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第五話 故郷

 翌朝、鐘の音で目を覚ました。


 薄暗い宿舎に、見張りが扉を叩く音が響く。


「起きろ! 五分以内に整列しろ!」


 奴隷たちが一斉に体を起こした。


 私も藁の上から立ち上がる。


 全身が重い。


 背中の傷は、服が触れるだけで痛んだ。


 昨日一日働かせた腕にも、疲れが残っている。


 それでも、いつもの朝とは少しだけ違った。


 夢を見た。


 妻と娘が生きていた頃の夢だった。


 青い窓枠の家。


 台所では妻が鍋をかき混ぜ、娘は机の上に置かれた私の原稿を勝手に読んでいた。


 目を覚ませば、二人がもういないことを思い知らされる。


 いつもなら、それだけで胸の奥に穴が空いた。


 しかし今朝は、悲しみの中に、わずかな温かさが残っていた。


 昨夜、聞いた鼻歌のせいだろうか。


「珍しい顔をしてるな」


 隣から声をかけられた。


 振り向くと、グレンが立っていた。


 私と同じ三十八歳。大柄な体と日に焼けた顔を持つ男だ。


 奴隷になってから何度も鞭で打たれているはずなのに、こいつは妙によく笑った。


「どんな顔だ」


「昨日よりは、生きてる顔だ」


「それは褒めているのか」


「当然だろ」


 グレンは笑いながら、寝癖のついた髪を手で押さえた。


「昨夜の歌、聞いたか?」


 私が尋ねると、その笑みが少しだけ消えた。


「ああ」


「誰が歌っていた」


「さあな。見回りが来る前に止んだから、探す暇もなかった」


「前から聞こえていたのか?」


「いや。俺も昨夜が初めてだ」


 グレンは周囲を見回し、声を落とした。


「不思議な歌だったな」


「歌詞もなかった」


「だからよかったのかもしれん」


「どういう意味だ」


「言葉があったら、誰かの歌だろ」


 グレンは扉へ向かいながら言った。


「あれには言葉がなかった。だから、聞いた奴が好きなように思い出せた」


 私は答えなかった。


 好きなように思い出した。


 確かに、そうだったのかもしれない。


 あの旋律から、私は妻と娘を思い出した。


 ほかの奴隷たちは、何を思い出したのだろう。


 宿舎を出ると、朝の冷たい空気が肌を刺した。


 奴隷たちは列を作り、工場へ向かう。


 門の向こうでは、今日も煙突から黒煙が上がっていた。


 鉄を打つ音。


 歯車の回る音。


 蒸気の噴き出す音。


 工場は、私たちが来る前から動いていた。


 私たちが死んだ後も、動き続けるのだろう。


 今日の仕事は、銃身の研磨だった。


 粗く削られた鉄の筒を受け取り、布と油で表面を磨く。


 傷が残れば怒鳴られる。


 一本を終えれば、次の一本が置かれる。


 磨いているものが銃でなければ、まだ耐えられたかもしれない。


 これを手にした兵士が、誰かの家を焼く。


 誰かの妻を殺し、子供を奪う。


 分かっていても、作らなければならない。


 手を止めれば、自分が打たれる。


 倒れて働けなくなれば、捨てられる。


 生き延びるために、誰かを殺す道具を作る。


 私はそんな自分を何度も軽蔑した。


 だが、軽蔑したところで手は止まらなかった。


 やがて、工場の奥で短い鐘が二度鳴った。


「休憩だ! 十分後には作業へ戻れ!」


 作業場に張りつめていた空気が、わずかに緩む。


 奴隷たちは壁際や資材の脇へ座り込んだ。


 水桶にはすぐに列ができたが、会話をする者は少ない。


 たった十分。


 それでも、この時間だけは手を動かさなくても鞭が飛んでこない。


「水、飲むか?」


 グレンが木の器を差し出してきた。


「ああ」


 一口飲む。


 生温かく、鉄の味がした。


 私は壁へ背を預け、目を閉じた。


 カラン。


 どこかで鎖が鳴った。


 奴隷なら、誰もが手枷を身につけている。


 鎖の音など珍しくない。


 だが、今の音には一定の間があった。


 カラン。


 少し置いて、もう一度。


 金属音が、工場の騒音の隙間を縫うように繰り返される。


 目を開ける。


 資材置き場の前。


 積み上げられた木箱の陰に、一人の若い女が立っていた。


 痩せた腕。


 汚れた服。


 両手首には、ほかの奴隷よりも太い手枷が嵌められている。


 女は監督官の方を一度だけ見た。


 彼らは少し離れた場所で話し込み、こちらへ背を向けている。


 女が片足を引いた。


 鎖が鳴る。


 そして、踊り始めた。


 最初は、そうだと分からなかった。


 足を伸ばし、体を傾け、両腕を胸元へ引き寄せる。


 休憩中に体をほぐしているようにも見えた。


 だが、その足音には拍子があった。


 右足で地面を打つ。


 鎖を鳴らす。


 体を回せば、また鎖が応える。


  工場の機械音に混じりながら、女の動きだけが別のリズムを刻み始めた。


 音楽はない。


 歌もない。


 それでも、女は確かに踊っていた。


 両腕を伸ばそうとすれば、鎖に阻まれる。


  女は鎖に引かれる勢いを利用して、体を回した。


 地面すれすれまで身を沈め、片足を大きく伸ばす。


 できない動きを、別の動きへ変えていく。


 女を縛るはずの鎖さえ、踊りの一部になっていた。


 私は目を離せなかった。


 美しい踊りだったのかは分からない。


 私は踊りに詳しくない。


 技術があるのかも、正しい形なのかも知らない。


 それでも、胸がざわついた。


 あの女は自由ではない。


 生きる場所さえも、自分では選べない。


 それなのに、踊っている間だけは、誰の命令にも従っていないように見えた。


 女の体を動かしているのは、監督官の声ではない。


 鞭への恐怖でもない。


 女自身だった。


 周囲の奴隷たちも、静かに顔を上げていた。


 誰も声を出さない。


 拍手もしない。


 監督官に気づかれないよう、ただ目だけで女の動きを追っている。


「前にも踊っていたのか?」


 小声で尋ねる。


 グレンは女を見たまま答えた。


「何度か見た」


「なぜ教えなかった」


「聞かれなかったからな」


「そういう問題か」


 女がその場で一度、回った。


 鎖が甲高い音を立てる。


 監督官の一人が振り返った。


 女はすぐに動きを止め、肩を伸ばすふりをする。


 監督官は興味を失ったように、再び仲間との会話へ戻った。


 しばらくして、女はまた足を動かした。


 今度は、小さく。


 奴隷にしか分からないほど、小さな踊り。


 それでも、何かが伝わってくる。


 諦めるな。


 そう言っているように思えた。


 いや。


 言葉にすれば、きっと違う。


 女が何を考えているのか、私には分からない。


 ただ、その姿を見ていると、手枷を嵌められた自分の腕が、昨日までとは少し違って見えた。


 この鉄があるから、私は何者でもなくなったと思っていた。


 だが、あの女は違う。


 手枷を嵌められていても、踊り子だった。


 鎖は、女からすべてを奪えていない。


 女が片足を引き、頭を下げた。


 踊りが終わる。


 誰も拍手をしなかった。


 できなかった。


 代わりに、女の近くにいた男が、拳で一度だけ胸を叩いた。


 別の女も、同じように胸へ手を当てる。


 グレンも拳を胸へ置いた。


「何だ、それは」


「知らん」


「知らないのか」


「誰かが始めた」


 グレンは小さく笑った。


「だが、拍手より静かだ」


 私も女を見る。


 踊り子は、誰にも気づかれないほど、わずかに笑った。


 その瞬間、鐘が鳴った。


「作業へ戻れ!」


 監督官の怒声が飛ぶ。


 奴隷たちはすぐに立ち上がり、それぞれの作業台へ戻っていく。


 踊り子も、人混みに紛れて姿を消した。


 工場は再び、鉄と命令の轟音に支配された。


 私は布を手に取り、銃身を磨き始めた。


 何が変わったわけでもない。


 私たちはまだ奴隷だ。


 女の手枷も外れていない。


 それでも、踊りを見ていた間だけ、工場の音が遠くなった。


 自分がただの労働力ではなく、一人の人間だったことを思い出した。


 昨夜の鼻歌を聞いた時と同じだった。


 あの歌も。


 今の踊りも。


 忘れていた何かを、胸の奥から引き出した。


「ジャックス!」


 監督官の声が響く。


 慌てて顔を上げる。


「手が遅いぞ!」


「申し訳ありません」


 布を動かす。


 それでも心のどこかでは、まだ鎖の音が鳴っていた。


 ◇


 日が沈む頃、作業終了の鐘が鳴った。


 奴隷たちは列を作り、宿舎へ戻る。


 夕食は硬い黒パンと、具のほとんど入っていないスープだった。


 私は壁際へ座り、パンをスープへ浸した。


「踊り、どうだった」


 隣に座ったグレンが尋ねてきた。


「なぜ私に聞く」


「ずっと見てたからだ」


「お前も見ていただろう」


「俺は何度か見た」


 グレンはパンを噛みちぎった。


「初めて見た奴の顔は面白い」


「そんなに変な顔をしていたか」


「ああ。自分が何を見てるのか分からない顔だ」


「今も分からない」


「なら、また見ればいい」


「見れば分かるのか?」


「さあな」


 グレンは笑った。


「分からなくても、悪いものじゃないだろ」


 私は答えず、残りのパンを口へ運んだ。


 見張りが来るまでには、まだ少し時間があった。


 宿舎の奥で、何かを擦る音が聞こえた。


 目を向ける。


 鉄格子の小さな窓の下に、一人の老人が座っていた。


 白い髪。


 深い皺。


 曲がった背中。


 老人は膝の上に紙を置き、その上で焦げた木片を動かしている。


「何をしているんだ」


 私が呟くと、グレンが老人の方を見た。


「絵を描いてる」


「絵?」


「何日か前からな」


 工場では、紙はすべて管理されている。


 記録に使えない端切れであっても、奴隷が持ち出すことは許されていない。


 見つかれば、ただでは済まない。


 私は立ち上がり、老人へ近づいた。


「何を描いているんですか」


 老人は手を止めなかった。


「見れば分かる」


 掠れた声だった。


 紙を覗き込む。


 描かれていたのは、一軒の家だった。


 石造りの小さな家。


 家の前には畑があり、その端には一本の木が立っている。


 窓のそばには女らしき人影。


 木の下には、二人の小さな子供が描かれていた。


 線は粗く、形も歪んでいる。


 上手な絵とは言えなかった。


 それなのに、なぜか目を離せなかった。


 家の中から、誰かの話し声が聞こえてきそうだった。


「あなたの家ですか」


「ああ」


「帰りたいんですね」


 老人の手が止まった。


 ゆっくりと私を見る。


「帰れんよ」


 老人は言った。


「村は焼かれた。家族も死んだ」


「……すみません」


「なぜ謝る」


「余計なことを聞きました」


「聞かれたくないなら、人のいる場所で描いたりせん」


 老人は再び木片を動かした。


 器用に線を引き、指で擦って陰影をつけていく。


「では、なぜ描いているんです」


「忘れたくないからだ」


 家の扉が描き加えられる。


「家の形を?」


「それだけではない」


 老人は窓のそばにいる女を指した。


「朝になると、妻がここを開けた」


 次に、木の下の小さな影を指す。


「孫たちは、あの木の周りを走っていた」


 家の前に立つ男へ、線を重ねる。


「仕事から帰ると、私はここで靴の泥を落とした」


 一つ一つの言葉とともに、粗い線の奥から老人の暮らしが浮かび上がってくる。


 朝の光。


 家族の声。


 土の匂い。


 老人が奴隷ではなかった頃の人生。


「そこへ帰りたいんですか」


 老人はしばらく考え、静かに首を振った。


「帰りたい場所とは、少し違う」


「違う?」


「もう、あの場所には何もない」


 老人は紙の上の家を見つめた。


「家もない。妻も、孫もいない。そこへ行っても、私が帰りたい場所は残っておらん」


「なら、これは何です」


 老人は木片を紙の下へ動かした。


 ゆっくりと文字を書く。


 故郷。


「故郷……」


「故郷は、帰りたい場所ではない」


 老人は言った。


「自分が、自分として生きられた場所だ」


 その言葉が、胸の奥へ落ちた。


「自分として……」


「帝国に捕まってから、私は番号で呼ばれるようになった」


 老人は自分の手枷を見る。


「何を考え、何を好み、誰を愛したか。そんなことは誰も知らん。知る必要もないと思っている」


 工場では、働けるかどうかだけが求められる。


 名前は必要ない。


 過去も。


 家族も。


 夢も。


 必要なのは、鉄を運ぶ腕だけだ。


「毎日そうして生きていると、自分が何者だったのか分からなくなる」


 老人は絵を持ち上げた。


「だが、これを見れば思い出せる」


 小さな家。


 妻。


 孫。


 畑。


 一本の木。


「私は、奴隷になる前にも生きていた」


 息が詰まった。


 昨夜、鼻歌を聞いた。


 今日、踊りを見た。


 そして今、この老人は絵を描いている。


 自分が誰だったのかを、忘れないために。


「あなたは、画家だったんですか」


「いや。農夫だ」


「では、なぜ絵を」


「言葉で残すのが苦手だからだ」


 老人は少し笑った。


「お前は?」


「私ですか」


「何をしていた」


 答えようとして、言葉が出なかった。


 以前なら、迷わず答えられた。


 小説家だと。


 売れてはいなくても。


 誰にも認められていなくても。


 私は小説を書いていた。


 だが今、それを名乗っていいのだろうか。


「以前は、小説を書いていました」


「以前は?」


「もう、書いていません」


「なぜだ」


「書く意味がなくなったからです」


 老人は私を見る。


「意味?」


「私の小説を読んでくれたのは、妻と娘だけでした」


「二人もいたのか」


「……はい」


「なら、十分だろう」


「二人は、もういません」


 老人は何も言わなかった。


「二人が死んでから、何を書けばいいのか分からなくなりました」


「物語でなくてもいい」


 老人は自分の絵を示した。


「残したいものを書けばいい」


 残したいもの。


 妻の笑顔。


 娘のえくぼ。


 青い窓枠。


 料理をしながら、妻が口ずさんでいた鼻歌。


 娘が私の原稿を勝手に読み、結末に文句を言ったこと。


 私が二人を愛していたこと。


 二人が確かに生きていたこと。


「ですが、書いたところで……」


「何も変わらん」


 老人は言った。


「死んだ者は戻らない。家も元には戻らない」


 優しい言葉ではなかった。


 だが、だからこそ信じられた。


「それでも私は描く」


 老人は紙へ視線を戻した。


「忘れないために」


 胸の奥で、何かが動いた。


 失ってから、ずっと閉じ込めていたもの。


 もう二度と触れまいとしていたもの。


 書きたい。


 そう思った。


 妻のことを。


 娘のことを。


 私たちが暮らした日々を。


 誰かに認めてもらうためではない。


 売るためでもない。


 ただ、二人が生きていたことを残したい。


 見張りの足音が、宿舎へ近づいてくる。


 老人は絵を折り畳み、服の内側へ隠した。


 私は自分の寝床へ戻った。


 灯りが消される。


 宿舎が暗闇に包まれた後も、眠ることができなかった。


 妻の笑顔。


 娘のえくぼ。


 青い窓枠。


 思い出すたびに、胸が痛んだ。


 それでも、目を背けたいとは思わなかった。


 痛みごと、残したかった。


 私は藁の上で、自分の手を見る。


 銃を磨くための手。


 鉄を運ぶための手。


 鞭から頭を守るための手。


 それだけではない。


 かつて、この手はペンを握っていた。


 物語を書いていた。


 妻と娘が続きを待つ物語を。


 暗闇の中で、私は手をゆっくりと握った。


 紙が欲しい。


 ペンが欲しい。


 もう一度、書きたい。


 忘れないために。


 私が、私だったことを。


 私にも、故郷があったことを。


 それを、言葉で残したいと思った。

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― 新着の感想 ―
鎖の音を音楽に変えて踊る少女と、焦げた木片で失われた家を描く老人の姿。歌、踊り、そして絵――「自由と記憶」を象徴する芸術が、奪われた人間の尊厳を静かに取り戻していく。 この物語の作り方、表現の仕方は…
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