第九話 継承
「それで十分だ」
クロイツはそう言うと、レオの横を通り過ぎる。
レオは小さく息を吐き、その背中を追った。
地上の喧騒は、歩みを進めるごとに遠ざかっていった。
昨日は周りを見る余裕なんてなかった。
手記を読み、訳も分からないまま気を失った。
だから、この場所をちゃんと見るのは今日が初めてだった。
クロイツは振り返らずに歩く。
「ついて来い」
短く言う。
その後ろ姿を追いながら、レオは辺りを見回した。
地下とは思えないほど広い。
石造りの部屋がいくつも並び、人が行き交っている。
荷物を運ぶ者。
食事の支度をする者。
傷の手当てを受ける者。
誰もが慌ただしく動いていた。
その光景は、レオが思い描いていたレジスタンスとはまるで違っていた。
もっと血なまぐさい場所だと思っていた。
武器を抱えた危険な連中が集まり、革命だの戦争だのと騒いでいる場所だと。
だが目の前にあるのは、ごく普通の生活だった。
食卓を囲み、笑い合う声が聞こえる。
年若い団員がおばさんに叱られながら荷物を運んでいる。
「こら! そんな持ち方したら卵が割れるだろ!」
「す、すみません!」
「謝る前に持ち直しな!」
周囲から小さな笑い声が漏れる。
レオは思わず足を止めた。
「……なんか」
ぽつりと漏らす。
「思ってたのと違うな」
クロイツは歩みを止めず、小さく笑った。
「何を想像してた」
「もっと物騒な連中かと」
「残念だったな」
クロイツは肩をすくめる。
「ここは戦場じゃない」
「人が生きる場所だ」
その言葉に、レオはもう一度辺りを見回した。
確かにそうだった。
ここには誰かの日常があった。
地上で居場所を失った者たちが、それでも笑い、働き、生きている。
エバーガーデン。
その名前が、少しだけしっくりきた気がした。
その時だった。
「団長」
聞き覚えのある声がした。
振り向くと、一人の青年が新聞の束を抱えて歩いてくる。
寝癖のついた黒髪。
人懐っこい笑み。
昨日会った新聞記者――テル・パストレアスだった。
テルは新聞の束を机へ置くと、レオへ目を向けた。
「昨日ぶり」
「ああ」
軽く手を挙げるレオを見て、テルは笑う。
「そんなに警戒しなくても取材はしないよ」
「誰が警戒してる」
「顔に書いてある」
レオは小さく舌打ちする。
その様子を見て、クロイツが口を開いた。
「テル」
「ああ、分かってる」
テルは椅子を引き、レオへ向き直る。
「レオ」
「学校で革命戦争をどう習った?」
「革命戦争?」
突然の質問に眉をひそめる。
「そんなの常識だろ」
「いいから話してみて」
レオは少し考え、教科書を思い出すように口を開いた。
「八十年前、帝国には奴隷制度があった」
「奴隷たちは自由を求めて大規模な反乱を起こした」
「多くの国民が巻き込まれ、帝国は混乱した」
「そこで当時の皇帝、アーノルドルクシア皇が奴隷たちとの話し合いを決断した」
「その結果、奴隷制度は平和的に廃止された」
「四階級制度が作られ、今の帝国の礎になった」
そこまで言って、肩をすくめる。
「……こんなもんだ」
「子どもでも知ってる」
テルは何も言わない。
ただ静かにレオを見つめていた。
地下室に沈黙が落ちる。
「どうした」
レオが尋ねる。
テルは小さく息を吐いた。
「それが帝国の正史だ」
「正史?」
「学校」
「新聞」
「本」
「全部そう書かれている」
レオは眉をひそめる。
「違うって言いたいのか」
テルはゆっくり頷いた。
「全部とは言わない」
「でも、一番大事なところが抜け落ちている」
「……何だよ」
テルは机の上に置かれた古びた手記へ視線を向けた。
そして静かに言った。
「レオ」
「さっきお前が話した歴史」
「あれは帝国が作った歴史だ」
「本当の歴史は、まるで違う」
レオは思わず笑った。
「冗談だろ」
「学校で教える歴史が嘘だって言うのか」
テルは笑わない。
真っ直ぐレオを見つめ返す。
「嘘だ」
その一言だけだった。
地下室が静まり返る。
レオはテルの顔を見つめたまま動けなかった。
「嘘って……何がだ」
テルは机の上の手記へ手を添える。
「帝国は話し合いをした」
「そこまでは本当だ」
レオは黙って聞いている。
「奴隷たちに使者を送り、こう言った」
「争いを終わらせよう」
「代表者を連れて来てほしい、と」
「……」
「奴隷たちは信じた」
「もう血は流れない」
「そう思った」
テルの声は静かだった。
だからこそ、その言葉は重かった。
「代表者だけじゃない」
「家族も」
「仲間も」
「未来を信じた人たちが集まった」
レオはゆっくりと息をのむ。
「そして」
テルは一拍置いた。
「帝国軍は全員を殺した」
部屋の空気が凍りつく。
「……は?」
レオは思わず声を漏らした。
「話し合いなんかじゃなかった」
「最初から皆殺しにするための罠だった」
テルは静かに続ける。
「帝国は、その事実を隠した」
「生き残った者を追い」
「記録を燃やし」
「証言した者を消した」
「そして」
「歴史を書き換えた」
レオは言葉を失う。
「……そんなこと」
「できるのか」
テルの隣では、クロイツが腕を組んだまま黙って聞いていた。
「真実は、誰かが残さなければ消える」
「帝国はそれを知っている」
「だから歴史を書き換えた」
テルは手記を見つめる。
「でも、この手記だけは残った」
「エバーガーデンは八十年間、それを守り続けてきた」
クロイツが静かに口を開く。
「俺たちが守ってきたのは、一冊の本じゃない」
「未来へ渡すべき真実だ」
レオはしばらく黙っていた。
やがて、小さく口を開く。
「……そのために、お前たちは何をしてるんだ」
クロイツはレオを見つめ、小さく頷いた。
「そのために、俺たちは四つの表現を取り戻す」
「四つの表現?」
レオは聞き返す。
クロイツは机の上へ置かれた手記を手に取った。
「八十年前」
「革命を起こしたのは武器だけじゃない」
「人の心を動かした四つの表現があった」
「歌」
「踊り」
「絵」
「そして言葉だ」
レオは自然と手記へ目を向ける。
「この手記は、その一つ」
「エバーガーデンは代々これを守り続けてきた」
クロイツは続ける。
「そして十年以上探し続け、歌い手を見つけた」
その視線の先には、静かに鼻歌を口ずさんでいるミレナがいた。
「ミレナか……」
「ああ」
「歌い手は見つかった」
「だが、まだ終わりじゃない。」
クロイツは人差し指を二本立てる。
「残るは二つ」
「踊り」
「絵」
レオは眉をひそめた。
「その二つはもう過去に失われたんだろ?」
「どうやって?」
クロイツは首を横に振る。
「あるじゃないか過去そのものが」
ジャックスの手記ーーー
「まさか手記の力で現在に再現させるのか!?」
レオはミレナが同じ手段で鼻歌を継承したことに気がついた。
「半分正解だ」
「手記は過去を知るためのもの」
「だが、それを真似しただけじゃ八十年前のコピーにしかならない」
「最後は、自分自身の表現として完成させる」
「それが継承だ」
レオは黙って聞いていた。
クロイツは今度はテルへ視線を向ける。
「そして、そのすべてを記録する人間がいる」
テルは照れくさそうに頭をかいた。
「俺の力」
テルは手帳を軽く掲げる。
【上書きされない真実】《真理記録》
「俺自身が見て」
「俺自身が取材して」
「俺自身が書いた真実は」
「誰にも上書きされない」
レオは思わず息をのむ。
「四つの表現が揃うまでのすべてを、俺が書き残す」
「帝国が、二度と歴史を書き換えられないようにな」
クロイツは静かに頷いた。
「これが、エバーガーデンの目的だ」
地下室は静まり返っていた。
「そんなこと……帝国が黙って見てるのか」
クロイツはわずかに笑う。
「黙ってないだろうな」
「帝国にもいるんだから」
レオは首をかしげる。
「……何がだ」
クロイツは静かに答えた。
「響き手だ」
その一言で、レオの表情が固まる。
「……は?」
思わず聞き返す。
「帝国にも……いるのか?」
「ああ」
「帝国直属の響き手がな」
レオは言葉を失った。
「そんな馬鹿な……」
「じゃあ帝国も、響き手の力を知ってるってことか」
クロイツは静かに頷く。
「知っている」
「だから利用する」
「奴らも人の心を動かす」
「だが、その力は帝国のために使われる」
レオは無意識に手を握りしめる。
「同じ力なのに……」
「使い方が違うのか」
クロイツはレオを真っ直ぐ見つめた。
「俺たちは人のために継承する」
「奴らは国家のために利用する」
「それが決定的な違いだ」
レオは机の上の手記と、鼻歌を口ずさむミレナ、そして手帳を握るテルを見つめる。
少し前まで、ただの地下組織だと思っていた。
だが違う。
ここにいる者たちは、八十年前から途切れかけた想いを、未来へ繋ごうとしていた。
レオはクロイツを真っ直ぐ見つめる。
「俺は何をすればいい」
クロイツは少し笑う。
「まずは俺たちを知れ」
「明日からミレナと一緒に行動しろ」
ミレナがすくりと立ち上がる。
「よろしく」
レオは一瞬戸惑い、小さく頷いた。
「……ああ、よろしく」




