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第三話 エバーガーデン

クロイツの背中を追いながら、腫れた頬に触れた。


「痛っ……」


「触れば痛むに決まっているだろう」


前を歩くクロイツが、振り返りもせずに言った。


「分かってる」


頬から手を離す。


人通りのない路地を、クロイツとミレナは迷いなく進んでいく。


ミレナは先ほどから一言も話していない。


あれほど鮮やかに夜へ響いていた鼻歌が、嘘のようだった。


視線を向けると、ミレナも一瞬だけこちらを見る。


だが、すぐに顔を伏せた。


「なんだよ」


返事はない。


「ミレナはあまり喋らない」


クロイツが言う。


「見れば分かる」


三人は細い道を幾つも曲がり、街の外れへ進んでいく。


家々の灯りは減り、道端には壊れた荷車や木箱が放置されていた。


「どこまで行くんだ」


「もうすぐだ」


「さっきも聞いたぞ」


「その時より近づいている」


「便利な答えだな」


やがてクロイツは、古びた石造りの建物の前で足を止めた。


窓は割れ、壁には蔦が這っている。


屋根の一部も崩れており、どう見ても廃墟だった。


「ここか?」


「ああ」


「人が住んでるようには見えねぇけど」


「それが大事なんだ」


クロイツは壊れかけた扉を押し開けた。


内部は暗く、床には厚く埃が積もっている。壊れた椅子や棚が無造作に転がり、人が使った形跡はない。


クロイツは部屋の奥にある木箱を横へずらした。


その下から、床板に埋め込まれた鉄の取っ手が現れる。


「隠し扉か」


「そういうことだ」


床板を持ち上げると、地下へ続く石階段が姿を現した。


クロイツはランタンに火を灯す。


「二段目が欠けている。気をつけろ」


「直せよ」


「そのうち直す」


「直さない奴の言い方だろ」


クロイツが先に階段を降り、ミレナもその後へ続いた。


地下への入口を見下ろした。


ここで引き返すこともできる。


何者かも分からない男に、夜中の廃墟まで連れてこられたのだ。普通なら帰るべきなのだろう。


だが、あの鼻歌の正体だけは知りたかった。

 

レオは息を吐き、階段へ足をかけた。


階段の先には、想像していたより広い空間があった。


石壁には幾つものランタンが掛けられ、中央には大きな長机が置かれている。壁際には食器棚や食料袋が並び、奥にはいくつかの扉も見えた。


家具は古く、椅子の形も揃っていない。


それでも、地上の廃墟とは違い、ここには確かに人の暮らす気配があった。


「なんだよ、ここ……」


「――動かないでください」


背後から女の声がした。


レオが振り向こうとした瞬間、右腕を掴まれる。


「なっ――」


足を払われ、視界が傾く。


床へ叩きつけられると思ったが、寸前で勢いを殺され、そのまま腕を背中へ捻り上げられた。


「ぐっ……!」


背中を膝で押さえられ、首筋へ冷たい刃が触れる。


何をされたのか理解する前に、完全に動きを封じられていた。


押さえているのは、黒髪の女だった。


肩まで伸びた髪と、真っ直ぐに切り揃えられた前髪。


整った顔立ちをしているが、その濃い茶色の瞳には一切の油断がない。


「団長」


女はレオを押さえたまま、クロイツへ目を向けた。


「説明を」


声は落ち着いていた。


だが、反論を許さない圧があった。


ミレナは小さく肩を震わせ、クロイツの背後へ隠れる。


「ただいま、ノーラ」


「おかえりなさい。こちらの方は?」


「レオだ」


「名前ではなく、ここにいる理由を聞いています」


「市場で貴族に喧嘩を売っていた」


「余計な説明すんな!」


「紹介するなら、嘘はつきたくない」


「余計なところだけ正直かよ」


クロイツは肩をすくめた。


「それから、ミレナの鼻歌を聞いて。歌を追って、自分の意思でここまで来た。この場所については何も知らない」


「信用できると?」


「信用はしていない」


「おい」


「だが、敵とは考えにくい」


クロイツは消えかけのたばこに火をつけ直す。


ノーラはしばらく黙ったまま、レオを見下ろしていた。


やがて首筋から刃を離し、拘束を解く。


「……分かりました」


立ち上がり、捻られた肩を押さえた。


「いきなり何しやがる」


「申し訳ありません」


ノーラは短剣を鞘へ収め、軽く頭を下げた。


「ここは、知らない方を簡単に通してよい場所ではありませんので」


「だからって話を聞く前に押さえつけるか?」


「侵入者が素直に話すとは限りません」


「俺が侵入者に見えたのかよ」


「はい」


迷いのない即答だった。


「今のところ、危険ではないと判断しています。ただ、完全に信用した訳ではありません」


「本人に言うか、それ」


「隠す必要もありませんので」


その時、クロイツの背後からミレナが顔を出した。


ノーラは彼女を見ると、険しかった表情を柔らかくする。


「おかえりなさい、ミレナ。怪我はありませんか?」


ミレナは小さく頷いた。


「寒くなかったですか?」


もう一度、頷く。


「温かいものを用意しますね」


先ほどまでとは別人のように優しい声だった。


「俺への態度と違いすぎねぇか」


「日頃の行いの差ですね」


「初対面だろうが」


ノーラがかすかに笑った。


「随分と騒がしいですね」


奥の通路から、穏やかな男の声が聞こえた。


現れたのは、白衣の袖を肘まで捲った長身の男だった。


レオの顔を見るなり、近くの椅子を引く。


「怪我をしています。座ってください」


「これくらい平気だ」


「怪我をしている方は、皆さんそう言います」


柔らかな敬語なのに、妙に逆らいづらい。


レオは渋々椅子へ座った。


男は棚から治療箱を取り出し、腫れた頬と切れた唇を確認する。


「骨に異常はなさそうです。軽傷ですね」


「ほら、平気だろ」


「平気と軽傷は、同じ意味ではありませんよ」


薬を染み込ませた布が傷口へ触れた。


「痛っ!」


「少し染みます」


「先に言えよ」


「次からは三秒前にお知らせします」


男は真面目な顔をしていたが、目元だけがわずかに笑っていた。


「エリアス・フェルナー。ここの医療担当だ」


クロイツが言った。


「元帝国陸軍の軍医でもある」


「エリアスです。よろしくお願いします」


「元軍医?」


レオはエリアスとノーラを交互に見る。


「じゃあ、二人ともオーダーだったのか」


「元、ですが」


エリアスが答えた。


オーダーは秩序を守る側の階級だ。


グラウンへ命令し、監視する側。


その人間が、なぜこんな地下にいるのか。


「なんで元オーダーがここにいるんだよ」


「説明すると長くなります」


エリアスは治療を続けながら言う。


「その話は、また別の機会にしましょう」


「答えないことと誤魔化すことは違うからね」


長机の向こうから声がした。


紙の束の陰から、一人の青年が顔を出す。


レオより少し年上に見え、手にはペンを持っていた。


「誰だ、お前」


「それ、こっちの台詞なんだけど」


青年は立ち上がり、興味深そうにレオへ近づく。


「顔、殴られた?」


「見れば分かるだろ」


「誰に?」


「貴族」


「見てた人は?」


「なんで尋問が始まってんだよ」


「尋問じゃない。取材」


青年が紙へ書こうとすると、クロイツが横から取り上げた。


「記事にするなよ、テル」


「分かってるって。本人の証言だけじゃ、確認できた事実とは言えない」


「聞き込みもするな」


「まだ何も言ってないだろ」


「顔に書いてある」


テルと呼ばれた青年は、残念そうに肩をすくめた。


「テル・パストレアス。新聞記者。ここでは情報を集めてる」


「新聞記者が、なんで地下にいるんだ」


「面白いことが地上だけで起きるとは限らないからね」


テルはレオを観察するように目を細めた。


「で、貴族に喧嘩を売ったのは本当?」


「ああ」


「理由は?」


「女の子が絡まれてた。それを止めただけだ」


「その子が困ってたのは確認した?」


「見れば分かる」


「見たことと、確認した事実は違うよ」


「細けぇな」


「そこを分けられない記者は、ただの噂好きだから」


軽い口調だが、目だけは真剣だった。


「それで」


治療を終えたレオは、クロイツへ視線を向ける。


「ここは何なんだ」


空気が少しだけ変わった。


クロイツは長机の奥へ歩いていく。


「ここは、俺たちの帰る場所だ」


「帰る場所?」


「地上に居場所を失った者達が帰る場所」


クロイツは椅子の背へ手を置いた。


「それが、エバーガーデンだ」


聞き慣れない名前だった。


「いつまでも続く庭。帰る場所を失っても、生きていける場所」


「庭には見えねぇぞ」


「地下だからな」


「そこは否定しろよ」


「形はどうでもいい。大事なのは、戻ってこられるってことだ」


クロイツの声から、いつもの軽さが消える。


「俺たちは、この国の理不尽な制度をなくすために動いている」


レオは眉を寄せた。


「……は?」


「聞こえなかったか?」


「聞こえたから聞き返してんだよ」


レオは周囲を見回した。


ノーラ。


エリアス。


テル。


ミレナ。


見える範囲では、それだけだ。


「お前らだけで?」


「ほかにも何人かいるぞ」


「無理に決まってんだろ」


「なんでわかる?」


 クロイツは軽く返す。


「何もしなければ、何も変わらない」


「何かしたって捕まるだけだ」


「なら、君はなぜ鼻歌を追った?」


口を閉ざした。


「なぜ帰らなかった?」


「……知らねぇよ」


「今のままでいいと思っているなら、ここまで来なかった」


「勝手に決めつけんな」


「なら、自分で確かめればいい」


クロイツは一冊の古びた本を取り出す。


色褪せた革表紙には題名がなく、角は擦り切れていた。


クロイツはそれをレオの前へ置いた。


「なんだ、これ」


「手記だ」


「誰の?」


「読めば分かる」


「またそれかよ」


「俺が説明するより早い」


レオは古びた手記を見下ろした。


「これを読めば、何か分かるのか?」


「少なくとも、君がここへ来た理由を考えるきっかけにはなる」


「嫌なら読まなくていい」


クロイツが言う。


「帰ることもできる。ここで見聞きしたことを誰にも話さないと約束するなら、地上まで送ろう」


「信用できるのかよ、そんな約束」


「できない」


「じゃあ、なんで帰す」


「君が選ぶことだからだ」


クロイツは真っ直ぐレオを見た。


「ここにいる者は、自分の意思でここにいる。選択まで奪えば、帝国と同じだ」


レオは周囲を見回した。


ノーラも、エリアスも、テルも何も言わない。


ミレナだけが、湯気の立つカップを両手で持ち、静かにこちらを見つめていた。


薄暗い地下。


古びた机。


寄せ集めの椅子。


国を変えられるような場所には見えない。


それでも、ここにいる人間達は本気だった。


「……読むだけだぞ」


レオは手記へ手を伸ばした。


「ああ」


「読んだからって、仲間になるとは限らねぇ」


「もちろんだ」


革表紙を開く。


黄ばんだページに、少し癖のある文字が並んでいる。


「最初から読めばいいのか?」


「最初の一文でいい」


「一文?」


クロイツは答えなかった。


レオは眉をひそめながら、最初の行を声に出す。


「これは、私がまだ――故郷という言葉の意味を知らなかった頃の話だ」


瞬間。


心臓が大きく跳ねた。


「……なんだ?」


手記に触れた指先が熱い。


紙の上の文字が、生き物のように揺れる。


黒い文字が紙から浮かび上がり、視界いっぱいへ広がっていく。


レオは手を離そうとした。


だが、動かない。


「おい、クロイツ…」


声が遠ざかる。


ランタンの光が伸び、地下室の輪郭が歪んだ。


ノーラが立ち上がる。


エリアスがこちらへ手を伸ばす。


テルが目を見開く。


ミレナだけが、静かにレオを見つめていた。


世界から音が消える。


次に聞こえたのは、風の音だった。


木と、血と、何かが焼ける臭いを運ぶ、生温かい風。


手首には鉄の重みがあった。


視界の端で鎖が揺れる。


腕も、脚も、傷だらけの手も、自分のものではない。


目の前には、手枷を嵌められた人々が並んでいた。


遠くで銃声が鳴る。


身体が勝手に震えた。


誰かの記憶。


誰かの身体。


誰かの人生。


レオの意識は、八十年前――奴隷だった一人の男の人生へと引きずり込まれていった

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