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第四話 奴隷だった一人の男

 生温かい風が、頬を撫でていた。


 木と、土と、血。


 そして、何かが焼ける臭い。


 手首を動かすと、錆びた鉄が擦れ合った。


 両手には手枷が嵌められている。


 そこから伸びた鎖は、前を歩く男へと繋がっていた。


 背後からも、足を引きずる音が続いている。


「止まるな!」


 乾いた怒声が飛んだ。


 直後、列の後ろで鞭が鳴る。


 誰かが呻いた。


 それでも、振り返る者はいなかった。


 振り返れば、自分も打たれる。


 ここにいる全員が、それを知っている。


 私も前を向いたまま、歩き続けた。


 街道の両脇には、焼け焦げた家々が並んでいた。


 壁だけを残して崩れた家。


 屋根を失った納屋。


 踏み荒らされた畑。


 道端では、荷車が横倒してる。


 少し前まで、ここにも人の暮らしがあったのだろう。


 朝になれば窓が開き、家族が食卓を囲み、子供たちが道を駆けていた。


 今はもう、誰もいない。


 帝国軍が、すべてを奪った。


 兵士たちは国境を越え、村を焼き、逆らう者を撃った。


 生き残った者は、こうして鎖に繋がれた。


 男も。


 女も。


 老人も。


 幼い子供でさえも。


 敗れた国の人間は、帝国の財産になる。


 働ける者は奴隷として使い潰され、働けない者はその場で捨てられる。


 私は、まだ歩けた。


 まだ腕が動いた。


 だから、生かされた。


「顔を上げろ!」


 前を歩く男がふらついた。


 兵士が銃床で、その背中を殴りつける。


 男は地面へ膝をついた。


「立て」


 返事はない。


「立てと言っている!」


 もう一度、銃床が振り下ろされた。


 それでも男は動かなかった。


 兵士が舌打ちをする。


 次に聞こえたのは、一発の銃声だった。


 列がわずかに揺れた。


 だが、誰も声を上げない。


 声を上げても、何も変わらない。


 男の体を街道に残し、私たちは再び歩かさ   れた。


 死んだ方がましだ。


 何度も考えたことが、また頭をよぎった。


 この列に繋がれてから、何度そう思っただろう。


 歩くのをやめればいい。


 兵士へ掴みかかればいい。


 撃たれれば、明日を迎えなくて済む。


 それでも、私は歩いていた。


 生きたいからではない。


 死ぬために何かをする力さえ、もう残っていなかった。


 やがて、黒煙を吐き出す巨大な建物が見えてきた。


 高い煙突。


 煤で黒ずんだ石壁。


 何重にも巡らされた鉄柵。


 柵の上には有刺鉄線が巻かれ、門の両脇には銃を持った兵士が立っている。


 帝国の軍需工場だった。


 門をくぐった瞬間、全身を轟音が打った。


 鉄を打つ音。


 歯車が回る音。


 蒸気が噴き出す音。


 怒鳴り声。


 咳き込む声。


 それらすべてが混ざり合い、工場そのものが巨大な獣のように唸っていた。


「今日から、お前たちはここで働く」


 監督官が、私たちの前を歩きながら言った。


 その手には、鞭が握られている。


「仕事を覚えろ。命令に従え。余計なことはするな」


 誰も顔を上げなかった。


「働ける限りは、食事を与える」


 監督官は足を止めた。


「働けなくなった者は、必要ない」


 沈黙が落ちる。


 監督官は近くにいた男の腹を蹴り上げた。


「返事は!」


「はい!」


 何人かが慌てて声を上げる。


 私も口を動かした。


 声が出ていたかどうかは、自分でも分からなかった。


 それからは、同じ日々の繰り返しだった。


 朝、鐘の音で起こされる。


 水のように薄いスープを飲み、工場へ向かう。


 鉄板を運ぶ。


 部品を削る。


 銃身を磨く。


 空箱を積み上げる。


 手が遅れれば怒鳴られた。


 止まれば鞭で打たれた。


 倒れれば、作業場の外へ引きずられていった。


 連れていかれた者が戻ってくることはなかった。


 工場で作られているのは、銃だった。


 私たちの国を焼いた銃。


 妻と娘を奪った銃。


 それを今度は、奪われた私たち自身の手で作らされている。


 皮肉だと思った。


 だが、笑う気にはなれなかった。


 私はかつて、小説家だった。


 もっとも、胸を張ってそう名乗れるほど、本が売れていたわけではない。


 村の外で私の名を知る者など、ほとんどいなかった。


 市場に本を置いても、手に取る者は少ない。


 最後まで読んでくれる者となれば、さらに少なかった。


 私の物語は、理想ばかりだと言われた。


 世界はそんなに優しくない。


 人間はそんなに分かり合えない。


 正しい者が報われるなど、子供の夢だ。


 そう笑われた。


 それでも、私は書き続けた。


 妻が読んでくれたからだ。


『私は好きよ』


 原稿を読み終えた妻は、いつもそう言った。


『あなたの物語を読むと、少しだけ明日が楽しみになるもの』


 娘も、机の横から原稿を覗き込んでは、続きをせがんだ。


『お父さん、この人は最後に幸せになる?』


『どうだろうな』


『幸せにしてあげてよ』


『物語は、そんなに簡単じゃないんだ』


『お父さんが書いてるんだから、お父さんが幸せにすればいいでしょ』


 娘はそう言って頬を膨らませた。


 笑うと、右の頬に小さなえくぼができた。


 私は、その顔が好きだった。


 私たちが暮らしていたのは、小さな家だった。


 窓枠は青く塗られていた。


 私はその窓が好きだった。


 妻は料理をするとき、よく鼻歌を歌った。


 曲名を尋ねても、本人も知らないと言って笑っていた。


 あの家で暮らしていた頃、私は自分を不幸だと思っていた。


 本が売れない。


 才能がない。


 誰にも認めてもらえない。


 自分には、もっと別の人生があるはずだ。


 そんなことばかりを考えていた。


 馬鹿だった。


 私の物語を待ってくれる人が、二人もいた。


 それだけで、十分だったのに。


「手が止まっているぞ!」


 声と同時に、背中へ焼けるような痛みが走った。


 私は前のめりになり、作業台へ手をついた。


「申し訳ありません」


「考え事をする暇があるなら、手を動かせ」


「はい」


 歯を食いしばり、再び銃身を磨く。


 背中が脈打つように痛んだ。


 だが、すぐにその痛みさえ遠のいていった。


 妻と娘を失った日から、体の痛みなど、どうでもよくなっていた。


 村が焼けた日。


 私は町から家へ戻る途中だった。


 遠くに黒煙が見えた。


 胸騒ぎがして、荷物を放り出し、走った。


 道には人が倒れていた。


 家々が燃えていた。


 帝国兵が、逃げる人々へ銃を向けていた。


 私の家も燃えていた。


 青かった窓枠は黒く焦げ、屋根は半分以上崩れ落ちていた。


 瓦礫のそばに、妻が倒れていた。


 その腕の中に、娘がいた。


 妻は最後まで、娘を抱きしめていた。


 私は二人のもとへ這っていった。


 妻の名を呼んだ。


 娘の名を呼んだ。


 何度呼んでも、返事はなかった。


 娘の手を握った。


 まだ温かかった。


 だから、助かると思った。


 まだ間に合うのだと。


 何度も呼びかけた。


 手を擦った。


 抱き起こそうとした。


 けれど、その温もりは私の手の中で、少しずつ失われていった。


 私は、何もできなかった。


 小説の中では、何人もの人間を救った。


 困難に立ち向かう主人公を書いた。


 愛する者を守る英雄を書いた。


 最後まで希望を捨てない者を書いた。


 けれど現実の私は、妻も娘も守れなかった。


 英雄どころか、立ち上がることさえできなかった。


 二人のそばで泣き続け、やがて帝国兵に捕らえられた。


 それ以来、私は物語を考えなくなった。


 世界は優しくない。


 人は分かり合えない。


 正しい者が報われることなどない。


 かつて私の小説を笑った者たちの方が、正しかったのだ。


 夕方。


 作業終了を知らせる鐘が鳴った。


 奴隷たちは列を作り、工場を出る。


 一日の労働が終わっても、誰の顔にも安堵はなかった。


 明日になれば、また同じ一日が始まる。


 宿舎は、工場の裏手に建てられた石造りの長屋だった。


 窓は小さく、鉄格子が嵌められている。


 中には粗末な寝台が並び、藁と汗と湿気の臭いが籠もっていた。


 夕食は、硬い黒パンと薄いスープだけだった。


 私はパンをスープへ浸し、柔らかくなった部分を口へ運ぶ。


 味はしなかった。


 向かいでは、老人が咳き込んでいた。


 隣では、若い男が靴擦れで破れた足に布を巻いている。


 部屋の隅では、女が声を殺して泣いていた。


 誰も彼女へ声をかけない。


 冷たいからではない。


 かけられる言葉を、誰も持っていなかった。


 やがて、見張りが宿舎の扉を閉めた。


 外側から鍵が掛けられる。


「消灯だ。騒ぐなよ」


 ランタンが消され、宿舎は闇に沈んだ。


 私は藁の上へ横になった。


 体中が痛んでいた。


 目を閉じても、眠気は来ない。


 暗闇の中にいると、妻と娘の顔が浮かぶ。


 思い出したくない。


 けれど、忘れたくもない。


 忘れてしまえば、本当に二人が消えてしまう気がした。


 私は何のために生きているのだろう。


 明日も銃を作るためか。


 帝国の兵士が、また誰かの家族を奪うための銃を。


 生きる意味など、もうどこにもない。


 今夜、首を吊ることができれば。


 だが、紐はない。


 喉を切る石を探せばいい。


 だが、起き上がる気力すらなかった。


 結局、私は死ぬことさえできない。


 ただ横たわり、明日が来るのを待つだけだ。


 その時だった。


 暗闇のどこかから、小さな音が聞こえた。


 最初は、誰かが泣いているのだと思った。


 だが、違う。


 歌だった。


 言葉のない、少女の鼻歌。


 か細く、注意していなければ聞き逃してしまいそうな声だった。


 誰が歌っているのかは分からない。


 この宿舎の中なのか。


 隣の建物なのか。


 それとも外なのか。


 見張りに聞かれれば、咎められるかもしれない。


 それでも、鼻歌は途切れなかった。


 どこか懐かしい旋律だった。


 初めて聞くはずなのに、ずっと昔から知っていたような気がする。


 妻が料理をしながら歌っていた鼻歌とは違う。


 それなのに、目を閉じると、あの家の台所が浮かんだ。


 青い窓枠。


 夕暮れの光。


 鍋をかき混ぜる妻。


 庭から駆け込んでくる娘。


 机の上には、書きかけの原稿が置かれている。


『お父さん、続きは?』


 娘の声が聞こえた気がした。


 胸の奥が痛んだ。


 いつもの、ただ押し潰されるような痛みとは違う。


 失ったものを突きつけられる苦しさ。


 それでも、それが確かに存在していたのだという温もり。


 二つが同時に込み上げてきた。


 宿舎の空気も、わずかに変わっていた。


 咳き込んでいた老人の呼吸が、少しずつ穏やかになる。


 隣の男は、破れた靴を抱えたまま目を閉じていた。


 泣いていた女の嗚咽も、いつの間にか止まっている。


 誰も話さない。


 誰も動かない。


 ただ、皆が同じ歌へ耳を澄ませていた。


  鼻歌は、やがて静かに消えた。


 残されたのは、暗闇と、奴隷たちの浅い呼吸だけだった。


 明日になれば、また工場へ連れていかれる。


 鞭で打たれ、銃を作り、ただ一日を生き延びる。


 何一つ、変わってはいない。


 それでも、ほんの一瞬だけ。


 私は奴隷ではなかった。


 夫であり。


 父親であり。


 物語を書いていた、一人の小説家だった。


 私は暗い天井を見つめた。


「……今の歌は、何だったんだ」


 答える者はいなかった。


 けれどその夜、私は奴隷になってから初めて、妻と娘が生きていた頃の夢を見た。

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