッとさせられる。疲れているせいかあまり力のない儚げな笑みをシエルに返して、フィニアンは視線を宙に向けた。
「僕のことは別として、あの人、きみのことは真面目に心配してたみたいだよ。悪い人に攫われないように気をつけろって。王都の事情にも詳しいみたいで、色んなことを教えてくれたんだ。僕の知らないことばかりだった」
それは先ほどのことではなく、二人で話していた間のことを指して言っているのだろう。
――どうか不吉なものを貴方たちの教会に招き入れることのないように。
あの言葉がまるで不気味な預言のように頭の中に残っている。フィニアンはあの道化師から何を聞いて、どんな話をしたのだろうか。最初はあんなに明るくなっていた薄青色の目に今は曇りがあるところを見ると、聞いた話のすべてを信じきれたわけではなく、半信半疑でいるようだ。
「外で話すことじゃないから、後で話すね」
そう言ってフィニアンはアルチザン通りをしばらく進み、あの小さな店に立ち寄った。
店主の婦人は店じまいの準備に取り掛かっていたようだが、フィニアンが「ガレットさん」と店の中に親しく呼びかけると、手を止めて振り返った。
「おやフィニアンさん! どうだったの、あの子は見つかったのかい?」
「心配かけてごめんなさい。無事に見つかったから知らせにきたんだ」
「! ああ、よかったねえ」
と、フィニアンの傍らにいるシエルの姿を認めた店主は嬉しそうに顔をほころばせた。
「あんたのこと、フィニアンさんが血相を変えて探しにきたから、あたしも心配してたんだよ。見かけによらずお転婆なのはいいけれど、あんまり心配をかけちゃいけないよ」
「ご、ごめんなさい」
なるほど、シエルが行く可能性のある場所としてここを訪ねていたらしい。しかし当然のことながら、シエルを探すことになった経緯についてすべて話していたわけではなさそうだ。昨日の冒険が忘れられずに今度は一人で教会を抜け出して、迷子になってしまった。そんなところだろうか。
ガレットおばさんはやれやれと苦笑するような表情でシエルに言ったあと、「フィニアンさん、あんたもね」と付け加えた。
「え、僕?」
フィニアンはきょとんと自分を指さして問い返す。そうだよ、とガレットおばさんは目元のしわを深くした。
「あんたはレジーナとそっくりなところがあるからね。また隠れて何かやらかそうとしてるのは、顔を見たらわかるよ。あんたの身にもしものことがあったら神父様がどんな思いをなさるか、きちんと考えるんだよ」
釘を差すように言われて、「……今日はよく人から忠告される日だなあ」とフィニアンは困ったように笑った。言いながら隣にいるシエルのことをちらと見たのは、もしかしたらそれはあまりシエルの耳には入れたくない話なのかもしれない。彼の声音にはそういう響きが混ざっていた。
けれど、シエルは聞き逃さなかった。
レジーナ。
それは――フィニアンが話していた、去年の冬に殺害されたという女性の名前だ。おそらくそのときのことに関わる話なのだと気づいて、知らず背筋がこわばった。
行方不明になった友達を探して領主様の屋敷に行って、そのまま帰らなかったという、昔は教会で暮らしていた女の子。
ガレットおばさんは不意にそれまでの明るさを消して嘆息し、微笑みながらも癒えない悲しみを湛えた目で言った。
「いいかいフィニアン。レジーナはあんたのことが好きだったんだから、せめてあんたはいつまでも元気でいてくれなくちゃ。これはあたしの、あの子の母親としての願いなんだからね」
その言葉を受けて、フィニアンがどんな表情をしたのかはわからない。
シエルからは見えなかった。というよりも、自分が見てはいけないものだと思い、咄嗟に顔を伏せたのだと思う。
「わかってるよ。心配してくれてありがとう、ガレットさん」
答えたその声は、あくまで普段通りのフィニアンだった。
フィニアンはガレットおばさんに背中を向けながら「また会いにくるね」と言い残し、シエルをうながして店を出た。元々そんなに長居するつもりはなかったのだろうが、親しそうな間柄のわりに、妙によそよそしい去り方をしたように思う。
「……?」
シエルは首を傾げた。
店を出てからしばらくフィニアンは無言だったが、アルチザン通りを抜け、石造りの古い建物が立ち並ぶ道の向こうに教会の丘が見えてきたところで、ようやく口を開いた。
「あのね、シエル」
「なに?」
ためらいがちな呼びかけにシエルが振り向いた、そのときだった。
不意に、風が凪いだ。
フィニアンはシエルよりわずかに早くそれを感じ取ったようで、何かを探すような目をして周囲を見渡し、遠く前方の空を見た。
その視線の先にあるのは、丘の上であたたかな西日に照らされている聖エルフィーヌ教会。
『行くな』
と、最初に耳鳴りのような少し不快な感覚を伴って、頭の中で声がした。
さわざわと風が騒ぐ。けれど、風の音ではない。聞き間違えたりはしない。
「ハリト?」
シエルが思わず広場の方向を振り返って聞き返すと、またすぐに。
『教会に戻るな。今は危険だ。引き返せ』
「戻るなって……」
時間を惜しむように端的な言葉だけが伝えられ、シエルは混乱した。
きょろきょろと辺りを見回してしまうが、もちろん彼は近くにはいない。こんなに距離を隔てているのに彼の声が聞こえたことにも驚くが、それよりも、彼はいたずらにシエルを動揺させるために不確かな事実を伝えてくるような人ではない。ということは、わざわざこうして伝えなければいけないほどのことが教会で起きたのか。でも、危険なことが起きているというなら、むしろ行かなければいけないのでは。フィニアンにも伝えるべきなのだろうか。今、言われたことを。
「ごめん、きみは彼らのところに戻って」
逡巡している間に、シエルの視界は突然何かに覆われて真っ暗になった。
フィニアンが後ろから手を差しかざして目隠しをしたらしい。どうしてそんなことを、と思う間もないほどの、それはほんの一瞬のことだった。
真後ろで鳥の羽ばたきが聞こえた。
びゅうと強い風を背に感じて振り返ったとき、そこにはもう誰もいなかった。
「え……?」
いない。
シエルは何度か瞬きし、目をこすって、もう一度見た。しかし、ほんのさっきまでシエルのすぐ近くにいたはずのフィニアンが、影も形もない。
代わりに。
教会へ続く空の上から、真っ黒な鳥の羽が一枚、二枚と目の前に舞い落ちてきただけだった。




