15. 黒い影
みんなが当たり前のように信じているものを、実のところアルドはまったく信じていない。
例えば、聖エルフィーヌの祝日。アルドにとっては父さんが死んだ日だ。母さんはアルドを産んですぐに死んだので顔を見たこともない。
石工だった父さんは生まれてからずっと病気一つしたことがない頑丈な身体が自慢だったのに、冬死病とかいう治らない病気になって、最後は物も食べられないくらいやせ細って死んでしまった。
わがままなガキみたいな言い方だが、貧しくてもまじめに働いて懸命に生きていた父さんを、天使様は助けてくれなかったのだ。みんなが天使様の祝福を受けるはずの日に、アルドはすべてを失った。これから一人で生きていかねばならないのだと思った。
真っ当に生きる術を知らない、しかし毎日を必死に生きている孤児に対してこの町の人たちは寛容だ。けど、中にはもちろんそうではない大人もいるわけで、目に余る悪さを繰り返せばそのうち捕まって折檻される羽目になる。アルドだっていつそんな目に遭うかわからなかった。そうなる前に教会につれてきてもらうことができたのは、きっと聖女エルフィーヌのお導きだと――みんなはそう言うだろう。特に神父様と、あの顔が怖いシスターは何かにつけてそればっかりだ。でもアルドはそんなふうには思わない。だって、食うに困っていたアルドに同情して、実際に救いの手を差し伸べてくれたのは、姿も見えない天使様などではなかったから。
結果的には天使様とやらにお仕えしなくてはいけなくなったアルドだが、毎日の日課や彼らに言われた仕事をきちんとこなすのは決して天使様のためではなく、彼らをあまり困らせたくないからだ。まあ、ときには迷惑をかけてしまうこともないわけではないのだが。
それは仕方のないことだ。
アルドにとっては天使様のために何かするよりも、自分の周りの人たちのために何かするほうがよほど大切なのだから。
「……ここにもいねえのかよ」
そろそろ夕刻の鐘が鳴ってしまう。
教会を訪れる人がほとんどいなくなる時間まで待って大回廊から例の隠し部屋に忍びこんだアルドは、もしかしたらここにいるかもしれないと一縷の望みをかけていた最後のアテが外れてしまったことを知り、ひどく焦っていた。
彼女がいないことに気づいたのは、お祈りの時間が終わってすぐだった。
いつからいなくなったのかはわからない。みんなが祝祭の準備をしている最中に、アルドはシスターと神父様の目を盗んで教会中を探しまわった。そんなとき、いつもなら必ずフィニアンに見つかってしまうものだが、そのフィニアンも見当たらない。
たとえばフィニアンが神父様に何かのお使いを頼まれて、その用事のついでにシエルを連れ出してやったとか、そういうことならむしろ安心できる。問題は二人がいなくなっていることに神父様も気づいていなかったことで、何も心配しなくていいから準備の作業を続けるようにと言われたものの、アルドは心配でならなかった。
フィニアンがふらりとどこかへ出かけるのはいつものことだし、必ずしも彼がシエルを探してくれているとは限らない。
こうなったらもう、自分が町に探しに行くしかないのではないだろうか。みんながくだらない態度をとるせいですっかり臆病になってしまっているあの子に何かと世話を焼いているアルドにとって、それは自分の義務であるように思えた。
よし、と決意したアルドが膝を打って立ち上がろうとした、そのとき。
「何やってるの、アルド」
「! うわああっ」
埃まみれの床の上に座って思案していたアルドのすぐ横――下の入り口に続く階段から人の頭が生えてきた。
年下のくせに賢そうで、小生意気な顔。ラセルだった。
「な、なんだよびっくりするだろ」
「ごめん」
と口先だけで謝罪の言葉を述べるラセルだが、こんなところに一体何をしにきたのだろう。もしかして、とアルドは思った。
「……お前もあいつを探しにきたのか?」
少し意外に思ってアルドが訊くと、ラセルはこちらを見上げて小さな溜息混じりに答えた。
「僕はシスターに言われてきみを探しにきたんだよ。みんな忙しいのに、きみだけぜんぜん作業を手伝いもしないから」
返ってきた答えは素っ気ないものだった。一瞬でも期待した自分が馬鹿みたいだ。思わず頭にきてしまった。
「だっていま、そんなことやってる場合じゃねえだろ」
「あの子のことなら、僕たちは何も心配しなくていいって神父様が言ってたじゃないか」
「けど、フィニアン兄ちゃんも帰ってきてねえんだぞ。誰も心配しなかったら、じゃあ誰があいつを探してやるんだよ」
「だからってきみが探しに行っても、またみんなに心配をかけるだけだからね」
やめておきなよ、とラセルは言った。相変わらず薄情なやつだ。
でも、根っから冷たいやつではないということくらいアルドもわかっている。というか、シエルに対してだけやたらと言葉が冷たいのだ。まるで、見たくないものからわざと目を逸らそうとしているみたいに。
「お前、なんかあいつにだけやたら冷たいよな」
と、アルドはなじるように言った。
「別にそんなことないけど」
ラセルはふいと目をそらしてそう言うと、もうここに用はないとばかりに階段を降りていった。
なんなんだよあいつ、とアルドは不愉快というより不可解な気分になりながら、気を取り直して自分も階段を下りる。
ひどく急勾配なこの階段は狭く、一人ずつしか上り下りすることができない。うっかり足でも滑らせたら大変だ。
こんなところにしょっちゅう出入りしていたら、見るからに鈍くさそうなあの子はそのうち怪我でもしてしまうんじゃないかと、アルドはそれも心配していた。誰の目も届かないところで何かあったらどうなるのか、今度しっかり言い聞かせてやったほうがいいのかもしれない。いや。もしかしたらあの子は、もしそうなったとしても自分のことを探しにきてくれる人なんて誰もいないと思っている可能性さえある。
だったらなおさら、早く見つけてやらないと。
「――すみません、少しお聞きしたいことがあるのですが」
シスターの姿を警戒してきょろきょろと辺りを見回していたとき、アルドは後ろから歩いてきた誰かに呼び止められた。
一瞬フィニアンが帰ってきたのだと思い「あ! フィニ――」とまで言いかけてしまったのは、単に服の色が同じだったから見間違えただけに過ぎない。
黒い服。しかも、それは喪服だ。
三十代くらいに見えるその男はすらりと背が高く、白茶けた長い髪の毛を首の後ろで束ねている。白いというより青ざめたような肌色で、フィニアンとは似ても似つかない、濁った緑色の目だ。微笑みさえ浮かべてこちらに近づいてくるその顔がちっとも優しそうには見えないのは、肉を削ぎ落としたような顔立ちのせいだろうか。
「……何だよ?」
アルドは不審に思いながら、すぐ近くまでやってきた男と向かい合う形になった。黒い上着はかなり上等そうで、袖口をフリルで飾ったシャツに黒いベスト、レースのスカーフ、高いヒールのついた靴。それは貴族の服装だ。つい昔の癖で、アルドはその身なりを素早く観察した。特に目を引いたのは――右手の人差し指に嵌った白金の指輪。宝石を嵌め込んだようなただの装飾品ではなく、何かの紋章が彫られている。
「聖堂ならあっちだぞ」
たとえ相手が貴族であっても、教会で天使様に仕える身となったアルドには身分の差など関係ない。相手もそれは承知しているはずなので、アルドは臆せずに回廊の先を指差した。
しかし男は首を振り、すっとアルドの目の前に腰を下ろす。
しゃがんだ、という表現は適切ではない。背筋はまっすぐのまま優雅に片膝をつくように、男はアルドに目線の高さを合わせて再度口を開いた。
「あの子はどこですか」
「は?」
「ここに戻ってきているはずです。逃げたことも隠れたことも、私は怒っていないと伝えてください」
「? 誰のことだよ?」
(アルドっ)
と、なぜか慌てたように戻ってきたラセルが小声でアルドの服の裾を引っ張った。
何だと思って振り向くと、ラセルの目は必死に何かを訴えている。服の裾を掴む手は、小刻みに震えていた。
そんなことをされても、何が言いたいのかなんてわからない。
アルドは首をひねる。すると男が薄く笑った気配がして、再びそちらに向き直ると、やはりその顔は笑っていた。
「白く美しい私の娘です。昨夜は会わせていただけませんでしたが、やはりここにいるのでしょう?」
――ひくり、と喉が鳴った。
男は笑っているのに、その目が笑っていなかったから。
「……白い、って……シエルのこと、か?」
「シエル?」
その言葉を聞いた男の緑色の目の真ん中で、瞳孔が猫のように大きく拡がったのを見た瞬間――殺される、と思った。
あばら骨の隙間から冷たい刃物を差し込まれ、心臓をひと撫でされたような悪寒が走った。目の前にいる男から何か得体のしれないものを感じ、アルドはその場から動かないのではなく、動けなくなっていた。
「シ……シエルだったら、いない。今、どっか行ってる……から」
上擦った声で答えながら、アルドは半歩、後ろに下がろうとした。
しかしそこにはラセルがいる。同じ恐怖を感じているらしいラセルは、アルドの服をぎゅっと力いっぱい握りしめる。
「そうですか」
男はにこりとして立ち上がり、右手を自分の胸にあてる貴族の礼をしてみせた。
「教えてくださってありがとうございます」
そう言うと長い上着の裾を翻し、こつ、こつ、と靴音を立てながら回廊の向こうに歩いていく。
危機が去ったと身体が認識すると同時に、アルドの全身からどっと汗が噴き出した。
「アルド! ラセル!」
そのとき、聖堂のほうから神父様の声がした。硬直した首をゆっくりと動かしてその姿を見た瞬間、心の底からほっとした。
シスターも一緒だ。まずシスターのほうが小走りで近寄ってきて、アルドとラセルを守るように抱き寄せた。
「二人とも、大丈夫でしたか?」
「う、うん」
いつも厳しいシスターに優しい心配の言葉をかけられ、思わず目を白黒させながら答える。杖つきの神父様は遅れてやってきて、柔和な顔に労わるような優しさをいっぱいにして、アルドとラセルの頭をそれぞれ撫でた。
「ああ、怖い思いをしたね。きみたちはシスターと一緒に部屋に戻っていなさい」
「神父様。おやめになったほうが」
「いや。彼ともう一度話をしなければいけない。シスター・ソフィア、この子たちをお願いします」
神父様は何か深刻な様子で止めようとしたシスターにそう言うと、男が去っていった方向に杖を進めた。不自由な足を一生懸命引きずりながら男を追いかけていくカソックの後ろ姿を、アルドは半ば呆然と見送った。
「エヴァンゼール卿、待ってください。話を――」
神父様の声が遠ざかっていく一方で、行きますよ、とシスターが二人を反対方向に急き立てるように囁く。
あれは誰なのか。どうして部屋に戻らなければいけないのか。アルドにはわからなかったが、ラセルがすぐそばで震えるように呟いた。
「今のが、領主様……?」
「そ、そうなのか?」
ラセルは信じられないというような表情をしていた。その顔からは血の気が引いていて、真っ青だ。
「でも、ありえないよ。だって、領主様の年齢って、もう五十歳近いはずなのに」
「それ以上言ってはいけません」
シスターはきつく咎めるようにラセルの言葉をさえぎって灰色の目をすがめ、ことさらにゆっくりと言った。
「今見たものはお忘れなさい。よいですね、二人とも」
アルドは自分の肩に置かれたシスターの皺だらけの手が震えていることに気づいた。
今まで感じたことのない恐怖が身体にまとわりついている。
シスターも、怯えているのだ。




