13. 吹き溜まりの街角で
乞食や貧民といっても様々な人がいる。
ある層から転落して乞食に身を落とした人がいれば、貧民の家に貧民として生まれる子供もいる。元々は町の外で暮らしていた農民も多いという。
数年前の長く続いた不作によって生活基盤を失い、収入を得られなくなった彼らは施しを求めて町で暮らすようになり、町の人々から憐みを受け、厭われ、爪弾きにされながら、やがてこの家無し通りにたどりつく。王都で罪を犯した人がこの町に流れ着くこともある。もしも通りの奥に行ってしまうと、そうした犯罪者くずれのスリやごろつきが集まる闇市に迷いこんでしまう危険があることは知っておかねばならないらしい。
しかし王都からやってきた神父様は、そんな家無し通りの人々にも等しく祝福が与えられるべきだと考えた。
すべての人が信仰と祈りを必要としているわけではない。天使像を磨く人もいれば足蹴にする人もいる。しかしそういった人々にも等しく明日のパンは必要で、やはり等しく与えられるべきなのだ。
だから教会では彼らのために配給のパンを焼き、自力で施しを受けにくることができないほど弱っている老人や病人のために、神父様が自ら荷車を引いて家無し通りを訪れるようになった。それが十年前のことだ。
風が吹けば土埃が立つ通りには、戸がある家もあればない家もある。家とも呼べない筵の上に屋根を架けただけの粗末な住まいもある。三年前、神父様が不幸な事故によって荷車を引くどころか杖なしでは歩くことさえできなくなってから、フィニアンは神父様に代わって荷車を引き、ここの人々にパンを届けるようになったらしい。
「それよりシエル、どうしてここに? ここできみを探していた僕が言うのもおかしいけど、迷いこんできたわけじゃなさそうだよね。……シエル?」
広場へ戻る道を歩きながらそのような話をシエルに語り聞かせていたフィニアンは、ふと怪訝そうにしてシエルの顔を覗きこんできた。
シエルはフィニアンの話を聞いていたつもりだが、どこか心ここにあらずの顔をしていたかもしれない。呼びかけられて初めてそのことに気がついた。
「ごめんなさい。あのね、一緒に探してくれた人がいたの。南西の森はこっち側にも続いているから、もしかしたらわたしがここに迷い込んでないか心配して、ここを探してるんじゃないかって」
「ふうん……じゃあ、その人のおかげだったんだ。でも、きみみたいな子に一人でこの辺りを歩かせるのは危ないよ。その人はどんな人?」
「フィニアンを見つけるまでは一緒についてきてくれてたの。いつの間にかいなくなってたけど、たぶん広場に……」
そのとき、空気がやさしい震えを帯びて流れた。
ハッとして見回すと、すぐに見つけた。家無し通りを出てきて、この辺りにはほとんど人の気配がない。西門の近くはゴミ捨て場になっているらしいのでそれもそのはずだろう。古くなった建物を解いた跡のような石材の上に腰かけて、大きな楽器を抱いている姿があった。
繊細で不思議な響きを持つ儚い音色とは裏腹に、その弦楽器は長身の彼が両腕で抱えなければいけないほど大きい。ふれればたやすく指先の皮膚を裂きそうな細い弦が何十本も張られていて、真ん中に穴があいた楕円形の大きな本体と、反りのある長い首の部分とで、シエルが見たことのない奇妙な動物の形を模しているようにも見える。
聴衆は誰もいない。一人で静かに、誰も知らない遠い異国の曲を爪弾いている。
どこまでも広がる砂の海や、乾いた風、朽ちゆく都に星降る夜――そんな情景が目蓋の裏に浮かぶような、とても美しいのに、何だか哀しい音色だ。
見るからに扱いが難しそうなその楽器の名前は、何というのだろう。
ほんの少し聴いただけでわかる。きっと、この楽器の歌声をこれほどまでに美しく引き出せる演奏者はきっと世界のどこにもいないだろう。まるで百年の昔からずっとこうしてこの楽器と共に星を数え、幾千の歌を奏で続けてきたかのようだ。
「……それ、なんていう曲?」
演奏が終わるのを待って、シエルはたずねた。
知りたいと思った。
彼が弾いていたのは、あのときと同じ曲だったから。
『曲名はない。西の果ての土地に生きる人々が、星の娘に祈る古い歌だよ』
そう答えて、ハリトは演奏を終えた楽器の首を肩から下ろした。
かすかに震える音色の余韻が風に乗って、賢者のような静謐を秘めた少年の声とともにシエルの耳朶を撫でた。
「シエル。……もしかしてその人が?」
と、フィニアンがそっと囁きかけてくる。声を低く抑えたのは、確認のための問いを彼に聞かれることを憚ってのことだろう。
しかし、今までの会話も全部聞こえていたはずだ。シエルがフィニアンの問いかけに「うん」と頷いてから改めて様子を窺うように彼のほうを向くと、ハリトはシエルが次にたずねようとしていたことを先取りして答えた。
『再会の邪魔にならないようにあの場から離れはしたが、あの男がきみの服を預かったままだからここで待っていた。彼が見つかったとはいえ、きみを置いて先に帰るのも無責任だろう』
「そ、そっか」
お礼も別れの挨拶も言えないままいなくなってしまったと思っていたので、シエルはそれを聞いてほっとした。
そして、フィニアンはそのささやかな相槌を聞き逃していなかった。彼にはシエルが独り言を言っているようにしか聞こえていないのだ。不審そうに眉をひそめる気配を感じ、シエルは急いで言葉を継いだ。
「――そっか、ここで待っててくれたのね! お礼を言わなきゃと思ってたのにいなくなってたから……ええと、そう、この人がフィニアンで……」
深い影が落ちる帽子の鍔の下で、エメラルドグリーンの目が丸くなっている。
咄嗟のことだった。秘密をむやみに明かされたくはないかと思い、何とかごまかそうとしたつもりだった。
ただ、不自然だったかもしれない。ハリトは珍しく――といえるほど長い時間を過ごしたわけではないが、何となくわかる。おそらく彼にしては珍しく、可笑しさをこらえきれなかったように笑った。
『お気遣いありがとう、お嬢さん』
心のこもった感謝の言葉を受け、シエルはその対応が間違っていなかったことを知る。それから、どうにか誤解のないようフィニアンに説明することを試みた。
彼はあくまで偶然近くを通りがかって、倒れていたシエルを助けてくれたこと。
遠い国からやってきた旅芸人であること。
喋ることはできないけれど、親切で優しいこと。
秘密を伏せて話すことができるのはそれくらいで、実際にシエルが知っているのもその程度のことだけだが、シエルの拙い説明を聞いたフィニアンはそれで納得したのかどうか。
その不安は杞憂だった。
フィニアンはシエルの説明を聞き終えると彼のほうにきちんと向き直り、片手を胸に当てて丁重に言った。
「神父様に代わってお礼を言うよ。シエルがお世話になりました。ありがとう、旅の人」
シエルは思わず目をしばたたかせた。
たどたどしく言葉を選びながら、正直、怪しい説明だと自分でも思っていた。納得してくれたのはいいのだが、本当に納得できたのだろうか。シエルの疑問を感じたのか、フィニアンはこちらを見て微笑した。
「きみがそんなふうに言うなら怖い人じゃないのはわかるよ。失礼な言い方だけど、その見た目でこの子が怖がっていないなら本当に優しい人なんだろうから」
言葉の前半はシエルに、後半はハリトに向けて言ったものらしい。
ハリトは無言で帽子を取って頭を下げ、すぐにかぶり直した。言われた言葉に対しては否定も肯定もしていない様子だが、フィニアンは好意的な目でその仕草を見たあと、細い顎をつまんで考えながら言う。
「ええと、あとは……そうだ、この子の服を預けてあるんだっけ。よければきみたちのテントに案内してもらってもいいかな」
「あ、違うよ。ハリトたちのは、テントじゃなくて――」
シエルが思い出したようにそのことを伝えると、フィニアンは「えっ」と声を上げた。
その目の色がまるで少年のようにパッと明るくなったのをシエルは見た。ああそういえば、神父様が言っていた。
貧民に生まれついたというこの美しい青年は、この国にはない珍しいものが好きなのだと。




