山崎君家【ち】
山崎君家【ち】
学校の帰りはウラバンとゆうちゃんが一緒だった。まだ車の少ないのどかな時代で、今のような集団登下校はまだ実施されていなかった。おれは学年が違う近所の連中と登校し、方向が同じ二人と下校する毎日だった。
校門を出てしばらくするとアーケードのある商店街に入った。5,600mくらいのアーケード街を抜け、国鉄の踏切を渡ってすぐに右に入る行き止まりの路地がある。いちばん奥にある小さい借家がおれの家だ。路地から500mくらい行くと、二人が住む鉄筋コンクリートの四階建て団地があった。
おれの家から学校まで二十分くらいだったが、途中石けりをしたり水たまりで遊んだり、公園や原っぱに寄り道したりして帰っていたため、やたらと時間がかかった。
おれの家と二人の団地のちょうど中間あたりに、以前外国人牧師一家が住んでいたという家があった。広い敷地はブロック塀で囲われており、道路に面したおしゃれな装飾の鉄製の門扉がエキゾチックな雰囲気をかもし出していた。おれが物心つくころには空き家になっていたから、おれは外国人牧師一家を知らなかった。
おれたちはときどき塀や門を乗りこえて侵入し、草が生え荒れはてた庭で遊んだ。
たくさんの木が植えられていた。いちばん背が高いのが花梨の木で、春には可憐な花を咲かせた。夏には百日紅があざやかな紅色で人の目を引きよせ、秋には金木犀が柔らかい芳香を放ち、小さな楓が紅葉を楽しませてくれた。花梨の木にはいい匂いのする黄色い実がたくさんなった。冬に赤い実をつける木があったが、おれたちは名前を知らなかった。そこで虫とりや木登りや鬼ごっこや隠れん坊をして遊んだ。
木々の奥には二階建ての家があった。庭の広さに比べれば小さな家だった。完全に洋館とまではいえない和洋折衷で、赤いスレート屋根が黒い屋根瓦の純和風の家ばかりの中で異彩を放っていた。ペンキが塗られた厚い木の横板塀が堅牢な印象を与えていた。
おれたちはなんとかして家の中を探検したかったが、玄関ドア、窓、裏口がガチガチに閉められていて、さすがにそれを壊してまで侵入する勇気はなかった。
おれの家といえば築何年かわからないオンボロ和風建築で、一階が狭い台所と六畳和室、二階が八畳和室二間だった。そこにばあちゃん、父ちゃん母ちゃん、兄ちゃん妹とおれの六人が住んでいた。
くみとり式便所は強烈に臭い、階段は昇り降りのたびにミシミシときしんだ。兄ちゃんは豪快な上り下りをして、今にも踏み板が折れそうだった。それでしょっちゅうしかられていた。ふろはなく、一日おきに100mほど離れた銭湯に通っていた。
ウラバンとゆうちゃんの団地は水洗便所とふろがあったが、とにかく狭かった。ダイニングキッチンというものがあったが、名ばかりで、とてもそこで食事はできなかった。
和室ばかり四畳半が一間、六畳は二間あったが、おれの家の六畳間と比べてずいぶん狭かった。母ちゃんが団地サイズは一般の家に比べて狭いと言っていた。
そこにウラバンは祖母と両親、姉、ゆうちゃんは両親と二人の兄の五人で暮らしていた。
空き家の前を通るたびに、「こんなとこ、だれが住むんじゃろ」「こんな広い家【うち】に住んでみたいのう」などと話していた。
山崎君が転校してきた初日、帰ろうとするおれたちに担任の前田が一緒に帰るよう指示した。三人が尋ねた。
「山崎君家【ち】、どこな?」
山崎君は答えた。
「S駅のすぐ西側にある踏切を越えて、南に進むと武部歯科があるでしょ。それをもう少し行ったところにある通り沿いの家」
ふーん、と言いながらおれたちはどこの家か思いをはせた。続いて山崎君が言った。
「ほら、ちょっと大きな花梨の木がある家」
それを聞いたおれたちは、「えっえー!」「あの家なー!」「ほんま【ほんとう】にー!」
ちょうど桃色の花が咲いていた。
翌週山崎君家に招待された。山崎君は言った。
「ママがもう連れてきてもええって。引っ越しの片付けがやっと終わったんや」
一週間たったこと、土日に塩田野球をしたこともあって、山崎君はそのころは関西弁でしゃべるようになっていた。
“ママ”!
テレビ以外でこの言葉を耳にするのは初めてだった。男女を問わず周りで使っているやつはいなかったと思う。もし男子で口にするやつがいれば、おれたちは激しくいじめたはずだ。山崎君だから素直に聞けた。
行ったのはおれとウラバンとゆうちゃんとハッチの四人。ハッチは通学仲間ではなかったが、山崎君とすぐに意気投合していた。勉強ができスポーツも得意で、さわやかで女子からもモテる似た者同士。おれの場合は自分に似たやつとはたいがい反発しあったが、まじめ優等生のクラス委員タイプはそうではないことを知った。
山崎君家に行く前夜、おれの家ではちょっとした騒動があった。
上着は一張羅の開襟シャツを着て、下は学生半ズボンということはすんなり決まった。ばあちゃんと母ちゃんが、「なんか買【こ】おていったほうがええやろか」「手ぶらやったら、ふが悪いやろ【みっともない、体裁が悪い】」などと相談しはじめた。
ふだん友だちの家に行くのに服装を気にすることなんてなかったし、ましてやお土産を持参するなんて考えられなかった。ばあちゃんと母ちゃんは山崎君のお父さんが大手メーカーの幹部で、たいそうな年収であることをうわさで聞いていたようだ。上流階級の家におじゃまするのに手ぶらではまずいと思ったのだろう。おれも子ども心に、あの家に行くのならきちんとした服装でなくてはいけないような気はしていた。下着のシャツとはだしではまずいと思った。
二人の話は迷走した。
「『かまど屋』、今の時間開いとるやろか」
「『かまど屋』でえんやろか【いいのだろうか】」
『かまど屋』は近所の和菓子屋だ。値段も手ごろでよく利用していた。
「『ラ・メール』のほうがえんちゃう【いいんじゃないの】?」
「明日、私が行って買おとこか?」
「『ラ・メール』でなに買うん? あそこ、なに売っとんやろか」
横でテレビを見ていた兄ちゃんが突然ほえた。
「ええわ、そんなん持っていかんで! 貧乏人がなにかっこつけとんや!」
その剣幕に押されたのか、ばあちゃんと母ちゃんの迷走は終わった。
おれもそう言いたかった。ハッチはともかくウラバンとゆうちゃんがそんな物を持ってくるとは思えなかった。一人だけ持っていったら、二人を抜けがけするようでいやだった。それに、山崎君の家族が気をつかってしまう。子どもは子どもなりにそれぞれの家庭の事情を理解していて、それなりの付き合い方をしていた。
部屋に戻ったら、おれは兄ちゃんに頭突きと4の字固めをされた。
「うるそて【うるさくて】テレビが全然聞こえんかったやないか! ええとこやったのに!」
うるさかったのはばあちゃんと母ちゃんで、おれではなかったのに。
ウラバンも上着はよそ行きのTシャツを着ていた。おれはそんなウラバンの姿を見るのは久しぶりだった。ゆうちゃんはふだんは素足にズックなのだが、靴下をはいていた。これも久しぶりに見た。ハッチは遊ぶときは私服だったからいつものとおり。お土産なんかだれも持ってきていなかった。
おれたちは鉄製の門扉でインターホンを鳴らした。インターホンなんて初めてだったから、おれは少し緊張してしまった。すぐにこざっぱりとした私服に身を包んだ山崎君が玄関から出てきて、扉を開けて家に案内してくれた。
中に入っておれたちは驚いた。玄関から一直線に廊下が延びていた。そんな家に入るのも初めてだったし、廊下のフローリングがツヤツヤ光っていることにも驚いた。
右手にある靴箱の上にはかわいい置物がたくさんあった。それらに囲まれて、山崎君一家の写真が飾られていた。小さなピエロが飛びかう枠の写真立ての中で、お父さんとお母さんと、お姉さんらしき女性と山崎君が観覧車やジェットコースターを背景にして笑っていた。当時四国には遊園地などなく、ジェットコースターはおろか観覧車もおれたちは乗ったことがなかった。山崎君はお母さんにそっくりで、お姉さんは背が高く美しかった。
廊下や置物や写真もさることながら、匂いにも驚いた。ウラバンの家に行くとしょうゆかみその臭いがして、ゆうちゃんの家はわらのような臭いがした。ハッチの家は給食のコッペパンのような匂いだった。おれ自身は気づかないしだれも口にしなかったが、おれの家はきっと便所の臭いがしていたのだろうと思う。それが玄関に入るや、おれたちはえも言われぬ甘いいい匂いに包まれた。おれは思わず深呼吸を繰りかえしてしまった。
中学二年で“匂い”と“臭い”の二種類の漢字を知ったとき、このときのことを思いだした。
すぐにお母さんが出てきた。やっぱり山崎君はお母さん似だった。
「あらあら、こんにちはー。よく来てくれたわねー、いらっしゃいー。耕司がいつもお世話になってるわねー」
おれたちはまたまた驚いた。髪型も顔も着ている服もスタイルも、声も話し方も言葉づかいも、歩く姿も仕草も、自分たちの母ちゃんと全然違う。同じ小学生を持つ母親とは思えなかった。お母さんが近づいてくると、家の匂いとは違ったいい香りがした。少し甘酸っぱい感じのさわやかな匂い。このときもおれは深呼吸した。
あとで、おれの母ちゃんよりも五歳年上と知ってさらに驚いた。そのときゆうちゃんと目が合った。ゆうちゃんも同じことを思っていたようだ。ウラバンとハッチのお母さんはずいぶん年をとっていた。
二階に上がり、山崎君の部屋に入った。おれのクラスの男子で自分の部屋を持っているやつなんていなかった。
こんな広い部屋を一人で使っているなんて、とおれは思った。おれは八畳間で凶暴な兄ちゃんと一緒だったし、ウラバンは狭い六畳間に中学生の姉ちゃんと、ゆうちゃんは高校生と中学生の兄ちゃん二人と、ハッチも幼い妹と住んでいた。
それだけでもうらやましかったが、勉強机もいすもおれたちの安物で傷だらけの物とは違う豪華なものだった。机はスチール製で、引き出しはどういう構造か知らないが気持ちよく開いた。いすはホワホワでリクライニング式だった。
壁際には木製の頑丈そうな本棚があり、上から下まで大小さまざまな形の本がぎっしりつめられていた。最下段には大きな百科事典が鎮座し、中段には江戸川乱歩シリーズがそろえられていた。当時『少年探偵団』シリーズや『怪人二十面相』シリーズが大人気で、おれたちは図書室で順番待ちをして借りて読んでいた。
南と東にある窓には赤とグレーのチェックのカーテンがかけられており、東の壁に沿ってベッドが置かれていた。また、ドア横の北の壁には大きなステレオがあった。ベッドなんて持っているやつは一人もいなかったし、ステレオも学校以外で見たことがなかった。
おれたちはおとぎの国に迷いこんだようだった。部屋の中のなにもかもが、その存在は知っていても目のあたりにするのは初めてだった。ほしいけれど、手に入らないものばかりだった。
「な、な、な、山崎君、これ読んでもええん【いいの】?」とウラバンは言って、ぶ厚い百科事典を手に取った。いかにも重そうだった。
ページを開くと、ツルツルの上質紙には写真やカラフルなイラストがふんだんにのっていた。新しい本のいい香りがおれの鼻孔にまで届いた。
「ええなあ。これ、なかなか借りれんのやー」とおれが『少年探偵団』を手にしたとき、「貸したげるよ。家に持って帰って読んだらええやん」
その日からおれとハッチは順番に借りて帰り、全巻を読破した。ウラバンとゆうちゃんは読書はしなかった。
ゆうちゃんが言った。
「な、な、これステレオやろ? どやって聞くん? ええんやったら【よければ】聞かせていた【聞かせてください】」
山崎君はステレオの中央下部のラックからアルバムを取りだし、大きな黒いレコードをていねいに出してプレーヤーにのせた。
両脇の大きなスピーカーから軽やかなリズムのギターの音が聞こえてきた。アルバムを貸してもらって見ると、『サイモン&ガーファンクル グレイテスト・ヒッツ』と書かれていた。一曲目は『ミセス・ロビンソン』。おれたちはイントロのあとの澄みきった男性ボーカルデュエットに聞きいった。
二枚目に聞いた『ビートルズ サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』は、おれにとってはやかましいばかりでよくわからなかった。
ともに初めて知るミュージシャンで、これがおれの外国ポップス、ロックの初体験だった。山崎君に大人を感じた。
山崎君のお母さんがオレンジジュースとショートケーキを持ってきてくれた。おれたちは小躍りしたい気持ちを抑えるのにたいへんだった。
商店街に最近オープンした洋菓子屋『ラ・メール』のケーキだった。昨日ばあちゃんと母ちゃんがもめていた店だ。学校の帰り、その甘い香りをかぐために店の前を何度も行き来した。値段が高いため、おれの家では買ったことがなかった。いつか食べたい、そう思っていた。そのケーキが出てきた。おそらくウラバンもゆうちゃんも同じ思いだったはずだ。目線を上げると二人と目が合った、その目はうるんでいて、よだれが出ているようだった。
口に含むと、たちまち甘い香りと味が広がった。おれの舌はとろけ、あげと【あご】がはずれそうだった。頭の中は夢見心地で真っ白になった。みんな「おいしい」の一言も言わず、平静をよそおい落ち着いたふりをして、夢中になって黙々と食べた。ウラバンは今にも泣きだしそうな顔をしていた。
山崎君が「ジュース、お代わりいる?」と尋ねたとき、みんな首を縦に振って、あわてて残りを飲みほした。
山崎君はベッドに座り、フローリングやじゅうたんに座るおれたちにいろんな話をしてくれた。話はすべておもしろく、興味津々だった。みんな質問することも忘れて聞きいった。
お父さんは京都大学工学部を出ており、今はよくイギリスに出張していると言った。お母さんは生まれも育ちも東京で、聞いたことのある名前の女子大学を卒業していた。お姉さんは名門の私立女子高校に通っているので、神戸のおじいちゃんおばあちゃんの家に残っているとのことだった。
通っていた学校のこと、友人のこと、所属していた野球チーム『垂水ドルフィンズ』のこと。神戸の町のこと、ときどき外食や旅行することなどなど。すべてが別世界の話だったが、おれたちがいちばんうらやましかったのは家の食事の話だった。
二階に上がる前に台所の前を通ったのだが、にんにくの効いた肉の匂いがしていたことをおれたちは敏感に感じとっていた。
我が家が肉を食べるなんてめったになかった。たんぱく質は豆腐やクジラ肉やひと山百円とか二百円の小魚が多かった。もっとも今ではクジラ肉は超レアになっているし、メバルやキスやカレイやコチなんて高級魚になっているが、当時は貧乏人の食べ物だった。
たまに食べる肉も豚肉かかしわだった。牛肉なんて年に二回、父ちゃんと母ちゃんにボーナスが出たとき、すき焼きで食べるのがせいぜいだった。
食べるのがめんどうくさいから魚嫌いで肉好きの兄ちゃんは、豚肉があぶら身ばかり、かしわが皮ばかりだと言ってしょっちゅう家出していた。小魚を器用にむしり、おいしそうにパクパク食べるおれにコブラツイストをかけた。
ゆうちゃんが尋ねた。
「山崎君家ゆうたら、肉、ようけ【たくさん】食べるんな?」
「うん。うちはおかずの中でいちばん肉が多いな」
山崎君はおれたちにとって重大な発言を平然と言ってのけた。おれたちは無言だった。
ゆうちゃんがおそるおそる、「……牛肉も食べるん?」
「うん。牛【ぎゅう】がいちばん多いわ」
次いでウラバンが、「どやって食べるん? …牛肉」
「ステーキやな。あとすき焼きも多いわ。野菜と一緒にいためたやつとかもな」
ステーキ! とおれは思った。おれたちは『ビフテキ』とか『テキ』と呼んだ。小さくて薄っぺらなトンテキは食べたことがあったが、ビーフステーキは食べたことがなかった。兄ちゃんはトンテキが小さいとか薄いとか、やはりあぶら身が多いと言っては、おれに逆エビ固めをした。
「…すき焼きとか、どんくらい食べるんな?」と、ウラバンが続けて言った。
この質問を聞いて、ウラバンもテキを食べたことがないのだとおれは思った。
山崎君が答えた。
「どんくらいて、肉? 肉やったら何百グラムかわからんけど、お腹いっぱい食べるで」
ウラバンが、「ちゃうちゃう【違う違う】、ひと月に何回くらい食べるか、ゆう意味」
「けっこう食べるで。毎週とは言わんけど、うーん、三回、四回くらいは食べるかなあ、冬やったら」
月四回ゆうたら毎週やんか!
おれたちの胸のうちのざわつきとうらやみを知ることなく、山崎君の話は続いた。山崎君には野球のときにたいへん驚かされたが、家に行っても驚きの連続だった。
山崎君とその家族との付き合いはその後のおれに大きな影響を与えた。おれも山崎君家みたいな生活をしたい、牛肉を食べたい、ビーフステーキを食べたい。そのことが勉強や高校や大学に進学する大きなモチベーションになった。
休日に遊びにいったとき、山崎君のお父さんはいろんなことを話してくれた。リビングルームでソファに座ってのときもあったし、わざわざ山崎君の部屋に来てくれたこともあった。
お父さんはK県の隣のT県で生まれ育ち、京都大学に進んだ。高校時代や京都に出てからの話、工学部の勉強や技術の話、社会や会社の話、海外出張の話など、いろんなことを話してくれた。話はおれたち子ども相手でもいいかげんではなかったし、質問には真摯にていねいに答えてくれた。
リビングで話しているときはお母さんもときどき会話に参加した。こちらは生まれ育った東京や大学のことを、アナウンサーのような声と歯切れのいい標準語で話してくれた。おれたちはテレビの中でしか知らない世界の話に聞きいった。竜宮城で乙姫様の話を聞く浦島太郎のようだった。
お父さんとお母さんは、おれたちにはいろんな可能性があること、努力すればなんにでもなれるしどんなことだってできること、それと世の中はとても広いこと、楽しいことがいっぱいある、ということを話してくれたと思う。
二人はおれとハッチが優秀であることを知っていて、とりわけ熱心に話をしてくれた。この地域ではナンバー1の進学校であるM高に行くことを強く勧めてくれた。大学のクラスにM高出身の人がいて、同じ四国出身ということもあって仲よしになったと言っていた。お母さんもM高のことは知っていた。
お姉さんは夏休みなどで家にきているときにその姿を見かけた。玄関の写真のとおり、長身できれいな人だった。高い声で話し、コロコロと笑うのが印象的だった。おれたちとは挨拶を交わすくらいで、まとまった話をすることはなかった。
のちに、おれとハッチはアドバイスのとおりM高に進んだ。その後おれは東京にある国立の工業大学に進学し、電気・電子を勉強して大手電気メーカーに就職した。世界を股にかけるエンジニアになり、結婚し三人の娘を持った。そう大きくはないが、東京で家も建てた。
ハッチはハンドボールで関東の国立大学に推薦で入学した。大学でも活躍し、実業団ハンドボールの強豪の愛知にある有名メーカーに就職した。実業団でも活躍したが、残念ながら日本代表には届かなかった。引退後はそのままその会社に勤めつづけ、仕事でも将来を嘱望された。残念ながら、享年四十六歳で亡くなった。
山崎君とその家族との付き合いがなければ、おれの人生は大きく変わっていたと思う。ハッチも同じだと言っていた。
山崎君は中学校に入学するタイミングで神戸に帰っていった。六年生の三学期はほとんど学校に来なくなり、おれたちは寂しい思いをした。有名私立中高一貫校を受験していたとあとになって知った。みごと第一志望に合格したと聞いて、おれたちは山崎君家でささやかなお祝い&お別れパーティーを開催した。
大学時代におれとハッチは山崎君と再会した。山崎君は国立大学医学部に進学していた。ご家族みんな息災と言っていた。
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