第八話 一歩
地下から地上へ続く石段を、一段ずつ踏みしめる。
夜明け前の冷たい空気が頬を撫でた。
振り返れば、地下へ続く入り口は薄暗い路地に溶け込み、まるで最初から存在しなかったかのように静まり返っている。
「また来い」
別れ際、クロイツはそう言った。
返事はしなかった。
街は目を覚まし始めていた。
露店を開く商人。
新聞を抱えて走る少年。
パン屋から漂う焼き立ての香り。
煙突から立ち昇る黒い煙。
昨日までと何一つ変わらない朝だった。
歩きながら、無意識に胸元へ手を添える。
鼓動はもう落ち着いている。
それでも胸の奥には、言葉にできない何かが残っていた。
工場へ向かう人の流れに混じる。
誰もが俯き、誰もが今日という一日をこなすためだけに歩いている。
「俺も、この中の一人なんだな」
小さく笑う。
仕事をして、飯を食って、寝る。
それを繰り返すだけの日々だった。
ジャックスは絶望の日々の中でも生きる希望を残した。
そして、その希望は確かに誰かに届いていた。
なら、自分はどうする。
何ができる。
何を残せる。
答えはまだ見つからない。
考え込んでいるうちに、見慣れた工場が視界へ入る。
巨大な煙突から黒煙が立ち上り、朝日を鈍く染めていた。
「……考えても仕方ねぇか」
レオは小さく息を吐き、工場の門をくぐった。
工場へ足を踏み入れた瞬間、耳をつんざくような機械音が鳴り響く。
巨大なプレス機が規則正しく上下し、ベルトコンベアが唸りを上げる。
「おう、レオ!」
顔馴染みの職人が手を挙げる。
「昨日使いもんにならなかった分、今日は働けよ」
「……昨日もちゃんと働いてただろ」
ぼやくと、職人たちは笑った。
工場では、昨日レオが監視局と揉めたことを知る者は少ない。
知っていたとしても、誰も口にはしない。
余計なことを詮索しない。
「レオ!」
社長が大声を張り上げる。
「三号機の点検終わったら四号機も見とけ!」
「了解」
工具箱を持ち上げ、三号機へ向かう。
昨日までと同じ仕事。
同じ景色。
同じ一日。
そう思っていた。
――ガギィィィン!!
工場中に激しい金属音が響き渡る。
誰もが作業の手を止めた。
「止まったぞ!」
「五号機だ!」
視線が一斉に工場の奥へ集まる。
大型加工機械が、白い蒸気を吹き出しながら停止していた。
「何やってる!」
社長の怒鳴り声が工場中へ響く。
その前には、一人の少年が立ち尽くしていた。
まだ十六、七歳ほど。
作業服は新品同然で、袖口には油汚れすら少ない。
入って間もない新人だった。
「す、すみません…」
震える声。
肩も小刻みに震えている。
「すみませんじゃねぇ!」
社長は新人の胸ぐらを掴んだ。
「こんな高ぇ機械止めやがって!」
「お、俺は……」
「言い訳する気か!」
周囲の職人たちは動かない。
止めようともしない。
ただ黙って様子を見ている。
誰もが知っているからだ。
ここで口を挟めば、次は自分が怒鳴られる。
そんな空気が工場にはあった。
「だからグラウンは信用できねぇんだ」
その一言で、工場の空気がさらに重くなる。
新人は唇を噛み締め、何も言い返せない。
レオはその様子を見ては奥歯を強く噛み締めた。
まただ。
また、グラウンだから。
また、立場が弱いから。
また、反論もできない相手を選んで怒鳴っている。
指先が震える。
無意識に拳を握っていた。
血が滲むほど強く。
足が勝手に前へ出る。
殴り飛ばしてやろう。
昨日の光景が頭をよぎる。
怒りに任せノーブルを殴り。
オーダーに制裁された。
守るはずだった女性にも心配された。
何かかわったのか。
「……っ」
握った拳に力が入る。
爪が食い込む。
痛みだけが現実を引き戻した。
違う。
今回は違う。
レオはゆっくりと拳を開く。
一歩前へ出た。
「……そいつのせいじゃない」
工場中の視線がレオへ集まる。
社長がゆっくり振り返った。
「何だと?」
レオは新人の前へ立つ。
震える新人を背中で隠すように。
「壊したのは、そいつのせいじゃない」
社長の眉がぴくりと動いた。
「だったら誰のせいだ」
レオは答えず、止まった五号機へ歩き出した。
耳を近づける。
軸を触る。
歯車を回す。
油の状態を見る。
「主軸の軸受けが限界だ」
社長の表情がわずかに変わった。
「そいつが壊したんじゃない、寿命だ」
「直せるのか」
「やってみる」
工具を手に取る。
ボルトを一本ずつ外していく。
摩耗した部品を取り外し、新しい部品へ交換する。
油を差す。
軸を合わせる。
最後に締め直し、静かに立ち上がった。
「動かして」
作業員がレバーを倒す。
低い駆動音。
ゆっくり回る歯車。
やがて大型機械は何事もなかったように動き始めた。
「……本当に直しやがった」
誰かが息を漏らす。
社長は何も言えなかった。
さっきまで張り詰めていた空気が、少しずつ緩んでいく。
「……ありがとうございました」
背後から、小さな声が聞こえた。
振り返ると、さっきまで社長に怒鳴られていた新人が深々と頭を下げていた。
「助かりました、本当に……」
その顔には、安堵したような笑みが浮かんでいた。
レオはそれを見て遠い昔の記憶を思い出した。
◇
「父ちゃん! 今日も英雄の話!」
六歳のレオは、布団へ飛び込むように父親へ抱きついた。
「昨日も話しただろ」
父親は苦笑しながらも、レオの頭を優しく撫でる。
「違う話!」
「はいはい」
そのやり取りを見ていた母親が、小さく笑った。
「あなた、本当に毎日考えるのね」
「レオが楽しみにしてるからな」
父親は照れくさそうに頭をかく。
どの物語も本に載っているものではなかった。
父親が、その場で考えた英雄譚だった。
剣の才能なんてない。
特別な力もない。
それでも誰かのために立ち上がる人たちの物語。
レオは毎晩、目を輝かせながら聞いていた。
「俺も英雄になれるかな」
父親は優しく笑う。
「なれるさ」
「ほんと?」
「ああ」
父親はレオの胸を軽く指で叩いた。
「英雄っていうのは、強い人間じゃない」
「?」
「誰かのために、一歩踏み出せる人間だ」
幼いレオは何度も頷いた。
その言葉が嬉しくて仕方なかった。
◇
仕事を終わらせ工場を出ると、西の空は茜色に染まっていた。
疲れ切った職人達の表情。
聞こえてくる他愛ない会話。
煙突から立ち上る黒い煙は、夕焼けの中へ溶けていった。
レオは叔母の待つ家の帰路に就く。
「……」
自然と視線が、あの路地へ向いた。
昼間なら気にも留めないような、薄暗い裏路地。
「また来い」
クロイツの言葉が頭の中で蘇る。
レオは小さく息を吐いた。
まだ納得したわけじゃない。
危険な連中なのかもしれない。
関われば、今より面倒なことになるかもしれない。
それでも――
工場での出来事が脳裏をよぎる。
あの新人は笑っていた。
「……知りたい」
誰に聞かせるでもなく呟く。
レオは自分の足で歩き出した。
地下へ続く石段を、一段ずつ踏みしめる。
◇
最後の一段を下りると、クロイツが壁にもたれ掛かっていた。
レオを見ると、口元をわずかに緩める。
「来たか」
レオはクロイツの前で足を止める。
「まだ全部納得したわけじゃない」
一拍置いて、真っ直ぐクロイツを見た。
「でも知りたい」
「あんたたちが何をしようとしてるのか」
「自分に何ができるのか」
クロイツは静かに頷く。
「それで十分だ」
その一言だけだった。




