第七話 現在
見慣れない石造りの天井が目に入る。
いや、違う。
レジスタンス《エバーガーデン》の隠れ家だ。
胸に手を当てる。
鼓動が速い。
あまりにも鮮明だった。
……ジャックス。
頭では、あり得ない出来事だと分かっている。
それでも胸の奥に残る喪失感だけは、どうしようもなく本物だった。
レオは無意識に両手を見つめた。
一瞬だけ、誰かの手のような錯覚が走る。
煤で汚れた男の手。
震えながら原稿を書き続けた手。
そんな幻が重なった。
瞬きを一つする。
そこにあったのは、見慣れた手だった。
夢じゃなかった。
部屋の隅には、あの手記が置かれていた。
古びた革表紙。
何度も読み返された跡のある、分厚い一冊。
あの中に、ジャックスがいる。
もう一度読めば、続きを知ることができる。
そんな考えが頭をよぎった。
レオは手を伸ばす。
その瞬間だった。
すっと横から別の手が伸び、手記を閉じた。
「続きが読みたいか?」
低く落ち着いた声。
クロイツだった。
いつからそこにいたのか分からない。
椅子に腰掛けたまま、面白そうにこちらを眺めている。
「……悪いか」
「ああ、悪い」
あっさりと言われ、思わず眉をひそめた。
「なんでだ」
「今のお前には早い」
「早い?」
冗談を言っているようには見えなかった。
レオはゆっくりと手を引っ込める。
部屋にはしばらく沈黙が流れた。
聞きたいことはいくらでもあった。
けれど、一番先に口から出たのは、たった一つの疑問だった。
「あれは……何だったんだ」
クロイツは少しだけ目を細める。
「ジャックスの人生だ」
「人生?」
「あの手記を書いた男――ジャックス。その人生を、お前は実際に体験した」
レオは思わず苦笑した。
「そんな馬鹿な話があるか」
クロイツは肩をすくめる。
「だが、実際に起きた」
「仕掛けか?」
「違う」
「薬か?」
「違う」
「魔法でも使ったのか」
「魔法だと言えば、お前は納得するのか?」
あまりにも潔い返事だった。
思わず拍子抜けする。
「知らないのかよ」
「ああ」
クロイツは笑うでもなく頷いた。
「分からないものを、分かったふりする趣味はない」
その一言だけは、不思議と信用できた。
「じゃあ、その手記は何なんだ」
「俺たちは《響き手》の手記と呼んでいる」
「響き手?」
「表現によって、人の心を動かす者たちの総称だ」
レオは黙って続きを待つ。
「八十年前。帝国がまだ侵略戦争を行っていた頃、一人の小説家がいた」
「……ジャックスか」
「そうだ」
クロイツは静かに頷く。
「奴は自分の人生を書き残した。ただの手記だったはずのそれは、いつしか読む者に人生そのものを見せるようになった」
「そんなこと、本当にあるのか」
「俺たちにも理由は分からん」
また、その答えだった。
「分かっているのは、一つだけだ」
「何だ」
「お前も見ただろう」
レオは言葉を失う。
否定しようがなかった。
あれほど鮮明な痛みを、夢だったと言い切れるほど鈍くない。
「ジャックスだけじゃない」
クロイツは続けた。
「歌い手もいた。踊り手もいた。絵描きもいた」
「……歌?」
「それぞれ違う形で、人の心を動かす者たちだ」
その言葉を聞いた瞬間、脳裏に一人の少女が浮かぶ。
薄暗い路地裏で聞いた鼻歌。
名前も知らなかった少女。
あの歌を聞いたとき、自分でも説明できない感覚に襲われた。
偶然だと思っていた。
だが――。
「……あの子も」
思わず漏れた言葉に、クロイツは小さく笑った。
「勘がいいな」
それ以上は語らなかった。
あの鼻歌も、この手記と同じ。
人の心を動かす力。
そう考えれば、昨日から今日までの出来事が一本の線でつながっていく。
レオはもう一度、机の上の手記へ目を向けた。
読みたい。
続きを知りたい。
ジャックスはあの後どうなったのか。
家族を失った男は、最後に何を残したのか。
知りたかった。
それなのに、クロイツは静かに首を横へ振る。
「今はまだ読むな」
「……なんでそこまで止める」
「答えを急ぐな」
クロイツは真っすぐレオを見る。
「今のお前に必要なのは、続きを知ることじゃない」
そこで一度言葉を切った。
「お前自身が、何を感じたのかだ」
レオは答えなかった。
何を感じたのか。
そんなもの、自分でも整理がついていなかった。
クロイツも急かさない。
地下室には静かな時間だけが流れていく。
やがてレオは、小さく息を吐いた。
「……胸糞悪かった」
それが最初に出てきた言葉だった。
「家族が死ぬところまで見せられて、何もできなくて。あんなもん見せられて気分がいいわけないだろ」
「それだけか?」
クロイツの声は静かだった。
レオは顔をしかめる。
「それだけって……十分だろ」
「本当に?」
また沈黙が落ちる。
何なんだ、この男は。
答えを決めているなら、最初からそう言えばいい。
レオは苛立ちながら、もう一度あの光景を思い返した。
燃える家。
守れなかった家族。
全部を失ったのに、あいつは書くことだけはやめなかった。
「……馬鹿だ」
思わず口から漏れた。
「何も変えられなかったのに」
書いたところで家族は帰ってこない。
それでも書き続けた。
理解できない。
「俺なら、とっくに諦めてる」
クロイツは何も言わない。
レオは続けた。
「諦めて、酒でも飲んで、誰かのせいにして終わってる」
そんな人生の方が、よほど楽だ。
なのにジャックスは違った。
「馬鹿だと思う」
少し笑ってしまう。
「でも……諦めなかったのは、凄いと思う」
クロイツが小さく口元を緩めた。
「そうか」
たったそれだけだった。
否定もしない。
褒めもしない。
しばらくして、クロイツが机の上の手記をそっと撫でる。
「なぁ、お前、俺らの仲間にならないか?」
「はぁ?」
「俺たちは、お前みたいな奴を探していた」
「買いかぶるな」
「そうか?」
「俺は何もできない」
すぐに言い返した。
「歌も歌えない。踊りも踊れない。絵も描けない。本なんか書いたこともない」
クロイツは黙って聞いている。
「革命なんて興味もない」
これは本音だった。
「帝国をひっくり返そうなんて考えたこともないし、あんたたちみたいに命を懸ける気もない」
叔母の顔が浮かぶ。
俺には帰る家がある。
養ってくれた人がいる。
危険なことに首を突っ込んで、その人を泣かせるわけにはいかない。
「それに」
一度言葉を切る。
「あんたたちのことを信用したわけでもない」
地下に住む正体不明の連中。
普通なら、関わらない。
「なるほど」
クロイツは腕を組み、何度か頷いた。
「随分と断る理由が多いな」
「悪いか」
「いや」
クロイツは笑う。
「一つじゃ足りないから、そんなに並べたんだろうと思ってな」
その一言に、思わず言葉が詰まった。
違う。
そうじゃない。
……そうじゃないはずだ。
「図星か?」
「違う」
「じゃあ、今ここで帰ると言えばいい」
レオは黙る。
「誰も止めん」
言えば終わる。
帰る、その一言で全部終わる。
なのに。
喉まで出かかった言葉が、どうしても口から出てこなかった。
最後まで書き続けた男。
そして、あの鼻歌を歌っていた少女。
あいつらは何を目指している。
どうして命まで懸けられるんだ。
知りたい。
その気持ちだけは、否定できなかった。
レオはようやく口を開く。
「……少し」
「少し考えさせろ」
クロイツは満足そうに笑った。
「それでいい」
それ以上、何も言わない。
引き止めもしない。
説得もしない。
ただ静かに椅子へ座り直し、冷めかけたコーヒーを一口飲んだ。
レオはもう一度だけ、机の上の手記を見つめる。
あの続きを読めば、何かが変わるのかもしれない。
そんな気がした。
だからこそ、クロイツは読ませなかったのだろう。
断る理由なら、いくらでもあった。
危険だから。
面倒だから。
才能も何もないから。
信用できないから。
そう言ってしまえば、それで終わる話だった。
それなのに、最後まで「やらない」とは言えなかった。




