12. 不思議な導き
このガルガンチュアで転々と各地を旅している彼ら二人は、聖エルフィーヌの祝日に合わせて東の街道からはるばるやってきて、話に聞いていたとおり三日前からこの町に滞在しているそうだ。
「まあ、別にわざわざ稼がなくても路銀に困っているわけではありませんので。ちょっとした観光旅行のようなものなんですけどネ」
フィンドールは朝から何も食べていなかったシエルに軽食の焼き菓子を与えてくれ、ついでの世間話のようなことをひとしきり話すと、何事もなかったかのように笑いながら奥の扉の向こうに行った。ハリトによると、ガルガンチュアの点検作業に入ったらしい。
『お嬢さん』
まず先に呼びかけられてから、頭の中で声がした。
『先に伝えたように、彼は少なくとも大きな怪我はしていない。狼は賢く人間に対する警戒心が強い。単独の個体が人間に襲いかかることはほぼないし、襲うとすれば真っ先に急所の喉を狙う。そのような獣に人間が襲われて怪我を負いながら逃げたとなれば、そこには必ず痕跡が残るものだ』
と、ハリトは念を押すように言った。
瑞々しい少年の声で紡がれる言葉は正確で明瞭だ。フィニアンを探すといっても、シエルが思いつく方法は手探りで、とにかくまずはあの森へ戻ることだった。しかし、それはやめておいたほうがいい、とハリトは言った。
『もしレターニア山の狼が町に迷い込んであの付近を縄張りにしている場合、不用意に近づくと再び遭遇する危険もある。彼のほうもきみを二度も危険な目に遭わせたくはないだろう』
「じゃあ、どこを探せばいいの?」
シエルが途方に暮れると、ハリトは少し考えこむように目を伏せて顎をつまんだ。思案に要した時間は短かった。
『彼が怪我をしたとしても、きみの安否を確認するにしても、合理的に考えれば先ず教会に戻るべきだ。……しかし例えばきみたちが逆の状況だったとして、いるはずの場所に彼がいないことを知ったとき、きみは真っ先に教会に戻ろうとするだろうか』
「それは」
落ち着いた口調で問いかけられ、シエルは考えた。ハリトは黙ってシエルを見つめている。むやみに町に出て探し歩くのではなく、まずはシエル自身の考えを整理させようとしているらしい。
わたしならどうするか。つまるところ、シエルならそうすると考えたフィニアンはどうするか。今の自分が答えだった。
「……とにかく探さなきゃ、って思う。それで、たぶん、迷子に……わたし一人じゃ、ちゃんと教会に帰れるかどうかも……」
そもそも今日、シエルはフィニアンに連れられてこっそりと教会を抜け出した。二人でいなくなって二人で戻るのと、どちらか一人がいなくなって一人で戻るのとでは騒ぎの度合いが大きく異なる。よりにもよって祝祭の期間中に教会でそんな不吉な騒ぎを起こすわけにはいかない。フィニアンならきっとそう考えてまずはシエルを探すだろう。ハリトの言葉通り、彼が無事でいるのなら。
――けれどやはり疑問が残る。それなら、なぜいなくなってしまったのだろう。
「森の中は、代わりに見てきてくれたのよね?」
シエルが確認すると、ハリトはうなずいた。
『ああ。狼の声を聞いてすぐに、きみを見つけて足跡を辿った』
「フィニアンを見たわけじゃないのに、大丈夫って言いきれるのはどうして?」
純粋な疑問だった。
明らかな確信をもってそのことを言い切るハリトの顔を見上げ、シエルはまっすぐ問いかけた。
疑っているわけではない。もちろん本当は何かほかの事実を隠しているのではないかと疑うべきなのだが、この人の声からはそれが真実であることしか伝わってこないからだ。
けれど、その声の仕組みもシエルはまだよくわかっていない。また単純に、彼がそれを真実だと思っているだけで、本当はそうではない可能性もある。狼の性質にしても、だからといって手放しに無事を信じられる根拠にはならないと思う。
しかし、もし間違っていたら取り返しのつかないことを断言するような人にも思えない。彼は一体、何を根拠にフィニアンが無事だと言っているのか。
シエルはただ不思議で、ようやくそのことをたずねたのだった。
『答える前に一つ質問をしてもいいだろうか』
エメラルドグリーンの目はまっすぐにシエルを見つめ返す。質問に質問で返す形だが、それはシエルの質問に答えるために必要なことなのだろう。シエルが頷いたのを見て、ハリトは静かに言った。
『きみはなぜ俺を怖がらないのか教えてほしい』
「え……なぜ、って」
シエルはその問いに戸惑った。ハリトの表情は変わらない。
『俺の姿は誰が見ても醜く恐ろしいはずだ。この声にしても、人は悪魔の仕業かと怯えるものだよ』
まるでそれがごく普遍的な事実であるかのように平明な言葉で述べられ、シエルの表情は固まった。
はずだ、と言われても、どう返せばいいのか。確かに見た目がかなり異様で痛々しいことについては否定できないが、それが「醜くて恐ろしい」という言葉の表現になるのなら、まさか肯定するわけにもいかない。
そんなシエルの顔を見て何を思ったのか、あるいはその顔が彼の求める答えになっていたのか、ハリトはふっと笑った。
『ではきみの信頼に応えるために、一つ秘密を明かそう』
「――え?」
いいの、とシエルは思わず聞き返す。ハリトは頷き、自分の右耳を手で示す仕草をした。
『あの男が言ったように、俺はあなたたちよりも耳がいい。きみのことも、彼のことも、なぜあの場所にいたのかも、すべてはこの耳で聞いていたから知っている』
あっさりとした口調で明かされたその秘密だが、シエルの頭は彼が言ったことをすぐには理解できなかった。
おそらく彼も一度の端的な説明だけで理解を得られるとは思っていなかったようで、言葉を続けた。
『昨夜、エヴァンゼール伯爵が馬車に乗ってきみたちの教会を訪れたことも』
「!」
そう言われてようやく、はじめてシエルは驚きを顔に表した。
たしかにそれは彼が知り得ないはずの出来事だった。少なくともシエルは何も話していない。
いや、もしかしたら夜遅くに教会へ向かう馬車を偶然見かけた可能性だってあるかもしれないが、シエルは今までのことがようやく腑に落ちた気もした。
たとえば目が覚めてすぐに、姿の見えない声と言葉を交わしたあのとき。
あの場にいなかったはずのハリトとあんなふうに話をすることができたのは、つまり、ハリトにはシエルの声が聞こえていたということだ。
この人は床や壁を隔てていてもシエルの声を聞くことができて、離れた場所から自分の声を届けることができる。信じがたい話ではあるが、この人にそういった、ある種の魔法とも呼べるような不思議な力が具わっていることは、シエルにはもはや疑いようがなかった。
そしてその魔法は、シエルと話したときなどよりもずっと広い範囲に及ぶということらしい。
『ではお嬢さん。これからそれを使って彼の居場所を探しに行く。遠くに意識を向けるから近くのことには気づけない。離れないようについてきてほしい』
ハリトはそう言うと傍らに置いていた鍔広の帽子をかぶり、外に出るときはそうするのが当たり前であるかのように大きな箱――というより何かのケースを背中に担いで立ち上がった。
いつもと違う服を着たままで外に出ることになったシエルは自分の髪や顔を隠す手段がないことに気づいてうろたえたが、彼は心配いらないと言った。
広場の喧騒は部屋の中にいても伝わってくる。大勢の人。先ほどフィンドールの奇術に巻き込まれたときはシエルも誰もそれどころではなかったが、自分の意思で外に出るのは勇気が要った。しかし、本当に心配はいらなかった。
どういうわけなのか、誰もこちらを見向きもしないのだ。
広場にひしめくテントの間近を通り抜け、行き交う見物人たちとすれ違いもするのに、誰にもまったく気づかれない。
異様な姿の二人に対して見て見ぬ振りをしているのではなく、まるで本当に見えていないかのようだった。
(もしかして)
これも奇術の一つなのかもしれないとシエルは思った。あるいは、やはり魔法なのか。
シエルが驚き、感心している間にもハリトは人混みの中へ歩いていく。シエルは言われた通り、離れないようにと急いでそのあとを追いかけた。
太陽の傾きの具合を見るともう正午をとっくに過ぎている。鐘の音を聞いた覚えがないということは、フィニアンと別れて意識を失い、目が覚めるまでの間にそれだけの長い時間が経っていたということだろう。
ハリトは広場を出て、まっすぐ西の大通りへ向かった。
セレームの町は迷路のような構造だ。まずは時計塔広場から東西南北に交差する十字の大通り。さらに放射状に伸びるいくつもの通り。それらの通りは互いに結び合うように細い路地でつながっていて、ひしめき合う建物の屋根が空をずいぶん狭くしている。幼い頃から住み慣れている者であれば方向を知るのにさほどの苦労もないのだろうが、旅芸人としてこの町にやってきたばかりのはずであるハリトはなぜか迷うことなく街角を曲がり、すいすいと路地を進んでいった。
美しい街並みの奥へ、奥へと。
そうして迷いこむようにたどりついた場所は、華やかなアルチザン通りや時計塔広場とはずいぶん印象が違っていた。
道幅が狭く、路面の石畳もほとんど剥がれてしまっており、きちんと整備されているようには見えない。いつ倒壊してもおかしくないほど老朽化した建物や、バラックと呼ばれる粗末な家屋の中からそっと顔を覗かせる人々。舗装のない地面の上に座ったり横になったりして一日を過ごしているような人たちが、緩慢な動作で胡乱げにこちらを見る。
『――この辺りは貧民窟に近い、家無し通りと呼ばれている場所だ。治安のいい場所ではないからよく周りに気をつけるように』
ハリトの声が頭の中にそう囁きかけてきて、緊張したシエルは無意識のうちに彼の服の裾をつかんだ。
町を囲む高さ十メートルほどの外壁のほぼ真下。太陽が傾けば日当たりもずいぶん悪そうだ。ここに住んでいるのは、貧民や乞食――この町で最も貧しく、不衛生で、みすぼらしい、そんな暮らしを送る人々だった。
「ここに本当にフィニアンがいるの?」
思わず小声で問いかけながら思い出す。そういえば、フィニアンは自分が元々貧民だったことを話してくれた。昔は貧民窟に住んでいたのだと。
本当なのだろうか、とシエルはそのことに疑いを抱いた。あるいは、このような場所にいたからこそ神父様は彼を見つけたのだろうか。掃き溜めのような吹きさらしの場所では特別に際立って見えたに違いない、エルフィリア・ブルーの目を持つ綺麗な少年を。
『あの森にはこちら側から行くこともできる。万が一、きみが道を誤ってここへ迷い込んではいないかと探しにきたのだろう』
ハリトは落ち着き払った声でそう言いながら、つと前方を指さした。
さながら親鳥に従う雛鳥のように、シエルはその指先を追ってそちらを見る。
「あっ、黒いおにーさん!」
「またお菓子持ってきてくれたのっ」
少し離れた場所から、そんな声が聞こえた。
道端に子供たちが集まっている。身なりからして、おそらく貧民の子供たちだろう。小さな子供たちと目線を合わせるようにしゃがんでいる黒い服の背中が目に飛び込んできた瞬間、シエルは思わずあっと声を上げそうになった口元を咄嗟に両手で押さえた。
信じられない。
本当に、見つけてくれた。
「ごめんね、今日は何も持ってきてないんだ」
「なーんだ」
手に手に汚れた布を持っている子供たちを相手に、黒髪の青年は何やら親しげな様子で話しかけている。
子供たちが集まるその場所には、古ぼけた灰色の石像が建っているのが見えた。
人々に忘れられ、長年の風雪にさらされてすっかり目鼻の彫りをなくしてしまった――天使像、だろうか。
「天使様の像を磨いていたの?」
「えへへ。もうすぐ七年ぶりに天使様が帰ってくるから、天使様にいいことすればいいことがあるって、お母さんが言ってたんだ」
「あたしもお掃除したのよ」
「ぼくもっ」
「そう。サラとルカもえらいね」
青年は地面に膝をつき、順番に子供たちの頭を撫でてやる。子供たちはきっと彼のことが大好きなのだろう。みんな嬉しそうに、中には何かをせがむように人懐っこく彼の腕に抱きつく子もいた。そんな子供たちにおそらく優しい笑顔で接しながら、彼はたずねた。
「ところできみたち、この天使様みたいなお姉さんを今日どこかで見かけなかったかな」
「えー? こんなのじゃわかんないよ」
「髪が長くて真っ白で、宝石みたいな大きい目をしてる。見たらすぐにわかると思うよ」
「けど、この像に宝石なんかついてないよ」
「ねえおにーさん、天使様って会えるの?」
「もう町にきてるってこと?」
自分の思いついたことを口々にたずねる子供たちの様子は教会の子供たちと同じように無邪気で、彼はわざとはぐらかすように首をかしげた。
「さあ、どうだろう? 僕も探してるんだけどなかなか見つからなくて。きみたちが七日間きちんとお祈りすれば、きっと会いに来てくれるんじゃないかな」
「ほんと?」
「うん。ひょっとしたら目には見えないかもしれないけど、天使様はきみたちのことをいつも見守ってくれてるよ。――ほら、手を出して。きみたちに天使様の祝福を」
「あ! やったあ!」
ポケットの中を探ると偶然小さな飴玉か何かが入っていたらしく、それをもらった子供たちは大喜びで走り去っていく。
青年はしばらくその後ろ姿を見守っていたようだが、やがて深い溜息をつくようにしながら立ち上がった。
「……フィニアン?」
シエルがおずおずと声をかけると、癖のない長めの黒髪が大きく揺れた。
振り向いたフィニアンはまるで冬のように冴え冴えとしていた薄青色の目をこれ以上ないほど大きく瞠り、何か言う前にこちらへ駆け寄ってきた。
ずいぶん長い時間、もしかしたら町中を探し回っていたのかもしれない。心なしかいつもより顔が白く、頬にかかる髪がほつれている。なんと声をかけたらいいかわからず、シエルが両手の指を組み合わせておろおろしていると、フィニアンはその姿を確認するように何度か瞬きして、そっと微笑した。
「無事でよかった」
水面にそっと花びらを浮かべるような、そんな声音だった。
フィニアンは胸に手をやって深い安堵の息を吐いてから、改めて笑顔を浮かべてみせた。
「きみの姿がどこにも見当たらなくて心配したよ。……ところでその格好、どうしたの?」
「えっと、これは」
一体どこから話せばいいものかと、シエルは説明に困る。でも、それよりも――フィニアンのほうこそ、無事でよかった。
と、安心した途端にじわりと目頭が熱くなり、たちまち視界がにじんだ。やけに熱い涙が両目からぼろぼろとこぼれ落ち、嗚咽がもれる。どうしよう、と自分の涙に戸惑っていると、突然強い力で身体がぐいと引き寄せられた。
「怖い思いをさせてごめん。もう大丈夫だから」
生まれて初めて誰かの腕の中に抱きしめられて、息が止まった。
何の匂いもしない。
元々の体温が低いためか、着込まれた服越しにぬくもりを感じることもなかった。
けれど間違いなくフィニアンだ。そう思うと今まで張りつめていたものがすっかり緩んでしまったように、涙があふれて止まらなくなった。走って逃げてしまったこと。心配をかけたこと。こんなに探させてしまったこと。ごめんなさい、と胸にすがりついて声を詰まらせながら謝ると、フィニアンはそんなシエルの頭や背中をあやすように撫で、落ち着くまでずっとそうしていてくれた。
シエルをここまで連れてきてくれた彼は、気づけば忽然と姿を消していた。




