第十話 手錠
翌朝。
レオは地下へ続く石段を下り、エバーガーデンへ足を踏み入れた。
昨日までとは違う。
もう迷い込んだわけでも、連れて来られたわけでもない。
自分の意思で、この場所へ来た。
「来たか」
クロイツが壁にもたれながら手を挙げる。
「ああ」
レオが短く返事をすると、クロイツは顎で一人の少女を指した。
「今日はミレナについて回れ」
「それが今日の仕事だ」
ミレナは小さく頷くだけで、何も言わない。
「……それだけか?」
「それだけだ」
クロイツはあっさり答えた。
「好きに見て、好きに聞け」
「お前が何を感じるかは、お前次第だ」
そう言い残し、どこかへ歩いて行ってしまう。
レオはため息をついた。
「……で?」
ミレナを見る。
「何するんだ?」
「別に」
「別に?」
「うん」
それだけだった。
ミレナは近くの椅子へ腰掛け、本を読み始める。
静かにページをめくる音だけが響いた。
「……」
レオも近くの椅子に腰掛けた。
十分。
二十分。
三十分。
何も起きない。
(何なんだ、こいつ……)
昼近くになっても、ミレナはほとんど動かなかった。
たまに団員へ挨拶を返す程度。
仕事らしい仕事は何一つしない。
(昨日あんな大層な話を聞かされたのに……)
(本当にこれでいいのか?)
苛立ちが募っていく。
その時だった。
「おい」
突然、肩を叩かれる。
「っ!」
驚いて振り向く。
そこにはクロイツが立っていた。
……と思った瞬間。
クロイツはレオの額へ指を伸ばした。
ぺちっ
「何しやがる!」
「いいリアクションだ」
クロイツは笑う。
「暇そうだったからな」
「くだらねぇことしてんじゃねぇ!」
レオが睨みつける。
クロイツは笑いながら肩をすくめた。
「そんな顔するな」
「どうだ調子は」
レオは舌打ちする。
「何もしてねぇじゃねえか」
クロイツは笑いながら答えた。
「結果ばかり急ぐな」
「……」
「まず相手を知れ」
「その次に自分を知ってもらえ」
「人ってのは、その順番のほうが大抵うまくいく」
それだけ言うと、クロイツは背を向ける。
「じゃあな」
「また後で見にくる」
ひらひらと手を振り、そのまま去っていった。
「……勝手なやつ」
レオは小さく息を吐く。
クロイツの言葉が頭に残る。
(まず相手を知れ、か)
レオはミレナの隣へ歩いた。
「なあ」
ミレナが本から顔を上げる。
「何?」
「十六だったよな」
「うん」
「好きな食べ物は?」
「甘いもの」
「へぇ」
「趣味は?」
「歌」
「それは知ってる」
ミレナは小さく首を傾げる。
「そう」
また沈黙。
レオは頭をかいた。
「本当にしゃべんねぇな」
ミレナは何も言い返さない。
その時、小さな子どもが駆け寄ってきた。
「ミレナお姉ちゃん!」
ミレナは本を閉じる。
「どうしたの?」
「これ見て!」
子どもが描いた拙い絵を差し出す。
ミレナは少し目を細めた。
「……上手」
そう言って、優しく頭を撫でる。
子どもは嬉しそうに笑い、走っていった。
その様子を見ていたレオは、少しだけ目を丸くした。
(そんな顔もするのか)
ほとんど無表情。
だが子どもへ向けた笑みだけは、どこか柔らかかった。
レオはもう一度ミレナを見る。
「……なあ」
「何?」
「なんでエバーガーデンに入ったんだ?」
数秒。
静かな沈黙が流れる。
やがてミレナは目を伏せた。
「……」
答えない。
そのまま本を開き、視線を落とした。
「悪い」
レオはそれ以上聞かなかった。
また静かな時間が流れる。
レオは椅子にもたれ、小さく息を吐いた。
(悪いやつじゃなさそうだけど……)
そう思いながら、静かに時間は過ぎていった。
時が流れて、地下にも夕食の匂いが広がり始める。
団員たちは一日の仕事を終え、それぞれ食卓を囲んでいた。
そんな中、ミレナが静かに立ち上がる。
椅子を引く音だけが、小さく響いた。
レオは顔を上げる。
「どこ行くんだ?」
「仕事」
短い返事だった。
「昼間は何もしてなかったのに?」
「私の仕事は夜」
そう言って歩き出す。
レオも慌てて後を追った。
二人は地下を出る。
石段を上り切ると、夜風が心地よかった。
昼間の賑わいは消え、街は静けさに包まれている。
人気のない路地を、ミレナは迷いなく歩く。
何度も来たことがあるのだろう。
角を曲がり、建物の影へ立つと、周囲を静かに見回した。
誰もいない。
それを確認すると、ミレナはゆっくり目を閉じる。
そして、小さく息を吸った。
【導きの声】《迷響歌》
かすかな鼻歌が夜の街へ溶けていく。
優しく。
どこか懐かしく。
レオは思わず息をのむ。
(昼間とは別人だな……)
ほとんど喋らず、感情も見せなかった少女。
だが歌っている今だけは、その存在すべてが歌を歌うためだけに存在しているかのようだ。
鼻歌が止む。
ミレナは何事もなかったように歩き始めた。
レオは我に返り、その後を追う。
ふと、あの夜を思い出した。
自分も、この鼻歌に導かれてここへ来た。
「もしかして……」
レオはミレナを見る。
「こうやって仲間を集めてるのか?」
ミレナは少しだけ考えてから首を横に振った。
「仲間とは限らない」
「でも……近しい波長の人なら」
「何か反応がある」
「近しい波長?」
「そう」
それだけ言って、また前を向く。
レオは黙って歩いた。
その時だった。
ふと、ミレナの手が目に入る。
小さく震えていた。
歌っている時には気付かなかった。
手を強く握り締めても、震えは止まっていない。
見つかれば終わりだ。
監視局に捕まれば、ただでは済まない。
それでも毎晩こうして歌い続けている。
レオは静かに口を開いた。
「なあ」
ミレナが振り返る。
「なんでそこまでして歌うんだ?」
少しだけ沈黙が流れた。
ミレナは視線を逸らす。
「……どうせ」
小さな声だった。
「あなたには分からない」
それだけ言うと、再び前を向き、夜の街を歩き始めた。
レオは何も言えなかった。
ただ、その小さな背中を黙って追い掛けた。
再び、静かな鼻歌が夜の街へ溶けていく。
路地には誰の姿もない。
ミレナは静かに歌を止める。
「今日は……来ない日」
小さく呟く。
レオは辺りを見回した。
「毎日うまくいくわけじゃないんだな」
ミレナは何も答えない。
その時だった。
遠くから、硬い革靴の音が聞こえた。
一定の間隔で近付いてくる。
ミレナの肩が震えた。
「……来た」
レオは息を潜める。
曲がり角の向こうから、一人の監視局員が姿を現した。
夜間巡回の制服。
腰には拳銃。
無駄のない足取りで周囲を見回している。
その表情には一切の油断がなかった。
視線だけで周囲を探るように歩き続ける。
ミレナは咄嗟にレオの腕を掴んだ。
建物の陰へ身を寄せる。
二人は息を殺した。
監視局員の足音だけが、少しずつ近付いてくる。
レオは隣を見る。
ミレナは震えていた。
昼間の無表情も。
歌っていた時の凛とした姿もない。
ただ、一人の少女が恐怖に耐えていた。
その時。
足元の小石が転がった。
――カラン
小さな音。
それだけで十分だった。
監視局員の足が止まる。
「……誰だ」
低い声。
一歩。
また一歩。
監視局員はこちらへ近付いてくる。
ミレナは震える手で口を押さえた。
レオはその横顔を見つめる。
こんなにも怯えているのにミレナは自分の意思で歌っているのか。
誰に従わされたわけでもなく。
なら俺はどうしてここに来た?
クロイツの話を聞き。
テルに真実を教わり。
ミレナが恐怖の中歌う姿を見た。
だったら俺は――
レオは小さく息を吸う。
「……大丈夫」
ミレナが目を見開いた。
次の瞬間。
レオは建物の陰から飛び出した。
「おい!」
監視局員が振り向く。
レオは挑発するように笑った。
「こっちだ!」
そのまま夜の街へ駆け出した。
「待って!!」
背後でミレナの声が響く。
だがレオは振り返らない。
監視局員は迷うことなくレオを追い始めた。
石畳を蹴る音が静寂を切り裂き、夜の街に響く。
レオは振り返らない。
ただ前だけを見て走る。
背後からは、監視局員の足音が迫ってくる。
速い。
焦りも乱れもない。
(くそっ……!)
角を曲がる。
細い路地へ飛び込む。
さらにもう一つ角を曲がる。
息が上がる。
肺が焼けるように痛い。
それでも走る。
ミレナが逃げ切るまで。
それだけを考えていた。
だが――。
目の前で道が途切れた。
「……げ」
袋小路だった。
振り返る。
監視局員がゆっくりと歩いてくる。
逃げ道はない。
「終わりだ」
短く告げる。
監視局員は一気に間合いを詰める。
レオも反射的に拳を振るった。
だが。
「ぐっ!」
身体を捻られ、そのまま地面へ押さえ付けられた。
冷たい石畳が頬に当たる。
両腕を後ろへ回される。
金属音が響いた。
カチャリ。
手錠だった。
監視局員はレオの腕章を見る。
「第四階級か」
腰の手帳を取り出し、淡々と記録していく。
「身分証を確認」
レオは黙ったまま睨み返す。
「監視局へ連行する」
立たされる。
逃げる力はもう残っていなかった。
歩き出す直前。
レオは一度だけ振り返る。
暗い路地の奥。
もうミレナの姿は見えない。
(……逃げたか)
それだけ分かれば十分だった。
レオは小さく息を吐く。
そして何も言わず、監視局員に連れられて夜の街を歩き始めた。




