第十七話 描きたいもの
「リリアさん?」
玄関から、もう一度テルの声が聞こえた。
レオはその場に立ち尽くしていた。
足元には気を失ったリリア。
床には散乱した画材。
倒れた作業台。
天井には、自分が落ちてきた大穴。
どうする。
このまま黙っているわけにもいかない。
「リリアさん?」
また扉が叩かれる。
「さっきの音、大丈夫ですか?」
レオは諦めたように肩を落とした。
「……今開ける」
玄関へ向かう。
足元に散らばった画材を踏まないように進み、扉の前まで来る。
鍵を開けた。
ガチャ。
扉を少しだけ開く。
その向こうにテルが立っていた。
「よかった。誰も出てこないから何か――」
テルの言葉が止まった。
「…………」
「…………」
二人の目が合う。
テルが瞬きをする。
「なんで君が出てくるの?」
「…………」
「レオ?」
「……話せば長い」
「じゃあ短くして」
「ちょっと落ちた」
「どこから?」
レオは黙って上を指差した。
テルもつられるように視線を上げる。
当然、玄関からでは何も見えない。
テルはもう一度レオを見る。
「何?」
「入れば分かる」
テルの眉間に皺が寄った。
嫌な予感でもしたのだろう。
レオが扉を開ける。
「とりあえず来い」
テルは警戒するように家の中へ入った。
そして。
「…………」
作業場を見た。
床一面に散らばった絵具や筆。
倒れた作業台。
あちこちに飛び散った紙。
天井には大きな穴。
そして、その真下にはリリアが倒れている。
「…………」
テルはしばらく何も言わなかった。
レオも何も言わない。
やがてテルがゆっくりレオを見る。
「何したの?」
「落ちた」
「それは聞いた」
「天井から」
「それも今見れば分かる」
テルは天井の穴を指差した。
「なんで天井から落ちてくる状況になったの?」
「…………」
「だまらないで」
「屋根裏にいた」
「なんで?」
「…………」
レオは視線を逸らした。
「ちょっと中の様子を見ようと思って」
「…………」
「そしたら屋根裏の床が抜けた」
「…………」
「で、落ちた」
「…………」
「以上」
テルは何も言わなかった。
その沈黙が妙に長い。
「なんか言えよ」
「どこから言えばいいのか考えてる」
「別に言わなくていいぞ」
「じゃあ聞くけど」
テルがリリアを指差した。
「なんでリリアさんまで倒れてるの?」
「下にいた」
「下に?」
「俺が落ちたところに」
テルは目を閉じた。
片手で額を押さえる。
「……なるほど」
「事故だからな」
「君が勝手に屋根裏へ入ったところから始まってる事故だけどね」
「…………」
何も言い返せない。
テルは大きく息を吐いた。
「とにかく」
声色が変わった。
「リリアさんを先に見よう」
「ああ」
二人は倒れているリリアのそばへ向かった。
テルがしゃがみ込む。
「息は?」
「ある」
「これは団長にも報告するからね」
「はい…」
「とりあえず、ここじゃ駄目だな」
テルは周囲を見回した。
床には絵具や筆が散乱している。
このまま寝かせておくわけにもいかない。
「寝室探すか?」
「勝手に家の中を探し回るのは――」
テルが言いかけて、レオを見る。
「……今さらか」
「なんだよ、その目」
「別に」
二人でリリアを起こす。
「レオ、そっち持って」
「分かってる」
レオが肩を支え、テルが反対側から身体を支える。
力の抜けた身体は思ったより重い。
「お、重っ……」
「女性に言うことじゃないよ」
「本人聞いてねぇだろ」
「そういう問題じゃない」
「じゃあお前一人で運べよ」
「協力して」
「どっちだよ」
二人でなんとかリリアを運ぶ。
隣の部屋を覗くと、小さな寝台があった。
「ここだ」
二人はリリアを寝台へ横たえた。
テルがもう一度、呼吸を確認する。
「呼吸はしてる」
「だから言っただろ」
「頭を打った可能性もあるから、安心はできないけど」
レオの顔が曇った。
テルはそんなレオを見てから、リリアへ視線を戻した。
「今のところ目立った出血はなさそうだね」
「…………」
「そんな顔するなら最初からやらなきゃいいのに」
「うるせぇ」
レオは小さく返した。
二人は作業場へ戻った。
改めて見ると、ひどい有様だった。
レオは天井を見上げる。
大きな穴。
床を見る。
倒れた作業台。
散らばった画材。
「さすがにまずいよな……」
「片付けようか」
「……そうだな」
二人は散らばったものを拾い始めた。
筆。
絵具。
紙。
倒れた椅子を起こす。
作業台も二人で元の位置へ戻した。
レオは床にこぼれた絵具を布で拭きながら顔をしかめる。
「これ落ちるのか?」
「さあ」
「さあって」
「俺、画家じゃないし」
「役に立たねぇな」
「天井から落ちてきた人に言われたくないな」
「…………」
レオは黙って床を拭いた。
その時。
レオは作業台の下に何かが落ちていることに気が付く。
「なんだあれ?」
レオは気になり作業台の下に手を伸ばしてみる。
すると硬い何かを掴む。
作業台の下から手を引き抜いてその手に掴んでいた物を確認するとそれは黒い紐にくくられた古びた鍵だった。
「なんでこんなところに鍵が落ちてんだ?」
不思議そうに見ているとテルが来る。
「サボってないでよ」
「分かってるよ」
レオはその鍵を自分のポケットへしまうとやりかけだった掃除の続きを再開した。
しばらくして。
「なあ」
「何?」
「お前、なんでここに来たんだ?」
テルの手が止まる。
「君がいなくなったから」
「気付いてたのか」
「途中でね」
テルは散らばった紙を拾いながら答える。
「振り返ったらいなかった」
「それで?」
「君が行きそうなところなんて一つしかないだろ?」
「…………」
「まさか屋根から入るとは思わなかったけど」
「俺だって最初から屋根裏に入るつもりだったわけじゃねぇよ」
「じゃあ、どういうつもりだったの?」
「ちょっと窓から中を見るくらいのつもりだった」
「それも駄目だと思うけど」
テルは呆れたように息を吐いた。
その時。
「……あ」
レオが何かを思い出した。
「そうだ」
「何?」
「これ見ろ」
レオは床へ視線を走らせる。
散らばった紙の中から、一枚を拾い上げた。
テルへ差し出す。
「これ」
「絵?」
「名前見ろ」
テルが紙の端へ目を落とす。
その表情が変わった。
「……ヴィクトル・ローゼン」
「だろ?」
テルは紙を受け取る。
そこには精巧な風景画が描かれていた。
完成品ではない。
何度も線を重ね、構図を確かめたような下描き。
その端に、確かにヴィクトル・ローゼンの名前がある。
レオはもう一枚拾う。
「これも」
また同じ名前。
「こっちもだ」
三枚目。
やはり、
――ヴィクトル・ローゼン。
テルは黙ってそれらを見比べた。
「俺が落ちた時に、作業台から散らばった」
「なるほど…」
「どう思う?」
テルは答えない。
一枚ずつ絵を見る。
紙。
絵具。
筆跡。
そして名前。
「……少なくとも」
テルが口を開いた。
「ヴィクトルの名前が書かれた絵が、この家に複数ある」
「だよな」
「でも、これをリリアさんが描いたとはまだ――」
「おい」
レオが遮る。
「まだ言うのかよ」
「何が?」
「分からないってやつ」
「決めつけるよりいいだろ」
「昨日からずっとそれじゃねぇか」
「事実が足りないからね」
「じゃあ何なら事実なんだよ」
テルは手にした絵を見た。
「ヴィクトル・ローゼンは一年前に監視局へ連れていかれた」
一枚目。
「住民台帳では銃殺刑になっている」
二枚目。
「その後、近所でヴィクトル本人を見た人はいない」
三枚目。
「それなのに最近の帝国美術コンクールには、ヴィクトル・ローゼンの作品が出品されている」
そして。
テルは部屋を見回した。
「そのヴィクトルの弟子だったリリア・アステルの家に、ヴィクトル名義の絵が複数ある」
「ほら」
レオが言う。
「どう考えてもあいつが描いてんだろ」
「可能性は高い」
「まだ可能性なのかよ」
「本人に確認するまではね」
レオは頭をかいた。
テルは絵を元の場所へ戻そうとして、手を止めた。
「でも」
「あ?」
「これで、昨日よりずっと聞くべきことははっきりした」
テルはヴィクトルの名前を見る。
「どうして死んだ人間の名前で、新しい絵が描かれているのか」
その時だった。
奥の部屋から、小さな物音がした。
二人の動きが止まる。
テルが顔を上げる。
レオも寝室の方を見る。
「……起きたか?」
二人は顔を見合わせた。
「……起きたんじゃねぇか?」
「行ってみよう」
テルが立ち上がる。
レオもその後に続いた。
二人が寝室を覗くと、リリアがゆっくりと身体を起こそうとしていた。
「……う……」
「リリアさん」
テルがすぐに駆け寄る。
「大丈夫ですか?」
リリアはぼんやりとテルを見る。
まだ状況が理解できていないらしい。
「気分悪くないですか?」
「頭痛とか、吐き気とか」
リリアは何度か瞬きをした。
そして。
テルの後ろに立っていたレオを見る。
目が合う。
リリアの目が少しずつ見開かれていく。
「……あ」
レオは嫌な予感がした。
「いや、待て」
「とりあえず落ち着――」
「きゃああああああっ!」
「うるさっ!」
リリアが勢いよく後ろへ下がる。
そのまま壁際まで逃げると、毛布を胸元まで引き上げた。
「な、なんで……!」
「待て待て!」
「なんでいるんですか!?」
「説明するから!」
「なんで私の家にいるんですか!?」
「だから説明するって!」
リリアは完全に怯えていた。
テルがレオの前へ出る。
「リリアさん、落ち着いてください」
「あなたもなんでいるんですか!?」
テルが止まった。
レオが横を見る。
「お前も駄目じゃねぇか」
「君よりはマシだと思う」
「大差ねぇよ」
「あります」
リリアが即答した。
「あるらしいよ」
「…………」
レオは黙った。
テルは改めてリリアへ向き直る。
「勝手に家へ入ってしまったことは謝ります」
「すみません」
「ただ、大きな音がして、呼びかけても返事がなかったので……」
リリアはテルを見る。
それからレオを見る。
「……大きな音?」
レオは視線を逸らした。
リリアが眉をひそめる。
「私……」
自分の頭へ手を当てる。
「仕事をしていて……」
少しずつ記憶を辿るように呟く。
「それで……上から音がして……」
「天井が……」
リリアの動きが止まった。
ゆっくりとレオを見る。
「あなた……」
「……はい」
「落ちてきた人……」
「……はい」
レオは小さく頷いた。
「申し訳ありませんでした!!!!」
家の中に声が響き渡る。
レオは深く頭を下げる。
「勝手に入ったのも俺です」
「天井ぶっ壊したのも俺です」
「あんたの上に落ちたのも俺です」
「全部俺が悪い」
リリアは呆然とレオを見ている。
「……なんで?」
「あ?」
「なんで屋根裏にいたんですか?」
「…………」
レオが黙る。
テルが横からレオを見る。
「ちゃんと言いなよ」
「分かってるよ」
レオは頭をかいた。
「昨日、あんたに追い返されただろ」
リリアの表情が少し強張る。
「それでもヴィクトルについて何か知ってそうだったから……」
「家を覗けば、なんか分かるかと思って」
「それで勝手に屋根に登ったの?」
「…………」
「本当に申し訳ありません!!!!」
もう一度、頭を下げる。
リリアは何も言わなかった。
しばらく重い沈黙が続く。
やがてリリアが小さく尋ねた。
「……私、どれくらい寝てたんですか?」
「そんなに長くはないです」
テルが答える。
「気を失っていたので、ここまで運びました」
「一応、呼吸と怪我も確認しました」
リリアは自分が寝かされている寝台を見る。
「……そうですか」
「気分は?」
「少し……頭が痛いです」
レオの肩がびくりと動いた。
「やっぱ医者呼んだ方がいいんじゃねぇか?」
「……大丈夫です」
「でも頭打ってんだろ?」
「大丈夫ですから」
「いや、でも――」
「レオ」
テルに止められる。
「本人が大丈夫って言ってるんだから、今は様子を見よう」
「……おう」
リリアはそんな二人を交互に見た。
昨日とは違う。
昨日はヴィクトルについて次々と質問してきた二人。
今日は勝手に家へ入り込んでいる。
普通なら、すぐにでも逃げ出すべきはず。
なのに。
自分が目を覚ますまで、二人はここにいた。
リリアは毛布を握っていた手を、少しだけ緩めた。
「……部屋」
「え?」
「私の……作業場は?」
レオの身体が固まった。
「…………」
テルも黙る。
リリアが二人を見る。
「どうしたんですか?」
「いや……」
レオが頬をかく。
「その……」
「…………?」
「見た方が早いかも」
テルが言った。
「え?」
二人に連れられ、リリアは寝室を出た。
そして作業場へ入る。
「…………」
足が止まった。
倒れていた家具は元に戻されている。
散らばっていた画材も、ある程度は片付けられている。
だが。
床には拭ききれなかった絵具の跡。
乱れた紙。
そして。
天井。
大穴。
リリアは見上げたまま動かない。
レオはその横で気まずそうに立っている。
「……あの」
「…………」
「本当にごめんなさい…」
リリアは何も言わない。
ずっと天井を見ている。
「直すから」
レオが言った。
リリアがゆっくり顔を向ける。
「……え?」
「天井」
レオは穴を指差した。
「俺が壊したんだから、俺が直す」
「…………」
「こういうのは仕事でやったことあるし」
リリアは少し驚いたようにレオを見る。
「……直せるんですか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「いや、直せる」
「今言い直したね」
「うるせぇな」
テルが小さく笑った。
リリアはそんな二人を見る。
そして、部屋を見回した。
「……片付けたんですか?」
「一応ね」
テルが答える。
「勝手に触ってしまってすみません」
「でも、このままだと危なかったので」
「…………」
リリアは床を見る。
絵具。
筆。
紙。
元の場所とは違うものも多い。
綺麗に片付いたとは、とても言えない。
それでも二人ができるだけ片付けようとしたことだけは分かった。
「……わかりました」
あきらめのような小さな声だった。
「え?」
レオが聞き返す。
「なんでもないです」
リリアはすぐに顔を背けた。
「いや、今何かボソって――」
「言ってません」
「言っただろ」
「言ってません」
「言ったよね?」
テルまで加わる。
「テル、どっちの味方だよ」
「面白い方」
「クロイツみてぇなこと言うな」
リリアが二人を見ている。
ほんの少しだけ。
昨日までとは違う空気が流れていた。
その時。
リリアの視線が床へ向いた。
表情が変わる。
床に置かれていた数枚の絵。
片付ける途中でテルがまとめていたものだった。
その端に書かれている名前。
――ヴィクトル・ローゼン。
リリアの身体が固まった。
「それ……」
テルが視線を向ける。
「さっき片付けている時に見つけました」
「…………」
リリアは何も答えない。
さっきまで少しだけ和らいでいた表情が、再び強張っていく。
テルはそれを見て、すぐに質問しなかった。
数秒待つ。
そして静かに口を開いた。
「リリアさん」
「昨日、俺たちが来た理由をちゃんと話してもいいですか?」
リリアはヴィクトルの名前が書かれた絵を見つめていた。
しばらくして。
「……はい」
小さく頷いた。
テルは床に置かれていた絵を一枚手に取った。
「昨日、俺たちがヴィクトル・ローゼンについて聞いた時、あなたは何も知らないと言いました」
リリアは黙っている。
「でも、俺たちはその前から少し妙だと思ってたんです」
「……妙?」
「ヴィクトル・ローゼンは、一年前に監視局へ連れていかれている」
テルはゆっくり話す。
「住民台帳には、その後銃殺刑になったと記録されていました」
リリアの表情がわずかに強張った。
「近所の人たちにも話を聞きました。一年前に監視局へ連れていかれてから、ヴィクトルを見た人はいない」
「それなのに――」
テルは持っていた絵へ視線を落とした。
「最近行われた帝国美術コンクールに、ヴィクトル・ローゼンの名前があった」
「そして、この家にはヴィクトルの名前が書かれた絵が何枚もある」
「それに、絵具の状態からして描かれたのも最近ですよね」
リリアの手が僅かに震える。
「…………」
「俺たちは、あなたをどうこうしたいわけじゃありません」
テルは言った。
「ただ、何があったのか知りたいんです」
「…………」
「この絵を描いたのはリリアさんですか?」
静かな部屋に、テルの声だけが響いた。
リリアは俯いている。
答えない。
レオも今度は口を挟まなかった。
しばらくして。
「……はい」
小さな声だった。
レオが目を見開く。
テルは表情を変えない。
「やっぱり……」
レオが呟いた。
リリアは俯いたまま続ける。
「……私が描きました」
テルが手にしている絵を見る。
「これも?」
「……はい」
「コンクールに出品された作品も?」
「……そうです」
レオが頭をかく。
「じゃあ、本当にあんたがヴィクトルを名乗ってたのか」
「…………」
「なんでだ?」
「レオ」
「だって一番気になるだろ」
テルは少し呆れたようにレオを見る。
だが、リリアは怒らなかった。
ヴィクトルの名前が書かれた絵へ視線を落とす。
「……最初は」
リリアが口を開いた。
「私がやりたくて始めたわけじゃないんです」
「え?」
レオが眉をひそめる。
「師匠が監視局に連れていかれた後……私も呼び出されました」
「監視局に?」
「はい」
リリアは小さく頷いた。
「師匠について、いろいろ聞かれました」
「何を描いていたのか」
「どこへ行っていたのか」
「誰と会っていたのか」
「何を知っているのか」
「…………」
「でも、私は本当に何も知らなかったんです」
リリアは膝の上で両手を握った。
「師匠が捕まった理由も、その時初めて知りました」
レオとテルは黙って聞いている。
「師匠は……帝国から許可されていない題材の絵を描いていたそうです」
「それを、秘密のオークションで売っていたって」
レオの眉が動く。
「闇オークション?」
「……そう聞きました」
「それで銃殺刑に?」
テルが尋ねる。
リリアは頷いた。
「監視局の人から、そう言われました」
その声には、ほとんど感情がなかった。
それが逆に、レオには引っかかった。
「……それだけか?」
「え?」
「師匠が死んだって聞かされて、それだけだったのかよ」
「レオ」
テルが止めようとする。
だがリリアは首を横に振った。
「……分からなかったんです」
「何が?」
「どうして師匠が、そんなことをしたのか」
リリアは俯く。
「師匠は国家公認画家でした」
「普通に絵を描いていれば、それで生活できた」
「帝国から仕事だってもらえていました」
「なのに……」
握っていた手に力が入る。
「どうして、わざわざ禁止されている絵なんて描いたのか」
「どうして、売ったのか」
「捕まったらどうなるかなんて、師匠なら分かっていたはずなのに」
「…………」
「私には、分からなかったんです」
部屋が静かになる。
テルは少し待ってから尋ねた。
「それで、どうしてあなたがヴィクトルの名前を?」
リリアはしばらく黙っていた。
「師匠には……やり残した仕事があったんです」
「仕事?」
「帝国から依頼されていた絵です」
リリアは壁際に立てかけられているキャンバスを見る。
「ヴィクトル・ローゼンが処刑されたことは公表されませんでした」
テルの目つきが変わる。
「公表されなかった?」
「はい」
「どうして?」
「……知りません」
リリアは首を横に振った。
「私には何も教えてくれませんでした」
「ただ、ヴィクトル・ローゼンは表向きには今まで通り活動していることになっていました」
レオが顔をしかめる。
「死んでんのに?」
「……はい」
「無茶苦茶だな」
テルは何も言わず、続きを待つ。
「それで……私に描くように言われました」
「師匠の代わりに?」
「はい」
「ヴィクトル・ローゼンの名前で?」
「……はい」
リリアは小さく頷いた。
「私、師匠の絵をずっと真似していたから」
「師匠の描き方なら……ほとんど同じように描けたんです」
「だから、師匠に残っていた仕事を私が引き継ぎました」
レオはヴィクトルの名前が書かれた絵を見る。
「じゃあ、これ全部帝国に描かされてんのか?」
「…………」
リリアが黙った。
その反応を見て、テルが何かに気付く。
「全部ではない?」
リリアの指が僅かに動いた。
「リリアさん?」
「……コンクールは」
消え入りそうな声だった。
「コンクール?」
レオが聞き返す。
「この前の帝国美術コンクールに出した絵は……違います」
「何が?」
「あれは、誰かに言われて描いたものじゃありません」
テルがリリアを見る。
「自分で出品したんですか?」
「……はい」
「ヴィクトル・ローゼンの名前で?」
「はい」
レオが眉をひそめる。
「なんで?」
リリアはすぐには答えなかった。
壁際に置かれている絵へ目を向ける。
「……忘れられてほしくなかったから」
「え?」
「師匠のこと」
リリアは静かに言った。
「師匠が死んだことは、誰も知らない」
「今もヴィクトル・ローゼンという画家がいると思ってる人がいる」
「だったら……」
「私が描き続ければ、師匠は消えないんじゃないかって」
レオは何も言わなかった。
「それに……」
リリアの声がさらに小さくなる。
「私には、それしか描けないから」
「それしか?」
「師匠の絵です」
リリアは自分の手を見る。
「ヴィクトル・ローゼンの絵なら描けます」
「筆の使い方も」
「色の作り方も」
「構図も」
「ずっと隣で見てきたから」
「でも――」
言葉が止まる。
しばらくして。
「自分の描きたいものが、分からないんです」
レオが首をかしげた。
「自分の描きたいもの?」
「……はい」
「自分の絵を描こうとすると、何を描けばいいのか分からない」
「描き始めても、気付けば師匠と同じ絵になってる」
「だから……」
リリアはヴィクトルの名前を見る。
「ヴィクトル・ローゼンの名前で描いている方が、楽なんです」
レオはしばらくリリアを見ていた。
そして何気なく尋ねた。
「じゃあ、あんたは何で絵を描いてるんだ?」
「…………」
リリアの動きが止まった。
「自分の描きたいものが分かんねぇって言うけどさ」
「だったら何で画家なんて続けてんだ?」
「レオ」
テルが横から小さく止める。
「いや、だって画家なんだろ?」
「描きたいもんがあるから絵描いてんじゃねぇの?」
「…………」
リリアは答えなかった。
答えられなかった。
何が描きたいのか。
そんなことを、考えたことがなかった。
師匠に教えられた通りに描いた。
師匠の絵を真似した。
上手く描けるようになった。
国家公認画家にもなった。
そして今も。
ヴィクトル・ローゼンの絵を描いている。
「……分かりません」
ようやく出てきた答えは、それだけだった。
レオは少し意外そうな顔をした。
リリアは俯く。
「だから……余計に分からないんです」
「何が?」
「師匠のことが」
リリアは静かに言った。
「私は、何を描きたいのかすら分からない」
「なのに師匠は……」
視線が、ヴィクトルの名前へ向く。
「死ぬかもしれないのに、それでも描いた」
「そこまでして、何を描きたかったんだろうって」
誰も答えなかった。
テルにも。
レオにも。
そしてリリア自身にも。
まだ、その答えは分からなかった。




