第二話 出会い
鼻歌は、まだ聞こえていた。
夜の街に溶け込むような、小さな音色。
痛む身体を引きずりながら、レオはその音を追っていた。
「……何やってんだ、俺」
思わず苦笑する。
鼻歌を追いかけたところで、何かが変わるわけじゃない。
それでも、足は止まらなかった。
市場の喧騒は遠ざかり、人気のない裏路地へ入る。
建物の隙間を風が吹き抜ける。
静かな夜に、鼻歌だけが響いていた。
「…………♪」
「どこだ……」
辺りを見回した、そのときだった。
「そこで止まれ」
低い声が背後から響く。
反射的に振り返る。
男にしては少し長い黒髪。
くたびれたシャツを適当に着崩し、口には湿気ったたばこ。
だらしない格好なのに、不思議と隙はない。
青い瞳だけが、こちらを真っ直ぐ見据えていた。
「……誰だ、おっさん」
「質問しているのは俺だ」
男は壁にもたれたまま、口を開く。
「何でここへ来た」
「鼻歌を追ってきた」
一瞬だけ、男の目が細くなる。
「……追ってきた?」
「ああ」
短い沈黙。
「変わった奴だな」
「何がだよ」
「許可証があるかどうかも分からない音楽に、自分から近づく人間なんてほとんどいない」
「何が悪い?」
「普通は聞こえても近寄らない」
「面倒事になるからか?」
「そういうことだ」
男はたばこの灰を落とした。
「許可があるかも分からない歌なんて、聞かなかったことにする。それが一番楽だからな」
「……くだらねぇ」
思ったことが、そのまま口から出た。
「そう思う人間は少ない」
「……あんた、誰だ」
「ダリウス・クロイツ」
「……」
「お前は?」
「レオ・アルヴェイン」
名前だけを交わす。
それだけでまた静寂に戻った。
「市場で、ずいぶん派手にやってたな」
「……見てたのか」
「ああ」
「笑いに来たなら帰れ」
「違う」
即座に否定する。
「貴族相手に、あそこまで食ってかかる奴は久しぶりに見た」
「結果は見ての通りだけどな」
「そうだな」
クロイツは苦笑した。
「そのあと、鼻歌を追ってここまで来た」
青い瞳が俺を見る。
「だから、少し気になった」
「つけてたのか」
「途中からだ」
「趣味悪いな」
クロイツは肩をすくめる。
「仕事みたいなもんだ」
「意味分かんねぇ」
「ははっ、そうだろうな」
それだけ言うと、クロイツは路地の奥へ視線を向けた。
「もういい」
その声に応えるように、物陰から一人の少女が姿を現す。
銀色の長い髪が夜風に揺れる。
白いフリルのついたシャツにスカート。
月明かりをまとったような小柄な少女だった。
思わず見入る。
「……お前が」
少女は黙ったまま、小さくこちらを見る。
「さっきの鼻歌を歌ってたのか」
こくり、と頷く。
「綺麗だった」
少女は少しだけ目を丸くした。
それから、小さく頭を下げる。
「……ありがとう」
透き通るような、小さな声だった。
「ミレナ・ローゼ」
それだけ名乗ると、また静かになる。
クロイツが苦笑する。
「俺の仕事仲間みたいなもんだ」
「……レオ・アルヴェイン」
ミレナは俺の名前を小さく繰り返した。
それ以上は何も言わない。
また静寂に戻る。
不思議と、その沈黙は気まずくなかった。
クロイツが俺へ向き直る。
「少し話がある」
「何の話だ」
「ここじゃできない」
俺はミレナを見る。
「……一つ聞かせてくれるか?」
クロイツは黙って続きを待つ。
「何だ」
俺はミレナを見つめた。
「なんで歌った」
ミレナは少しだけ視線を落とした。
小さく息を吸う。
「私は――」
「ミレナ」
クロイツが制止する。
ミレナは口を閉じた。
クロイツが俺を見る。
「その話は、ここじゃできない」
「……」
「知りたいならついて来い」
クロイツとミレナを見比べる。
怪しい。
どう考えても怪しい。
それでも、市場で感じた息苦しさと、あの鼻歌だけは頭から離れなかった。
「……話だけだからな」
クロイツは静かに頷く。
「ああ」
ミレナが何も言わず、歩き出す。
俺は小さく息を吐き、二人の後を追った。




