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塩田ベースボール

 

       塩田ベースボール

 

 おれが生まれ育ったS市は風光明媚な瀬戸内海国立公園の四国側沿岸にあった。日本でも有数の日照量の多さと降水量の少なさを誇っていて、冬も温暖な瀬戸内式気候を利用して製塩業が発達した。社会の教科書にも塩田の町として記載されていたし、おれの通う小学校の校歌は、「♪にぃーっぽんいちのー、せーいーえんちー【製塩地】♪」で始まる。

 小学校の北側を国道が走っており、そこから海までのあいだ流下式塩田地帯が延々広がっていた。その向こう側に漁港と貿易港を兼ねた小さなS港があった。

 塩田地帯は東西7、800m、南北3、400mくらいの広さだった。小さく黒い玉砂利が一面に敷きつめられており、その上に竹の枝で組み立てられた黒く巨大な直方体の枝条架【しじょうか】装置が整然と並んでいた。多くのクジラが横たわっているような光景は壮観で、子ども心にも誇らしかった。

 海水をポンプでくんで枝条架装置の最上部まで上げて流す。瀬戸内海の強烈な日差しと乾燥した風が落下する海水の水分を飛ばす。それを何度も繰りかえして、塩分の濃いかん水を作った。落下する海水が霧となり、巨大な塩田はいつも煙っていた。おれの原風景だ。

 昭和四十年代のある日、そんなS市を揺るがすニュースが流れた。

 これからは化学的手法で塩を作ることになった。イオン交換膜法というやつだ。それで流下式塩田は廃止されることになった。S市のみならず、近隣の市や町の一大産業がなくなってしまうことになる。

 こんな重大事はずいぶん前から決まっていたのだろうが、のんきなおれたちがそのことを知ったのは廃止の前年の暮れ、小学四年生の冬休み直前のことだった。考えてみれば、昨年の夏ごろから稼働しなくなった流下式塩田が増えていることに、子ども心にも違和感はあった。

 おれたちがそのことを聞いたときに思ったことは、S市や近隣市町の行く末でもなければ、自分たちの生活への影響でもなかった。だれかがボソリと言った。

「野球、できるんちゃう?」

 おれたちのみならず、当時の男子の圧倒的人気のスポーツは野球だった。ボール遊びといえばドッジボールやピンポン、インサイなどもやっていたが、当時は『巨人、大鵬、卵焼き』の時代、だれしもが野球に夢中になった。サッカーなんて超マイナースポーツで、まだポートボールのほうが人気だった。

 当時、おれたちは野球をする場所の確保に苦労していた。高度経済成長で、市のいたるところで新しい道路が造られ、古い道路は拡張され舗装されていた。次から次へとビルや家屋やアパートが建設されていた。

 今では死語になっている“原っぱ”などの空き地はところどころにあったが、土管や建築資材が置かれていたり、整地前で草ぼうぼうのデコボコだったりで、野球をするには無理があった。そんな空地もすぐになにかの建物が建てられた。

 今のように公園でのボール遊びは禁止されていなかったが、いかんせん狭いことと、ほかに遊ぶ子どもがおおぜいいるため、軟球を使用した野球はできなかった。ソフトテニスボールを手で打つハンドベースボール、ドッジボールをけるフットベースボールがせいぜいで、いずれも三角ベースボールだった。それでも他学校、他学年、他クラスとの陣地取り争いはし烈だった。

 塩田はほんの緩やかな傾斜はあるもののほぼ平らで、小さな玉砂利が敷きつめられていて水はけもよく、だれもいない広大な土地で、野球をするには打ってつけの場所だった。欠点はつねに海水で湿っていることくらいだったが、いつも汗だくで遊んでいるおれたちは全然気にならなかった。

 塩田地帯には壁や塀や柵なんてなく、道路から自由に出入りできた。ただ、今までは大人の大切な仕事の場所との意識があったため入らなかっただけだ。それが自由に使える。ようになるかもしれない。

 ロミが気弱な声で言った。

「……塩田入っとったら、おんかれるんちゃう【怒られるのではないか】…?」

 塩田の港に近い北東の一画に小さな管理事務所があり、そこに何人かの職員が勤めていた。確かに、塩田の土地に入りこんで遊んでいれば、なにか注意される可能性はあった。

 ロミはチームでハッチに次ぐ長身で足もそこそこ速かったが、野球はそうまくはなかった。やさしい性格もあって、レギュラーにはなれなかった。せいぜい送りバント要員か代走要員、守備ではあまりボールが飛んでこないセカンドかライトを守った。それでも野球が大好きで、練習、試合とも皆勤だった。

 ロミの発言に武闘派のおれは言った。

「そんなん、おんかれたらやめりゃええがい!」

 このロミとおれの発言はみんなしっかりと認識しているのだが、最初の「野球、できるんちゃう?」をだれが言ったのかは定かではない。遠慮か牽制か知らないが、だれも名乗りでない。結局、天から降ってきた声ということで結論付けた。

 リーダーのハッチが言った。

「よっしゃ、一組と二組にゆうてくるわ」

 

 冬休みに入ると、おれたちS市立中央小学校四年生の塩田グラウンド造りが始まった。

 えいしゅ【じゃんけん】で勝った一組が南西隅っこ、二組が北西隅っこ、負けたおれたちは南東隅っこが陣地となった。管理事務所からは一組と二組は遠く離れていて巨大な流下式塩田で見えないが、おれたちのグラウンドは丸見えだった。

 温暖な瀬戸内式気候とはいえ、もちろん冬は寒い。すぐ北にある海から冷たい風が吹きつけた。さえぎる物がないから吹きさらしだ。そんな中、みんな自転車で駆けつけ、鼻水を垂らしながらせっせとグラウンド造りに励んだ。

 ワジデンの大工の父ちゃんが余った木切れで作った粗末なトンボで地面をならし、学校の体育倉庫からこっそり拝借してきた巻き尺で各種寸法を測った。ごていねいに、隅っこの玉砂利や土を集めてマウンドまで作った。

 おれたち三組のグラウンドには致命的な欠陥があった。レフト後方に、幅1m弱の水路が一直線に走っていた。レフト定位置から5、6mくらい後ろだ。

 レフトの守備をだれにするかは大きな課題だった。それで、俊足機敏で無鉄砲なおれが抜てきされたわけだ。左利きであったにもかかわらず。

 ほかのグラウンドもそれぞれ問題を抱えていた。

 一組の三塁ファールゾーンには飛びこえられない幅広の水路が通っていて、ファールのたびに竹ざおを使って浮かぶボールを拾った。そこに二球入ればアウトという特別ルールもできた。二組はホームベースのすぐ後ろに大きな潮だまりがあり、暴投や後逸に備えてみんなの自転車をそこに配置した。それでもボールは隙間をかいくぐり、よく潮だまりに飛びこんだ。その都度長い竹ざおでボールを拾った。

 のちに日曜日ごとにオープン戦が始まり、四月からペナントレースが始まるのだが、各グラウンドで時間帯によっては守備か攻撃で日差しがじゃまになることもわかった。

 まあ各グラウンドなにかしら欠点があり、それに合わせた野球をするしかなかった。各組平等で条件は同じだから、おれたちは気にしなかった。そんなことよりも、本格的な野球ができることでおれたちの胸は希望と期待とワクワクでパンパンにふくれていた。だから、寒さも疲れもグラウンド造りの苦労もちっとも感じなかった。

 おれは夢をよく見るタイプだ。一晩で三、四本の夢を見るときもある。ちょっとした映画館みたいなものだ。それは今も変わらない。もっとも、目覚めてすぐに忘れてしまうのだが。妻は言う。「そんなん見たうちに入らへん」

 と同時に、子どものころは寝言もよく言ったらしいし、寝ぼけた行動もあったらしい。さすがに今はなくなっている。

 グラウンドで野球ができることがよほどうれしかったのだろう。野球の寝言、寝ぼけが多くなったようだ。そんなとき、ふとんを並べて寝ている兄ちゃんにたびたび頭突きを食らわされた。それで目が覚めることもあったが、朝、ひたいのたんこぶで気づくこともあった。

 球場の場所に続き、球団名を決めるえいしゅでもハッチは負けた。

 ハッチは能力や努力や集中力は抜群だったが、運に左右される勝負ごとには極端に弱かった。おれと二人で賭けごとは無数にやったが、かなりの確率でおれが勝った。えいしゅにいたっては、おれが負けることはめったになかった。

 中学高校でハッチはハンドボール部の主将になったが、くじ運では史上最悪の主将だった。初戦で絶対にあたりたくない優勝候補とか、二校しかない一回戦を必ず引きあてた。いや、あたりじゃない、はずれを引いた。中高ともに途中から、おれとかマネージャーとかが抽選にのぞむようになった。

 当時プロ野球の圧倒的人気球団は読売ジャイアンツだった。長嶋、王のスーパースターがいてペナントレースを連覇していて強かったし、そもそも田舎のテレビの野球中継は巨人戦しかなかった。野球少年の八割くらいが巨人ファンだったと思う。それこそ『巨人、大鵬、卵焼き』の世界だ。おれもそうだった。次いで一割くらいが阪神で、残る一割を残る十球団が分けあっていたような感じだった。

 えいしゅで勝った一組が読売巨人軍ジャイアンツを選び、二組が阪神タイガースを選んだ。球場名はもちろん後楽園と甲子園だ。

 三組は球団名、球場名ともになかなか決められなかった。じいちゃんの影響を受けていた黒べえが西鉄ライオンズ、平和台球場をさかんに主張したが、おれたちは素直に首を縦に振れなかった。当時の西鉄は弱かった。西鉄の黄金期はおれたちが生まれる前のことで、だれも知らなかった。

 セ・リーグのチームを中心にみんなが口々に候補をあげたが、名前を決められないまま二月のキャンプに入り、その後オープン戦になった。

 プロ野球のオープン戦がT市に来たのはそんなときだった。

 おれの父ちゃんは公務員だった。下っぱだったが、それでも盆暮れの届け物とかクリスマスケーキとかの役得が少しあって、おれたち兄妹は楽しみにしていた。たまに映画のチケットも手に入れてくれ、おれは東映マンガ祭りとか怪獣映画を見にいった。

 二月下旬のある日、オープン戦のチケットを持って帰ってきた。中日対阪神戦。六枚あったが、父ちゃんはその日用事があり、ばあちゃんと母ちゃんと洋子は野球に興味がなかった。兄ちゃんは中学生で反抗期真っ盛り、親の言うことにはすべて真逆の反応をしていた。父ちゃんの「見にいくか?」に対し、「行かへんわ、そんなもん!」ということで、すべておれのものとなった。

 おれはそれまで野球場で野球を見たのは、中学校の軟式野球、せいぜい高校野球しかなかった。日本野球界の最高峰のプロ野球が見られるということで狂喜乱舞した。喜び勇んでチームに相談を持ちかけた。

 三月に入ったばかりの日曜日、おれと主将のハッチ、熱烈な中日ドラゴンズファンのかっちん、それと抽選であたった三人でT市にあるK県営野球場に行った。試合は十五時からだったが、おれたちは十二時の開場と同時に入場し、パンやおむすびなどを食べながら、両チームの練習から見はじめた。

 阪神の練習が終わったあと、三塁側に行って引きあげる選手たちに声をかけた。「遠井ぃー」「安藤ぉー」「田淵ぃー」「藤田ぁー」

 精いっぱい声を張りあげたが、選手たちも試合を前にして忙しいのだろう、スタンドの薄汚く品のないクソガキ連中には見向きもしてくれなかった。

 次は一塁側に移動し、中日の練習を見守った。選手たちが引きあげてきたとき、おれたちはめげることなくまた声を張りあげた。「木俣ぁー」「高木ぃー」「中ぁー」「井上ぇー」

 やはりだれも相手にしてくれない。地元出身のヒーローには全員が「せぇーの」で声をそろえて叫んだ。「島谷ぃーー!」やはり相手にしてくれなかった。

 すると、最後に来た若くてハンサムで大きな体をした選手が、唯一おれたちの声に反応してくれた。

「おまえたち、どこから来たんだ?」

 さわやかで耳ざわりのいい声の標準語だった。

 プレーはへたくそで運動はからきしだめだが、ドラゴンズファンで野球の知識だけはピカ一のかっちんが叫んだ。

「あっ、谷沢や! 矢沢健一や!」

 ふだんおとなしいかっちんからは、聞いたことのない大きな声だった。

 谷沢健一。早大出身のドラフト一位ルーキー。おれは名前を知っていたが、顔を見るのは初めてだった。

 谷沢選手は金網に張りつくおれたちに、「どこから来たんだ?」「何年生?」「野球、好きか?」と、次から次へと質問してくれた。金網にボールをぶつけながら。

 おれたちは全員で声をそろえた。「S市から来たん」「四年生」「うん、大好きや!」

 ほんの数分のたわいもない会話だったと思う。しかし、おれたちにとっては間違いなく天にも昇る至福の時間であり、深く心に刻まれた。あこがれのプロ野球選手と話している。しかも東京六大学のスター選手で、ドラフト一位の期待の星。これはあとでかっちんが教えてくれた。それがおれたちの目の前にいて、相手にしてくれている。そのときみんな思っていたはず。よっしゃー、おれもプロ野球選手に絶対になっちゃる【なってやる】!

 おれたちは完全に舞いあがっていた。かっちんなんて興奮しすぎて、ただでさえカン高い声をしょっちゅう裏返して、しかもどもりながらしゃべっていた。

 ひとしきりおれたちを相手にしたあと、谷沢選手は手に持つボールをスタンドに投げいれた。ボールはベンチにあたってコンクリートの上をころがった。聞いたことのない硬い音がした。ボールに群がるおれたちに谷沢選手は言った。

「お土産だ。持って帰れ」

 生まれて初めて触る硬球はとてつもなく硬くて大きくて重かった。こんなボールで野球をする高校生を脅威に思ったし、プロ野球選手にますますあこがれた。

 翌月曜日、六人は登校するやチームのみんなに言った。

「おれたち、ドラゴンズにしようで。ほんで【それで】中日球場や」

 かっちんが付けくわえた。

「ドラゴンズの前に『ファイティング』付けようで」

 ボクシングのファイティング原田はそのとき世界チャンピオンから陥落していたが、まだ大人気だった。おれたちはそのパワフルなボクシングの大ファンだった。

 一組の連中がジャイアンツだけ『巨人軍』の別称があることを自慢していた。それで我が三組にも別称がほしいとみんな思っていた。

 かっちんは続けて言った。

「『ファイティング・ドラゴンズ』は長いきん言いにくいやろ。いつもはFとDでエフディーゆうんや。かっこええやろ」

 おれたちはろくにアルファベットを知らなかったが、かっちんの勢いに押されたこともあってすんなり了承した。

 じつは球団名を考えていたとき、かっちんは中日ドラゴンズを強く提案していた。しかし、野球の知識は断トツで豊富でも万年補欠選手の発言力は弱く、だれも耳を貸さなかった。それが一転ドラゴンズに決まり、さらに自分が提案した『ファイティング』が付いて、かっちんは意気揚々だった。自分がオーナーであるかのように振るまった。

 おれたち六人は谷沢選手のおかげですっかりドラゴンズファンになっていた。そして『三つ子の魂百まで』で、おれは今もドラゴンズファンで、ハッチもそうだった。あとの四人も中学校卒業まではそうだったが、今もそうなのかは知らない。

 中日対阪神戦のチケットを抽選にしたことはハッチのちょっとしたヒットだった。

 じつは、最初おれは主力だけで行こう、とハッチに提案した。チームへの貢献を考えるとそうあるべきと思ったことと、おれとしてはなんとかしてハッチと一緒に行きたかったからだ。ハッチのくじ運が悪いことを、そのころおれはうすうす気づいていた。

 しかし、ハッチはおれの分を除く五枚を抽選にすべきと主張した。そこまで言うなら、と、おれは六枚全部抽選にしようと言った。

 結局みんなが配慮してくれ、おれと主将のハッチ、それと唯一ドラゴンズファンで頭脳面でチームに貢献してくれていたかっちんを別枠とし、残り三枚を抽選にした。おれとしてもありがたくうれしい話だった。

 この民主的なやり方で、チームとしての一体感が醸成され、チームワークは強化されたと思う。そして、チームワークの要諦は、実力に関係なく全員を平等に扱うことであることを知った。

 ハッチにしても、このときの経験がその後のキャプテンシーやリーダーとしての姿勢や考え方につながったと思う。おれだってそうだ。会社生活でも生かした。

 しかし、おれたちはそのとき重要なことを忘れていた、五年生のクラス替えだ。おれたちの小学校では原則奇数学年にクラス替えがあった。観戦に行った六人のうち、FDに残ったのはおれとハッチだけだった。かっちんは二組のタイガースに、あとの三人は一組ジャイアンツにトレードされていった。

 そうそう。その日の思い出がもう一つ。

 試合観戦後、興奮冷めやらぬおれたちは帰りの汽車の中で大騒ぎをした。やかましいうえに、プレゼントされた硬球で小さなキャッチボールを始めた。落とすと金属質の大きな音がして、走る汽車の中であっちにコロコロ、こっちにコロコロ。

 大人にしかられてしばらくはおとなしくなるものの、子どもは我慢ができない。すぐに騒ぎだし、またキャッチボールを始めた。そんなことを繰りかえしているうちに補導員なる大人が現れ、補導されこっぴどくしかられた。

 翌日になると補導員から学校に連絡が入り、校長先生、教頭先生、学年主任、担任と、次から次へと説教をくらった。

 みんな同じことばかりしゃべるものだから、しまいにおれはあきてしまった。気持ちや感情が顔や態度にすぐに出てしまうおれだけ居残りでしかられた。

 

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