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第六話 心を響かせる力

 それから数日、私は毎晩のように手記を書いた。


 紙は少しずつ増えていった。


 工場で捨てられた作業記録。


 数字を書き間違えた伝票。


 端の破れた報告書。


 紙の大きさも、色も、厚さも揃っていない。


 本と呼ぶには、あまりにも粗末なものだった。


 それでも私にとっては、何よりも大切なものになっていた。


 昼間は銃を作り、夜になると手記を書く。


 妻と出会った日のこと。


 娘が生まれた日のこと。


 初めて書いた小説を、妻だけが最後まで読んでくれたこと。


 娘が、難しい漢字を飛ばしながら原稿を読んでいたこと。


 何も特別ではなかった日々。


 だが、失って初めて分かった。


 あれが、私の人生だった。


 書いている間だけ、私は奴隷ではなかった。


 帝国から与えられた番号でもない。


 兵器工場で働く腕でもない。


 私は夫であり、父親であり、小説家だった。


 書けば書くほど、忘れていた自分が戻ってきた。


 同時に、苦しみも増した。


 妻の声を思い出せば、もう二度と聞けないことを思い知らされる。


 娘の笑顔を書けば、その顔が炎の中へ消えた日のことまで蘇る。


 何度もペンを置いた。


 これ以上は書けないと思った。


 それでも翌日の夜には、また紙に書き綴った。


 忘れることの方が、怖かった。


「随分、増えたな」


 ある夜、隣からグレンが言った。


 私は慌てて紙を重ね、手で隠した。


「見るな」


「見てない」


「今、見ていただろう」


「厚さを見ただけだ」


「それを見たと言うんだ」


 グレンは藁の上へ寝転がったまま笑った。


「最初は二、三枚だったのにな」


「数えていたのか」


「毎晩、隣でごそごそされてみろ。嫌でも気づく」


「うるさかったか」


「少しな」


「すまない」


「別にやめろとは言ってない」


 グレンは両手を頭の後ろへ置いた。


「むしろ、続けろ」


「なぜお前に命令されなければならない」


「途中で書くのをやめられたら、続きが読めないだろ」


「まだ読ませるとは言っていない」


「お前にこの前、廃棄紙のゴミ捨て場を教えてやったろ」


「それとこれとは話が別だ」


「恩知らずなやつだ」


 グレンは楽しそうに笑った。


 この男はいつもそうだった。


 明日死ぬかもしれない場所にいながら、まるで明日も当然来るかのように話す。


 最初は、その明るさが理解できなかった。


 何も考えていないのだと思ったこともある。


 だが、違うのかもしれない。


 考えていないのではない。


 絶望に呑まれないために、笑っている。


 あの踊り子が、手枷を踊りの一部に変えたように。


 グレンは苦しみを、冗談に変えている。


「なあ、ジャックス」


「何だ」


「どうして俺には読ませたくない」


「私の記録だからだ」


「それだけか?」


 私は答えなかった。


 それだけではなかった。


 怖かった。


 紙に書くことはできても、誰かに見られることには耐えられなかった。


 妻と娘をどれほど愛していたか。


 守れなかったことを、どれほど悔やんでいるか。


 自分がどれほど弱い人間なのか。


 すべて知られてしまう。


「笑わないぞ」


 グレンが言った。


「何をだ」


「お前が書いたものを」


「まだ何も言っていない」


「顔に書いてある」


「私はそんなに分かりやすいか」


「ああ」


 グレンは目を閉じた。


「嫌なら読まない。ただ、お前が一人で抱えてるものを、少しくらい見せてもいいんじゃないかと思っただけだ」


「お前に見せて、何になる」


「何にもならん」


「なら、意味がない」


「意味がないことは、やってはいけないのか?」


 その言葉に、私は手を止めた。


 以前、老人にも似たようなことを言われた。


 意味がなければ、書けないのか。


 妻と娘のために書き始めた。


 自分が忘れないために書いている。


 誰かに読ませる必要などない。


 そう思っていた。


 だが、本当にそうだろうか。


 私は以前、小説家だった。


 書いたものを誰かに読んでほしいと思っていた。


 認められたいだけではない。


 自分の中にあるものを、誰かと分かち合いたかった。


 ただ今は、それが怖くて誰にも見せないと言い張っているだけではないのか。


 私は紙の束を見下ろした。


「最初の数枚だけだ」


 グレンが片目を開ける。


「何が?」


「読んでもいい」


 グレンはゆっくりと起き上がった。


「本当か?」


「声が大きい」


「すまん」


「それから、笑うな」


「笑わない」


「途中で返せと言ったら返せ」


「分かった」


「ほかの者には見せるな」


「分かった」


「汚すな」


「分かったから、早くよこせ」


「やはりやめるか」


「待て。今のは俺が悪かった」


 グレンは両手を差し出した。


 私はしばらく迷った末に、紙の束から最初の数枚を抜き取った。


 最初の一文。


 私がまだ、故郷という言葉の意味を知らなかった頃。


 妻と娘との暮らし。


 戦争が始まる前の日々。


 まだ、二人の死までは書かれていない。


 そこまでなら、読ませられると思った。


「明かりがないぞ」


 グレンが言う。


「窓際へ行け」


「見張りは?」


「次の巡回まで時間がある」


「詳しいな」


「毎晩書くために覚えた」


「なるほど」


 グレンは紙を持ち、鉄格子の窓の下へ移動した。


 月明かりに紙を近づける。


 私は少し離れた場所に座り、その様子を見守った。


 グレンが最初の一文を目で追う。


 その顔には、いつもの笑みがあった。


 だが、数行読み進めたところで、笑みが消えた。


 眉間に皺が寄る。


「どうした」


 返事はなかった。


「グレン?」


 目は紙へ向けられている。


 だが、焦点が合っていない。


 呼吸が浅くなっている。


「おい」


 肩へ手を伸ばした。


 触れようとした瞬間、グレンの体が大きく震えた。


「……青い」


 小さな声が漏れる。


「何が?」


「窓が……青い」


 私は動きを止めた。


「どうして、それを」


 青い窓枠のことは、渡した紙には書かれていない。


「グレン」


「お前の娘、笑うと右の頬にえくぼできるんだな」


「おい、何を言っている」


 背筋が冷たくなった。


 そのことは、どこにも書いていない。


「どうして知っている」


 グレンは答えない。


 額に汗が浮かんでいる。


 顔色が悪い。


 何かに怯えているようにも見えた。


 次の瞬間。


「やめろ!」


 グレンが叫び、紙を落とした。


 宿舎の中で、何人かが身を起こす。


「静かにしろ」


 私は急いで紙を拾い、グレンの肩を掴んだ。


「どうした。何を見た」


「火が……」


 グレンは荒い息を繰り返した。


「家が燃えてる」


「グレン」


「女の声がする。子供が泣いてる。お前は走ってる。でも、足が……動かない」


 私は息を呑んだ。


 それは、妻と娘を失った日の記憶だった。


「違う」


 グレンは頭を押さえた。


「俺じゃない」


「落ち着け」


「俺の足じゃない。俺の手じゃない。なのに、俺が走ってる」


「何を言っている」


「お前だ」


 グレンが顔を上げた。


 その目には、涙が浮かんでいた。


「俺は、お前だった」


 言葉の意味が分からなかった。


「どういうことだ」


「読んでいた」


 グレンは震える声で言う。


「最初は文字を読んでいた。お前の家のことを。妻と娘のことを」


 胸元を押さえる。


「気づいたら、紙が見えなくなった。俺は家の前に立っていた」


「何が見えた」


「風の匂いがした。土が湿っていた。窓枠は青かった。家の中から、お前の妻が呼んでいた」


「ほかには」


「娘がいた。机の下に隠れて、お前を驚かそうとしていた」


 そんなこともあった。


 原稿を書いていた私を驚かせようとして、娘が机の下へ隠れていた。


 私は気づかないふりをして、わざと探し回った。


「それから戦争が始まった」


 グレンの声が沈む。


「家が焼かれた。お前は二人を助けようとした。でも……」


「もういい」


「ジャックス」


「それ以上言うな」


 自分の声が震えていた。


 グレンが見たものは、私の記憶と一致している。


 偶然ではない。


 想像で分かることでもない。


「何かの冗談か」


「こんな冗談を言うと思うか」


「では、私から聞いたのか」


「聞いてない」


「眠っている時に話した可能性は」


「ない」


 私は声が出なかった。


 グレンが続ける。


「それにお前の妻は、料理をしながら鼻歌を歌っていた」


 それを聞いて、あの少女の鼻歌が頭をよぎった。


 旋律は違った。


 それでも、私は妻を思い出した。


「手記を貸せ」


 グレンが言った。


「何をするつもりだ」


「もう一度読む」


「駄目だ」


「今のが勘違いかどうか、確かめる」


「駄目だと言っている」


「お前だって知りたいだろ」


 知りたかった。


 怖かった。


 それでも、何が起きたのかを知らなければならないと思った。


 私は最初の一枚だけをグレンへ渡した。


「一枚だけだ」


「ああ」


「何かあれば、すぐに離せ」


「分かった」


 グレンは再び窓の下へ座り、紙へ目を落とした。


 数行。


 何も起きない。


 グレンは黙って読み進める。


 やはり先ほどは、疲労が見せた幻だったのかもしれない。


 そう思った時。


 グレンの目から、光が消えた。


 紙を見ている。


 だが、その意識はここにない。


「……寒い」


 唇から声が漏れる。


 彼の指先が、紙の端を強く握った。


 私はすぐに紙を取り上げた。


 その瞬間、グレンが大きく息を吸い、辺りを見回した。


「ここは……」


「宿舎だ。今、何を見た」


「お前が、若かった」


「どこにいた」


「狭い屋根裏だ。壊れた窓から雪が入ってきてた」


「何をしていた」


「王女を守る騎士の話を書いていた」


 私は何も言えなくなった。


 初めて書いた長編小説。


 誰にも読まれず、出版もされなかった物語。


「どうして知っている」


 グレンはしばらく黙っていた。


 やがて、自分の手を見下ろす。


「読んでいたら、お前になっていた」


 その言葉だけが、暗い宿舎に残った。


 グレンは私の目で見て、私の耳で聞き、私の体で寒さを感じた。


「誰にでも起こるのか」


 私が呟く。


「分からん」


「お前だけかもしれない」


「そうかもしれない」


「手記が原因とは限らない」


「だが、読むのをやめれば戻った」


 グレンが紙を見る。


「これは普通の文章じゃない」


「私には、普通にしか見えない」


「書いた本人だからじゃないか」


 答えは出なかった。


 私はふと思い出した。


 少女の鼻歌。


 手枷の踊り。


 老人の絵。


 歌を聞いた時、私は自分の心で何かに触れた気がした。


 踊りを見た時、あの女の強さを自分のもののように感じた。


 老人の絵を見た時、訪れたこともない家の空気を感じた。


 そして今、グレンは私の人生を見た。


「歌も」


 私は呟いた。


「何だ?」


「数日前に聞いた歌だ。あの踊りも、老人の絵も」


 表現の形は違う。


 声。


 体。


 線。


 言葉。


 それでも、すべてが人の中へ入り込んだ。


「同じなのかもしれない」


「何が」


「歌も、踊りも、絵も。私の手記も」


 私は自分の胸へ手を当てた。


「ただ人を感動させているんじゃない。人の心に触れている」


 グレンが私の記憶を見た。


 書いていないものまで。


 私の人生を、直接経験した。


 なぜ私たちにそんな力が宿ったのか。


 誰にでも起こるのか。


 歌った少女も、踊った女も、絵を描いた老人も、同じ力を持っているのか。


 何一つ分からなかった。


 ただ、強い思いを込め、誰かへ伝えようとした時。


 表現は、ただの音や動きや線や文字ではなくなるのかもしれない。


 誰かの心を揺らすものになる。


 いや。


 心を響かせるものになる。


「ジャックス」


 グレンが静かに言った。


「この手記を、ほかの奴にも読ませてみないか」


「駄目だ」


 反射的に答えた。


「なぜ」


「危険すぎる。何が起こるか分からない」


「それだけか?」


 手記には私の人生が書かれている。


 妻と娘の死も。


 私が絶望したことも。


 奴隷になってから見たものも。


 すべてが入っている。


 それを読んだ者が、私と同じ苦しみを味わうのだとすれば。


「人に見せるものではない」


「だが、お前は救われたんだろ」


 グレンの言葉に、私は黙った。


「書いたことで、自分を取り戻した」


「ああ」


「俺も読んで、少しだけ分かった」


「何をだ」


「お前が家族を愛していたことだ」


 何も言い返せなかった。


「俺は、お前の痛みを全部理解したとは言わない。あれはお前の人生だ」


 グレンは自分の胸へ手を置いた。


「それでも、お前が奴隷になる前にも生きていたことは分かった」


 理解されること。


 かつて私は、それを求めて小説を書いていた。


 自分の中にあるものを、誰かに知ってほしかった。


 だが、妻と娘を失ってから、その願いを捨てた。


 誰にも分かるはずがないと思っていた。


 私の苦しみも。


 二人がどれほど大切だったかも。


 けれどグレンは、手記を通してその一部に触れた。


「ここにいる奴らは、皆、自分が誰だったかを忘れかけてる」


 グレンが周囲を見回した。


 眠っている者。


 目を開けたまま天井を見ている者。


 傷の痛みに耐えている者。


 誰もが、奴隷になる前の人生を持っている。


 家族がいた者。


 夢があった者。


 名前を呼んでくれる誰かがいた者。


「お前が奴隷になる前にも生きていたと知れば、自分もそうだったと思える」


 グレンは紙の束を見る。


「この場所だけが世界じゃないと、思い出せる」


 かつて私は、物語には人を救う力があると書いた。


 だが、妻と娘を失った日、そんなものは嘘だと思った。


 物語は銃を止めない。


 炎を消さない。


 死者を生き返らせない。


 私の手記を何人が読んでも、手枷は外れない。


 工場は止まらない。


 帝国の銃も消えない。


 それでも。


 人の中に残った最後の何かを、守ることはできるのかもしれない。


 希望。


 記憶。


 自分が人間だったという感覚。


 それらまで奪われることを、防げるのかもしれない。


「一人だけだ」


 私は言った。


「何?」


「もう一人だけ、読んでもらう」


 グレンの顔が明るくなる。


「本当か?」


「声が大きい」


「すまん」


「信頼できる者を選ぶ。それから、起きたことを詳しく聞く」


「分かった」


「勝手に広めるな」


「分かってる」


「本当に分かっているか?」


「たぶん」


「不安になる答えだな」


 グレンは笑った。


 私も手記を見下ろす。


 粗末な紙の束。


 妻と娘を忘れないために書き始めたもの。


 それが初めて、私ではない誰かの心へ届いた。


 歌と同じように。


 踊りと同じように。


 絵と同じように。


 まだ、何も始まってはいない。


 私たちは奴隷のままだ。


 明日も工場で銃を作る。


 監督官は鞭を振るう。


 帝国は変わらない。


 それでも、初めて思った。


 何もできないわけではないのかもしれない。


 銃を持たなくても。


 誰かを殺さなくても。


 奪われたものを、すべて取り戻せなくても。


 言葉を残すことはできる。


 人の心へ届けることはできる。


 絶望の中にいる誰かへ、自分は一人ではないと伝えることはできる。


 それで十分だとは思わない。


 世界を変えられるとも思わない。


 ただ。


 誰かが明日まで生きようと思えるなら。


 自分が何者だったかを思い出せるなら。


 私が書く意味は、そこにあるのかもしれない。


 私は手記を抱え、暗い宿舎を見渡した。


 眠っている奴隷たちの間を、冷たい風が抜けていく。


 その夜。


 私は初めて、自分以外の誰かに読ませるために手記を書いた。


 それは革命の始まりではなかった。


 帝国へ刃を向けるためでもなかった。


 ただ、絶望の中にいる誰かへ、言葉を渡したかった。


 忘れるな、と。


 お前は奴隷になる前にも生きていたのだ、と。


 そして。


 今もまだ、人間なのだと。


 ──手記は、まだ続いていた。

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