Y島海水浴場①
Y島海水浴場 ①
おれたちはなにも持っていなかったが、健康と元気と体力と、遊びたい気持ちだけはあり余っていた。
ほとばしるエネルギーを発散させてくれる道具が野球のボールやグローブやバットであり、ドッジボールやビー玉やメンコや、ブランコやすべり台などの公園の遊具だった。移動手段としての自転車もそうだ。
田舎は公共交通機関が貧弱だった。汽車は予讃線が通っているだけで、S駅では一時間に二、三本ある程度だった。バスも幹線道路こそそこそこの本数があったが、田舎の路線は一時間に一本とか、二、三時間に一本とかで、乗り継ぎも悪く、便利とは言えなかった。
予讃線は電化されておらず、さすがに蒸気機関車は少なくなっていたが、ディーゼル気動車かディーゼル機関車が客車を引っぱっていた。
高校の修学旅行でT市から連絡船に乗って本州に渡り、そこで電車に初めて乗ったのだが、その静かさにおれたちはどよめいた。「わっ、もう動いとる!」「すごい静かやのう!」「ディーゼルとはえらい違いや!」
大学進学で上京したとき、電車のことをおれが“汽車”と言ったらみんなに笑われた。
おれたちはお金がなかった。汽車やバスに乗るお金があるくらいなら、駄菓子や貸マンガや、ビー玉やメンコなどのおもちゃを買いたかった。歩くよりも断然スピードが出て、行動範囲が格段に広がる自転車が親友となるのは必然だった。
海に行くのも山に行くのも、田舎に行くのも町に行くのも、どこに行くのも自転車だった。野を越え山を越え谷を渡り、田畑を突っ切り川を横切った。5kmや10kmは近所感覚で、30kmや50kmのロングツーリングだって平気だった。
自転車の魅力はなんといってもその自在さにあった。強くこげばスピードが出るし、力を抜けば落ちる。ハンドルを右に向ければ右に進み、左に向ければ左に進む。すべてが自分しだいで、自分の思いどおりになる。
当時は今ほど道路が整備されていなかった。土むき出しでところどころ穴ぼこや水たまりのある道だって工事中の道だって、車が通れない町の路地や田んぼのあぜ道だって、自転車ならなんなくすり抜けられた。小さな小川とか段差がある場所とかは自転車をかついで渡り、道なき道を進んでいった。
春はさわやかな薫風を顔に受け、夏は灼熱の太陽に肌を焦がし、秋は落ち葉を舞いあげて、冬は白い息をはき鼻水を垂らしながら走りまわっていた。
自動車はまだ少なかった。ニュースでは東京や大阪などの大都会の『交通戦争』問題がさかんに取りあげられていたが、田舎に住むおれたちにはまだ無縁だった。
親たちも生活に忙しくて、子どもがどこに遊びにいこうと気にしなかった。親が子どもの行動を気にするのは、子どもが悪いことをしてしかるときが多かった。おれの場合はそれがほかの子どもよりも少し多かった。
おれたちは野球小僧で自転車小僧だったが、また海小僧でもあった。小さいころからすぐそこにある瀬戸内海は大切な遊び場だった。S市の沖の海が埋めたてられてY島やI島がつながったことで、おれたちの活動範囲は無限に広がった。
瀬戸内海は季節、天候によって、さまざまな容姿や性格を見せてくれる。それに包まれておれたちは遊んだ。
釣りは年がら年中やった。堤防からアジやサヨリやカワハギをねらったり、磯ではメバルやアイナメを釣ったりした。おれは持っていなかったが、投げ釣り用のさおとリールを持っていたやつは砂浜からキスやカレイやコチを釣った。おもちゃのような釣りざおだから小魚しか釣れなかったが、家に持ち帰り、貧しい家庭のおかずの一品になった。それらの小魚は今ではすっかり高級魚になっている。驚きだ。
冬は岸壁で小さなカニを釣った。近所の魚屋のゴミ箱にあるサンマやイワシなどの頭をただでもらって、タコ糸でしばって岩のあいだに垂らした。カニはそれらのあぶらに寄ってきてはさみで挟む。タコ糸を持ちあげても離さない。つめと足を精いっぱい広げて、宙でバタバタともがいた。
小さいがたくさん釣れた。家に持って帰ってばあちゃんにゆでてもらい、根気よく器用にほじくって食べた。新鮮でぷりぷりの身はとてもおいしくて、おれの大好物だった。
兄ちゃんは食べなかった。「めんどくさっ!」 の一言だった。ごはんのおかずで小魚が出てきたときも、同じ理由で不きげんになった。が、それではおかずがないので仕方なく食べていた。みかんをむくことすら、「めんどくさっ!」みかんはおれがいちばん好きな果物だ。
四年生になったばかりのあるとき、磯釣りをしていて、キューピーが買ったばかりのリールを飛ばしてしまった。さおへのしめつけが緩かったのだろう。リールはきれいな弧を描いて飛んでいって海に沈んだ。トッポンと間抜けな音がして、ガラスのようになめらかな水面に何重もの波紋が広がった。
「どうしょう? 父ちゃんにおんかれる……」と半べそをかくキューピーに、おれたちは言った。「そんなん、とってくればええがい!」
おれたちはすぐに素っ裸になって海に入った。あたり前だが、四月下旬の海はとても冷たかった。キューピーは最後までビビっていたが、最後には仕方なくついてきた。
リールは水深2mくらいのところですぐに見つかった。海底の砂の上にはナマコがたくさんいた。それからおれたちはナマコとりに夢中になった。動かないからおもしろいようにとれた。
家に持って帰ると、ばあちゃんが酢漬けにして夜のおかずになった。父ちゃんや母ちゃんは喜んで食べてくれた。兄ちゃんは、「こんな気色悪いもん食えるかい!」と頭突きをした。そのくせたくさん食べていた。めんどうくさくないからだ。
さすがにその夜せきが出はじめ発熱した。翌朝はせきも熱もひどくなっていたが、学校には行った。当時は少々の熱や風邪くらいでは学校を休ませてくれなかった。登校すると、みんな同じようにゴホゴホやって赤い顔をしていた。休んでいるのは原因を作ったキューピー一人だった。
海といえば、なんといっても海水浴だ。公式の海開きは毎年七月上旬にあったが、おれたちは五月くらいから天気がよくて暖かい日には泳いだ。海に入るときは一瞬冷たいが、入ってしまえばへっちゃらだ。鳥肌を立て唇を紫色にして、歯をガチガチ鳴らしながら夢中になって泳いで遊んだ。
海じまいは九月の終わりころだ。浜に寄ってくる毒くらげに刺され、ときどき体にミミズばれを作った。とても痛くて怖かったが、遊ぶ楽しさのほうがまさった。
S市の海が埋めたてられ、それまで遊んでいた遠浅の海水浴場がなくなったとき、おれたちは途方に暮れた。「わしら、これからどこで泳ぎゃええんやー」
しかし、Y島もI島もどこでも泳げた。もともとは島なのだから当然だ。とくに、Y島の西の砂浜はとてもきれいで、手前に松林や竹やぶがあり、両端に磯や断崖があり、遊びの魅力にあふれていた。
Y島へ行くには、まず塩田のすぐ西側にあるもとの海水浴場のあたりから埋立地に入り北上した。歩道のあるきれいに舗装された片側二車線の産業道路を進む。中央分離帯まであり、なにかの植物が植えられていた。のちに、夾竹桃【きょうちくとう】であることを知った。
そんな広々とした道路を見るのは初めてで、「車も走っじょらんのに【走ってないのに】、なんでこんなりっぱな道造るんや。税金のむだづかいや、ホッコ【アホ】ちゃうかー」などと言っていた。すぐにマイカーがあたり前の車社会になるなんて、貧乏人のおれたちには想像もつかなかった。おれの友人で自家用車を持っているやつはいなかった。山崎君の家庭でさえもだ。
道路の右手には山崎君のお父さんが勤める大手造船メーカーの工場が延々続き、その隣には化学メーカーの工場があった。だれもが知っているそうそうたる企業の工場が林立していた。高い煙突からは巨大な白煙が青空に向かってはき出され、工場からはそれぞれ独特の操業音が聞こえた。
対照的に、左側はまだ企業誘致が進んでいないため延々と空き地が広がっていた。赤茶けた山土の地面にはダンプやブルドーザーの大きくて深いわだちが残っており、ところどころ水たまりになっていた。いたるところに草むらがあり、そこに鳥の巣があるのだろう、小鳥が羽ばたいたり、大きな鳥が猛スピードで疾走したりしていた。
空き地はフェンスや鉄条網などで囲われており、ところどころ『立入禁止』の看板が建てられていた。
塩田から自転車で三十分も走ると島の入り口に着いた。上陸し、未舗装の昔ながらの小道に入った。集落を通り小さな漁港を過ぎ、竹やぶが左右に広がる緩い登り道を抜けると――。
目の前にはアクアマリン色の穏やかな瀬戸内海が広がっていた。沖には大小さまざまな形をした島が浮かんでいて、そのあいだをタンカーや貨物船や漁船などいろんな種類の船が航行していた。浜は白砂青松で、澄みきった波が静かに押しよせていた。
西の浜はすぐにおれたちの海の王国となった。とりわけおれたちが気に入ったのはだれもいないことだった。おれたちをやたらとしかったり注意したりする大人がいなかった。島の人のみぞ知る浜だった。
おれたちは海に入るとき、儀式をおこなうことを定めていた。儀式というよりも芸といったほうがいいかもしれない。
身軽で体操が得意なおれはロンダートからバク転をして、バク宙をして入水した。水しぶきをあげて着地すると同時に、「十点満てーーん!」両手を高々と青空に突きあげて叫んだ。当時の体操競技は十点が最高得点だった。そのまま後ろに倒れて背泳をした。
ハッチも同じことができたが、会得がおれのほうが先で、おれの真似をするのをいやがった。大きな体でフライングボディアタックか走り高跳びのロールオーバーか背面跳びをして、豪快な水しぶきをあげた。
山崎君はバク転もバク宙もできなかったが、少し教えるとすぐにできるようになった。運動がからきしだめなキューピーは波打ち際で不器用な前転をして入水した。
要は、最初の冷たさにビビらないためにいきなり海水につかるのだ。先生や大人たちは準備運動をしっかりと、とか、体を海水の冷たさに徐々にならすように、とか言っていたが、おれたちは寸暇を惜しんで目の前の海に飛びこんだ。我慢できなかった。
のちに高校生になって、デートでガールフレンドをこの浜に泳ぎに連れてきたときこの技を見せた。目を白黒させながらも、手をたたいてたいそう喜んでくれた。
大学に入ってできたガールフレンドと湘南海岸に泳ぎにいったとき、これをやって入水すると顔を真っ赤にしてうつむいていた。しばらくのあいだ他人のふりをされた。
いったん海に入ったら、おれたちは泳いで泳いで泳ぎまくった。ずいぶん沖まで出て遊んだ。それ以上行けば漁場に入り、漁師のおっさん連中にしかられるギリギリまで行った。そこで一時間でも二時間でも泳ぎつづけた。
泳ぎがそう得意でないキューピーなんかは浮き輪で行った。おれたちは疲れると、その浮き輪につかまって休んだ。休むことすらも遊びだった。プカプカと波間を漂いつづける。器用におむすびやパンやお菓子を運んで食べることもあった。
高校一年生の夏、同じクラスの水泳部のやつと勝負した。そいつはメドレー選手を目指していたが、すべての種目でおれが勝った。そいつはその悔しさをバネに猛練習に励み、翌夏はかなり速くなっていた。それでも平泳ぎはおれが勝った。三年の夏でも平泳ぎはやっぱり勝った。
大学生になり湘南海岸に泳ぎにいったとき、おれは太平洋で泳ぐことをとても楽しみにしていた。というのも、小学六年生で高知へ一泊二日の修学旅行にいったとき、桂浜で生まれて初めて瀬戸内海以外の海を見た。
目の前に広がる世界最大の海洋はおれたちには脅威以外の何物でもなかった。まず島が一個もない。海の風景には島があるのが当然だと思っていた。
水平線があった。バスの中でバスガイドが、「スイヘーセンが一直線に見える人と、まあるく見える人がいます。さあて、みなさんはどっちかな?」なんて話していたが、おれたちは漢字の見当がつかなかった。格闘技ファンのどうりは”水兵戦“の字を、ウラバンは海だから”船“の種類だと主張した。”スイヘー“の字はわからないと言った。それでおれたちはますますわからなくなった。真横に無限に延びる水平線を見て、おれたちは海がとてつもなく広く大きいことを再認識した。
また、波が大きくて高く荒々しい。それに比べると、瀬戸内海なんてほんのさざ波だ。大人と子ども、横綱と十両、いや、幕下の違い。
波打ち際に近づいて遊んでいると、すぐにおれたちは頭から豪快な波をかぶった。バスガイドや先生に注意するように言われていたにもかかわらず。おれたちは口々に言いあった。「冷たさとからさは瀬戸内海とおんなじやのう」
真夏の陽光に映える湘南の海でおれは沖に泳いでいった。瀬戸内海でいつもそうしていたように。それと、人ごみでごった返す波打ち際から逃れたい気持ちもあった。
押しよせるうねりの大きな波を乗りこえるのがサーフィンのようで気持ちよかった。ザンブザンブという感じ。サーフィンなんてやったことはないけれど。ただ、すぐにバタフライは向かないことに気づいた。息継ぎがうまくできない。
途中、浜の方が騒がしいことに気づいた。なんじゃろ? と思いながら、おれはかまわずどんどん沖へと進んだ。まさかおれのことで騒いでいるとは露ほどにも思わなかった。
やがて一艘のゴムボートがおれに近づいてきた。なにやら拡声器で叫んでいる。
浜に強制送還されたおれはライフセーバーの方々にこっぴどくしかられた。沖に出たらいけないなんて知らなかった。ならば『遊泳禁止』のように看板を立てておくべきだ、と思ったが言わなかった。
ガールフレンドにはやっぱり他人の振りをされた。
Y島の浜ではもちろん野球もやった。三角ベースボールだ。
ピッチャーが波打ち際からソフトテニスボールを浜のバッターに投げる、バッターは拾った手ごろな枝か素手で打つ。浜を駆けおり、海に飛びこみファーストまで泳いだ。ファーストからセカンドまでは泳ぎだ。ホームへは泳いだあと、浜を駆けあがった。そのあいだにボールをぶつけられたらアウト。
中学から始めたハンドボールは“走って”“跳んで”“投げて”の運動の三要素が合理的取りこまれたたドイツ発祥のスポーツだが、さすがに泳ぎまではなかった。
塩田で野球をしたあとY島に行って海に入ると、火照った体に冷たい海水が気持ちよかった。野球のない日は朝からおむすびとかパンを持参して日がな一日泳いだ。
おれたちはひと夏で何度も皮をむき、真っ黒になった。中でもおれは飛びぬけて黒く、それが誇りだった。
大学時代、ガールフレンドみんなに言われた。
「浩平君ってお尻まで黒いんだー。どうして?」
それはおれにもわからない。
今だって色の黒さでおれにかなうやつはそういない。数少ないおれの自慢だ。
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