14. 優しさの理由
祝祭の準備が進む広場は、人々の笑顔と色とりどりの花によって夢のように美しく彩られていく。
その片隅を異様な威圧感で占有して停まっているガルガンチュアに案内されたフィニアンは、この木材と黒鉄で造られた、見た目はかなり不格好で、巨大な車輪つきの小さな家かと思うほどの奇怪な自動馬車に、ずいぶん興味を持っていたらしい。
「――おや、おかえりなさい。探し人が見つかったようで何よりです」
対面したフィンドールの服装にも興味津々で、二人は意外にも話のうまが合うようだった。最先端の技術の話題とはそれほどまでに心躍るものなのか、あの湯沸かし器などについても、フィニアンはその仕組みについてあれこれと質問する。フィンドールのほうも興が乗ったようで、嬉々として解説していた。
「それじゃあ、フィンドールさんは王都にも行ったことがあるんだ」
「ええ。エリジア大陸の国々は大国から小国まで全てを巡りましたヨ。トランバニアの王都アンベリールは音楽と芸術の都ですからネ、私が訪れたときなどは――」
もはや友達同士のような二人の様子に辟易したらしく、ハリトは早々に外へ出た。
シエルはついつられてその後ろについていったが、ハリトは帽子の鍔の下からそんなシエルをちらと見ただけで何も言ってこなかった。
「……ハリトは興味がないの?」
『興味がないわけではないが。俺があの場にいる必要はないだろう』
彼はそう言いながら、ガルガンチュアの入り口ステップに腰を下ろす。右隣の場所を空けてくれたので、シエルもそこに並んで座る。ここは広場の喧騒に背を向けた日陰になっているので、誰かが目の前を通ることはほとんどなさそうだ。
ハリトはシエルの隣であの楽器の手入れを始めた。慣れた手つきで弦を拭き、張り具合を確かめたりしているのを、そこはそんなふうになっているのかと、シエルはつぶさに観察する。弦を指で弾くと、鼓膜にふれるかふれないかの音が鳴る。それを少し調節する。細やかで器用な手作業だ。きっと、わずかな音の違いを耳で正確に聞き分けられるのだろう。シエルには機械の話よりもこちらのほうが面白いと思った。
『この楽器には名前がある。バコラといって、故郷の古い言葉で最も美しい音という意味だ』
ハリトがそう言ったとき、どうやら彼はシエルにこの作業を見せてくれていたのだとわかった。
シエルは丁寧に手入れされているバコラを見つめながら、口の中で呟くようにその名称を繰り返した。この人の、故郷の言葉。
それはきっと、とても遠い場所なのだろう。
『俺の生まれた国では、古くからの歴史を書物ではなくバコラの音で伝承していた。奏者として生まれた者は生まれたその日からすべての歌を記憶し、次の奏者に継承することが役目であり使命だった。とても古い楽器だから、俺のほかには正しい弾き方を知る人間がもういない』
「……誰も?」
『ああ。譜面などないし、詩を書き残す文字もない。そのような古い歌に白髪のお嬢さんが応えてくれたときは驚いたよ』
骨ばった長い指が、今張り直したばかりの弦を軽く爪弾く。
かすかに震えるような美しい音は辺りの空気を潤して、深い余韻を残した。
『あの歌を、どこで知った?』
一瞬、責められているのかと思ったが、もちろんそんなわけがない。
ハリトはおそらくシエルと同じく、自分の容貌を隠すために深くかぶっていると思しき帽子の鍔の下からシエルを見つめている。
こうして彼の右側に座ってその顔を間近に見ると、エメラルドグリーンの目は澄んでいて美しく、元々は彫りの深い端整な顔立ちをしていることがよくわかる。褐色の肌はまだ若く、目元や口元にはまるで砂漠の国の王子のような気品さえある。だからこそ、傷を負ってゆがんだ鼻や唇の形がなおさら無惨で痛々しい。
「……それも、覚えてなくて」
シエルは決して嫌悪や恐怖ではなく、傷ついた人の顔を近くでまじまじと見つめるのはあまりに不躾だったと思って視線を外した。
ちゃり、と胸元の懐中時計を確かめるようにしながら、続ける。
「だからわたしも、知らなくて。どうして知ってるのか……わからないから、あなたがどこの国の人で、あれは何の歌なのか、聞いてみたいと思ってたの。もしかしたら、何か思い出せるかもしれないし……」
訥々と話しながら、シエルは自分でも少し驚いていた。
人と話すのは苦手だ。苦手なはずなのに、きちんと自分のことを伝えている。しかも相手は、年上の男の人なのに。
この人が樹木のように静かで、不思議な話し方をするせいだろうか。
それとも、その声が子供のようだから?
たぶんそうではない。それもあるけれど、違う。
この人が、シエルのことを少しも恐れていないからだ。
シエルは今、いつもかぶっているフードさえかぶっていない。白い髪も異形のような目も隠せない。それなのにこの人はまるでただの普通の少女を見るように、怖がらせないように、優しく真摯な眼差しでシエルの目を見つめてくる。
そういえば、この人は最初からそうだった。シエルのことをこう呼んだ。
星の瞳のお嬢さん。
まるで、それがとても好ましいものであるかのように。
『俺の過去はきみの過去とは何の交わりもない。しかし、きみがきみを知る手がかりになるかもしれないのなら話そう』
湖のように深い落ち着きを湛えた目を閉じて、ハリトの手はバコラの弦をそっと鳴らした。
いくつもの異なる音程と旋律が繊細な緯糸と経糸のように織り上げられ、遠い記憶の中で見たような、あの美しく哀しい異郷の風景を再びシエルの脳裏に描き出す。
砂の海に時は過ぎず 夢はまだ醒めぬ
星よ 約束の日はいつ来る
彼はまるで年老いた語り部のように、砂漠の夜のように静かな口調で語り始めた。
『――この大陸の西の、さらに西に砂の大陸があった。人々にカトスと呼ばれた白亜の都はもう存在しない。争いによってすべて灰になり、俺だけが生き残った。この身体がこのようになったのは生きながら火に焼かれたからだ』
その言葉はシエルの頭の中で、大きな衝撃を伴って響いた。
美しい曲の余韻を打ち砕くような衝撃に、しばらくの間、言葉を失ってしまった。
「あら、そい……?」
『千年も続いた、戦争だ。国と国が争い、多くの血が流れて民の命が失われる。砂の大陸ではそれが千年続いていて、千年前にも、その千年前にも変わらない争いがあり、ずっと繰り返し続けていた』
過去形で語られる言葉の端々から、薄々感じ取れることがあった。――この人はもう、故郷を失っているのではないかと。
しかしそれは、物語のように儚く美しい情景として語ることのできる過去ではなかったのだ。
が、話す内容とは裏腹にハリトの表情は穏やかだった。怯えるシエルを気遣う優しさがこもった眼差しで、そっと微笑する。
『だが、都には古くから伝わる予言があった。……遥か星より降り来り、その光宿せし娘、人に正しき知恵を与えん。人間は自ら始めた争いを終わらせる知恵を持たない。だから俺の故郷では、その知恵をもたらしてくれる希望の象徴を待ち望んでいた。それは夜空の星から降りてきて、その星の光を瞳に宿した白い娘の姿をしているという』
「え……?」
『無論きみには関わりのない話だ。しかし、きみが俺のほかには誰も知るはずのない歌の詩を知っていたことは事実。きみと俺の過去に何かつながりがあるのかもしれない、と仮定して、あくまで一つの可能性として考えるのなら』
ハリトはそこで一度言葉を切り、懐かしい過去を愛おしむような、悲しむような、どちらともとれる表情を目に浮かべた。
『俺には妹がいた。きみのように俺のそばで物語を聞くことが好きだった。もしかしたら、きみは妹の生まれ変わりなのかもしれないな』
ずっと考えていたことを、ようやく口に出したというふうだった。
その言葉を聞いて、シエルの心は大きく揺れた。
どうしてこの人のそばにいると安心できるのか。シエルもずっと不思議に感じていたことへの、それが答えのように思えたから。
しかし、それを口にしてしまったことで鈍い痛みを覚えたような彼の目を見てしまっては、何も言えなかった。きっと、言うべきことでも聞くべきことでもなかったのだ。
彼は、彼にとってかけがえのなかった大切な存在を失っていて、それに代わる何かがあるようなことがあっていいはずがないのだから。
「……ありがとう、ハリト」
精一杯の感謝を気持ちをこめて言うと、ハリトは首を振った。
『今言ったことは忘れてくれて構わない。きみがきみの正しい答えに辿り着けることを願っているよ』
そのぎこちない笑顔を見て、シエルは気づいた。
この人の笑い方は――フィニアンとよく似ている。
自分を含む誰かを傷つけるような響きをもたない言葉や、飾り気のないやわらかな笑顔。こうして隣にいると安心できるのも同じだ。見た目が全然似ていないので、今まで気がつかなかった。
むしろ、フィニアンのほうがこの人に似ているから、だったのだろうか。
ついそのように考えてしまい、シエルはすぐにその考えを打ち消した。なぜだか、少し泣きそうな気持ちになった。
ああ、そうだ。
どちらにしても、この人とはもうすぐお別れしなければいけない。
今こうして過ごしているのはおそらく、別れの挨拶をするための時間なのだ。
「また会える?」
と、シエルはたずねた。
ハリトは少し迷うように考えて答えた。
『きみは俺たちのような異教者と本来関わるべきではない。……だが、きみと話すことができて嬉しかった。俺はきみの声を忘れないよ、シエル』
「!」
名前を呼ばれたことに驚いた。ハリトはシエルの顔を見て笑った。
『祝祭が終わるまではこの町にいる。もし、何か困ったことがあれば呼んでほしい。離れていても呼び声ならば必ず聞こえる。一応言っておくが、常に他人の私生活を盗み聞きしているわけではないからな』
「う、うん。わかった」
『きみが呼べば応える。これは約束だ』
きっと、別れの寂しさを和らげようとしてくれたのだろう。子供たちがする約束のサインのように右手の小指を差し出して、ハリトは指切りをしてくれた。
それはいつまでも覚えていたいような、あたたかい感触だった。
絡めた指をほどいてしまうのは名残惜しかったが、そのとき、頭の真上で時計塔の鐘が鳴り響いた。
――ごおおん、ごおおん。
重く低く町中の空気が震える。シエルは顔を上げ、だんだんと夕色を帯び始めてきた空を見る。もう、時刻は十六時になったのだ。
「シエル」
と、間もなく自分を呼ぶ声が聞こえた。
フィニアンだった。
「話しこんじゃってごめんね。服、返してもらったから。そろそろお暇しようか」
「あ……うん」
シエルは夢から覚めたような心地で返事をした。
フィニアンはそんなシエルを見て何も言わず、ただ労るように微笑する。優しく微笑した薄青色の目は、そのままハリトのほうに向けられた。
「ハリトさん。フィンドールさんにも言ったけど、祝祭の日には必ず教会にきてください。僕とシエルで聖堂を案内するから」
フィニアンがそう言うのを聞いて、シエルは思わずハリトと顔を見合わせた。
自分で異教者と言っていたが、おそらくこの人はシエルと同じように、自分が教会のような神聖な場所に足を踏み入れることを許されるとは思ってもいなかったのだろう。ハリトは一瞬虚をつかれたような顔をしていたが、シエルの眼差しに目を細めて頷いた。
『では、それも約束しよう。楽しみにしているよ』
「! うん……!」
シエルは思わず子供のように声を弾ませてしまった。ありがとうフィニアン、と振り向いてお礼まで言ってしまった。
フィニアンは目をしばたたかせ、そっと微笑を深くした。
交わした約束が叶うことをこのときだけは当たり前に信じることができたのは、なぜだろうか。
七日後の平穏なんて、誰にも約束できないはずなのに。




