表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
12/13

Y島海水浴②

 

       Y島海水浴場 ②

 

 『光陰矢の如し』――。

 毎日を懸命に生きているうちに月日はどんどん過ぎていく。きーちゃんと再会して四十五年あまり、結婚して四十年がたった。

 おれは大学卒業後就職した電気メーカーを勤めあげた。会社では順調に昇進し、事業部門のトップ、会社全体でナンバー5の専務執行役員にまでなった。

 一年半ほど前に第一線を退いた。今は顧問として月に二、三日会社に顔を出すだけだ。まだ会社とのしがらみが若干残っていて、連絡事項や各種手続きなどがあるから行っている。

 出社して顧問室に入り、やるべきことをやったら、あとはパソコンで社内情報を調べたり、インターネットで自分の興味のあるニュースを見たりして時間をつぶす。それが終われば早々に切りあげる。

 いくつかの外部団体の役員も務めていて、月に何日か会合や会食に出席している。顧問も含め、これらすべて今年度で終わる予定だ。

 他社の社外取締役とか社外監査役のオファーもあった。コンサルタントのようなポジションを用意してくれる会社もあった。ありがたい話だがすべて断った。

 お金をもらうことになれば、おれは性格上一所懸命になってしまう。シャカリキになってしまう。

 もう財務諸表なんて見たくないし、『利益追求』とか『コストダウン』とか『目標必達』なんて言葉は口にしたくない。利益確保や経営改善のため『投資抑制』とか『経費削減』を言わなくちゃならなくなるし、場合によっては『労務費削減』や『人員縮小』なども進言しなくてはならなくなる。もうあんな身を切り、心をすり減らす思いはたくさんだ。

 現役のころのおれは間違いなく企業戦士だった。同世代の連中がみんなそうであったように。夜遅くまで残業し、休日出勤もしょっちゅうしていた。単身赴任も三度経験した。それがあたり前の時代だった。

 駐在こそなかったが、海外出張も多かった。事業部門トップになってからは、月一、二度のペースで海外に行った。役職が上がるにつれ、会食や宴会が増え夜は遅くなり、接待ゴルフで休日がつぶれるようになった。

 会食や接待ゴルフはもうけっこう。意味がないことだ。ビジネスや会社になにも貢献しない。自分たちが会社のお金で高くておいしい料理を食べてお酒を飲んで、名門ゴルフ場でゴルフをしたいだけのことだ。

 朝早く起きて、毎日ネクタイをしめてスーツを着て、革靴をはいて重たい鞄を持つことにも疲れたしあきた。窮屈なかっこうなんてしたくないし、満員電車にも乗りたくない。つまらない話に愛想笑いすることもしたくないし、お追従なんて言いたくもないし聞きたくもない。四十年以上やってきた。

 もうそんな生活とはおさらばだ。来年四月からは会社や経済活動とはいっさい縁を切り、のんびりゆったり暮らすつもりだ。健康に留意して、ときどき好きなゴルフをやり、読書三昧、映画三昧の生活。現役のころ、毎夜眠るときに夢見ていた。

 もちろんきーちゃんと一緒だ。

 二人で日常を平和に平凡に安穏と過ごす。ときどき娘家族に会ったりグルメをしたり、温泉旅行などに行ったりする。たまには海外旅行もしたい。

 家のお金はすべてきーちゃんが管理していて、おれは家の財産がどれくらいあるのかよく知らない。おれは早くに執行役員に就任したし、常務、専務にも昇進したからそれなりに稼いだはずだ。また、彼女は節約家だからお金はそこそこあると思う。ぜいたくをしなければ、まあまあの暮らしはできるはずだ。きーちゃんもそう言っていた。

 ばあちゃんはおれが中学のときに七十歳になったばかりで亡くなった。父ちゃんは八十歳を手前にして、母ちゃんは父ちゃんが亡くなって数年後あとを追うように、やはり八十歳になる前に亡くなった。みんな平均寿命に達していない。

 父ちゃんの四人兄弟、母ちゃんの三人姉妹を見ても、今存命しているのは三人だけ。どちらかというと短命の家系のようだ。おれも早いうちに楽しんでおかないと。

 現役のとききーちゃんにそう言ってはばからなかったが、第一線を退くときにも確認した。「もうおれ、働かんでええやろ?」

 きーちゃんは言ってくれた。「あなたはじゅうぶん働いてくれた。ありがとう。それでええよ。一緒にのんびりしよ。楽しも」

 ありがたい言葉だ。世間でよく聞く『熟年離婚』とか『家庭内別居』とか『濡れ落ち葉族』なる言葉はおれには無縁のようだ。まあ、油断はできないのかもしれないが。

 きーちゃんとおれの関係は結婚後もおおむね順風満帆だったと思う。そりゃあお互い人間だから多少のいさかいやトラブルはあったのだろう。しかし、それらはときどき訪れる雨や雪や風、せいぜい弱い台風くらいのもので、大地震や大津波や大暴風雨など天地が引っくりかえるほどの大ごとはなかったと信じている。しばらくたてば必ず強烈な太陽が戻ってきた。

 このことについて映画を見終わったあと二人で話したことがある。四、五年前のことだ。

 家庭のそれぞれの役割にともに夢中で不平不満を言う暇がなかったこと、娘三人がかすがいになってくれたこと、やっぱり愛情があったこと、お互いリスペクトしあっていたことなどの意見が出た。だが、最終的には体の“相性”が大きいという結論になった。

 おれはきーちゃんのポヤポヤフニフニの体が大好きだ。触れているだけで気持ちいいし癒される。だからいつも触っていたいし、すきあらば触っている。たとえば、映画を見ているときなんかに。この年になった今でもその魅力はちっとも色あせないし、だからおれの欲望も衰えない。

 きーちゃんはきーちゃんでおれに触られることが大好きだ。触られていると気持ちいいし夢見心地になる。だからなにも言わず、触られるがままになっている。体をやさしく愛撫される猫のように。

 それで、すぐにセックスになる。

 家で映画を見たあと気分が盛りあがって、なにかの記念日とかうれしいことがあったときにハグしてキスして、どちらかが落ちこんでいるとき不満がありそうなときに肩もみなどから始まって。寝室のベッドはもちろん、ソファやフローリングの上で、ときには洗面所やキッチンで立ったまま衝動的に、野性的に。

 まあ、お互いいわゆる『好き者』ということなのだろう。世間一般の男女がどうなのかは知らないが、スキンシップやセックスがかなり多いほうだと思う。

 きーちゃんにはセックスに関して三つの持論がある。

 まず、「セックスしとる夫婦は別れへんの」

 そもそもセックスなんてそれなりの愛情と欲望がなければできない行為だ。そうでない人もいるのだろうが。

 愛情の発露、欲望の解消は動物としての本能だ。とすると、これらがあるかぎり相手が必要ということになる。長年慣れ親しんで気心の知れた夫や妻は絶好の相手なのだから、お互い手放したくないということになるのだろう。

 これにはおれも同意する。

 二つ目は、「健全な愛情は気持ちいいセックスに宿るんや」

 確かに、お互いの体をむさぼり合ったあとは心も体もスッキリする。相手のことがいとしく思えるようになる。二人のあいだになにかわだかまりがあったとしても消えてなくなっている。なくならないまでも、かなり小さくなっている。やがて、時の経過とともにいつしかわだかまりは消えてなくなる。

 ただ、セックスレスでも愛情の豊富な夫婦はいると思う。だから、セックスは十分条件であって、必要条件ではないということだとおれは思う。

 最後は、「体の相性やセックスのよさは運命的なものなん」

 気の合う人、合わない人がいるように、確かに生まれ持った部分が大きいのだろう。後天的なものではないと思う。これにもおれは同意する。

 こんな話をしたあとも、必ず濃厚で気持ちいいセックスになる。持論を確認、検証するかのように。

 おれは今まで会社での経済活動に従事することで、きーちゃんや子どもたちを養ってきた。またそれを通じて、大げさにいうと、日本や世界の進歩や発展、社会や人々の幸福に貢献してきたつもりだ。これからはエネルギーの100%をきーちゃんに、それと子どもたちやその家族に使うつもりだ。

 娘が三人できたが、家事や育児など家庭に関するすべてはきーちゃんまかせだった。きーちゃんは専業主婦としての務めをじゅうぶん果たしてくれた。両親が早く離婚して寂しい思いをしたこともあって、家庭に対する思いや愛着は人一倍強かったようだ。懸命に家庭を守ってくれた。

 娘たちを健康に素直に育てあげてくれ、みんな順調に優秀な高校、大学に進学させてくれた。おれは進学など節目のときに相談され、同意を求められるくらいだった。だが、ふだんの状況を知らないから、本人の希望や意向を確認して、きーちゃんがどう思うか聞いて、それを追認するばかりだった。女の子ばかりだから、男性のおれには話せないような悩みや心配もたくさんあったのだろうと思う。

 家だってそうだ。土地や工務店をきーちゃんみずからが探しだし、大きさや設計や間取りや予算すべて自分の思いどおりの家を建てた。おれはきーちゃんの説明に首を縦に振って、書類にサインし印鑑を押すだけだった。

 クリーム色の外壁の家はモダンで、窓が多く光がたっぷり入って温かくて明るくて気持ちがいい。小さいながら書斎を作ってくれたからおれはじゅうぶん満足している。

 きーちゃんの素晴らしいところは、いつも明るくポジティブな点だ。おれもそのタイプだと思うが、彼女にはかなわない。おれがハッチの逝去とか仕事で行きづまって落ちこんでいるときなどに、彼女はいつも明るく励ましてくれた。勇気を与えてくれた。自分だって落ちこむときもあったと思うが、一度もそんな素振りは見せなかった。ほんとうに頭が上がらない。

 『アハハハハ』なのだ。このあっけらかんとした無垢な笑い声を聞くと、悩みや心配や屈託などの負の感情はすべて吹き飛んでしまう。

 『トカトントン』は聞いたとたんに熱意も感慨も消えうせ白々しくなってしまう、それでやる気がうせてどうでもよくなってしまうが、きーちゃんの『アハハハハ』は真逆だ。どんなに心が沈んでいようが、たちまち光が見えやる気がわき起こる。希望を抱き、物ごとすべてにポジティブになれる。空をおおっていた厚く黒い雲が消えさり、強烈な太陽が現れ晴れわたる。

 そう、太陽。つくづく我が家にとって太陽だと思う。いつも中心で輝き、みんなを照らしてくれる。太陽なくして地球は存在しないし、生物は生きられない。晴れも雨も雪も台風もなければ、暑さ寒さもないし、四季もない。極寒の暗黒の世界が続くばかりだ。

 娘たちにとってもそうだったと思う。いろいろと遊びに連れていってくれたり、日ごろ放ったらかしにしている負い目で甘いことばかり言ったりする父親に人気はあったのかもしれないが、実際頼りにしていたのは母親だ。

 うれしいことに、娘たちもきーちゃんの性格をしっかりと受け継いでくれている。今は孫たちがママの強い陽光に照らされ、スクスクと育ってくれている。

 引退して読まなくなったが、ある経済新聞の最終面に『私の履歴書』という記事があった。成功した政治家や実業家や学者、芸術家やスポーツマンや芸能人が一ヶ月かけて半生を振りかえる。その方々が最終回にたいてい書いている言葉、「妻(夫)の支えがあってこそ今日の私がある。いくら感謝してもしきれない」これはおれにもあてはまる。

 一線を退くときに、きーちゃんにアクアマリンの指輪をプレゼントした。おれはそんなものを贈ったことはなかったから、サプライズだったようだ。大きな目をクリクリさせ、大きな声をあげて喜んでくれた。

 海外出張のときに航空機の中で見た映画で、ショーン・コネリー演じる主人公が言っていた。

――女性を喜ばせるためには、思いがけないときに思いがけないプレゼントをすることだ――

 その言葉を思いだして、遅ればせながら実践した。

 せめてもの感謝の気持ちだった。アクアマリンはおれの誕生石で、彼女はサファイヤだ。しかし、おれの好きな色だし、きーちゃんの明るい性格にピッタリだとつねづね思っていた。さらにいうと、おれの大好きな瀬戸内海の色だ。

 そんなに高いものではない。彼女は豪華な装飾品をもらって大喜びするタイプではないし、経済観念が発達しているから高いと反対にしかられる。お金は娘や孫たち、グルメや旅行にかけたほうが喜んでくれる。

 彼女はおれが思った以上にプレゼントを喜んでくれた。と思う。買い物や映画やグルメなどのデートのとき、付けてくれるようになった。それまで彼女がアクセサリーを付けるなんてことはなかった。

 

 おれは娘たちに山崎君のご両親がおれやハッチに話していたようなことをいつも言っていた。君たちにはいろんな可能性があること、努力すればなんにでもなれるしどんなことだってできること。それと、世の中はとてつもなく広いこと、ワクワクすることや楽しいことがいっぱいある、ということだ。くわえて、これからの世の中は男子も女子も関係ない、性別や年齢を問わず人間は平等であること、だから臆したりひるんだりすることなく果敢にチャレンジすればいい、ということを。我が家の教育方針と言ってもいい。

 娘たちはその影響をたっぷりと受けてくれたようだ。おれやハッチと同じように。長女は工学部化学生命工学科、次女は文学部英米文学科、三女は看護学部に進み、キャリアウーマンとして活躍している。

 たいしたものだと思うのは、三人とも選択肢のAかBのどちらか一つを選ぶのではなく、自分がほしければAもBもゲットしようとすることだ。場合によっては、選択肢にないCもDもゲットしようと考える。

 学生時代、長女は理系科目のみならず文系科目にも興味津々で積極的に勉強していたし、それに関連するサークル活動にも熱心に取り組んでいた。次女と三女は勉強と運動部を両立させた。みんなボーイフレンドもたくさんいてしっかり恋も楽しんで、学校生活を満喫していたようだ。すべてきーちゃん情報だが。

 大学を出てからも、仕事も家庭もすべてをゲットしようとしている。そのための努力を惜しまない。あたり前のように努力する。『肉食系女子』という言葉を聞いたとき、娘たちにピッタリだと思った。

 長女はメーカーに就職後同僚と結婚し、男の子と女の子を産んだ。今はインドに駐在している。

 夫婦の話し合いの結果、ママがお兄ちゃんを連れていき、日本に残るパパが妹のめんどうを見ることになった。

 インドへ行く話を聞いたときも驚き心配したが、夫婦、兄妹が別々に住むことを聞いたときにはさらに驚き心配した。だが、家族でそう決めたのなら仕方ない。おれたちが口を出すことじゃない。そもそも、三人ともゴーイング・マイ・ウェイのタイプで親の言うことなんか聞かない。とりわけ長女はその傾向が強く、なんでも自分で決めてきた。おれたちにできるのは全面的にバックアップすることだけだ。

 インドのお兄ちゃんはきーちゃんにしょっちゅう電話をかけてくる。「寂しいからきーちゃんお話ししてー」とか「きーちゃん、ねえ、聞いてー」とか言って。当然のことながら、小学二年生なりの異国での寂しい思いや悩みやストレスがあるようだ。

 初孫ということもあって、きーちゃんがいちばん世話をしてなついている子だ。孫の気がすむまでおれたちは電話に付きあう。

 さすがに離れ離れの生活に限界を感じたのだろう。希望が会社に通り、今度パパと娘もインドに赴任することになった。夏休み明け、九月の赴任に向けて現在準備で大わらわだ。

 おれたちには寂しいことだが、やはり家族一緒がいちばんいいし、そうあるべきだ。どんな事情があるにせよ、家族が離れて暮らすなんてよくないことだ。

 おれは三度の単身赴任を通じてつくづく実感したから、会社では極力単身赴任を少なくするよう努力した。きーちゃんは片親しかいなかった経験からそう思っているようだ。父親と妹が来れば、お兄ちゃんも少しは落ち着くことだろう。

 商社勤務の次女一家には二男一女の子どもがいる。ママのバンコク赴任が決まったとき、パパが会社を辞め、一家そろって引っ越していった。

 長男のときはママが育休を取ったが、次男長女のときはパパが取った。そのこともおれたちには驚きだったが、パパがだれもがうらやむ人気企業をあっさりと辞めたときにはもっと驚いた。

「ほんまにええんか」と質問するおれに、「だいじょうぶです。あっちで職を見つけますから」と、こともなげに答えた。

 そのとおり、すぐに米国系コンサルタント会社の現地法人に就職した。

 今後おれときーちゃんは娘たちの要請で孫のめんどうを見に、インド・バンガロールとバンコクにときどき行くことになるのだろう。バンコクにはすでに一度行った。

 長女と次女は中間地点のミャンマーかバングラデシュで子どもたちを会わせよう、なんて冗談を本気で言いあっている。ミャンマーは今の情勢では行けないので、バングラデシュで実行しそうな感じだ。きーちゃんはもうその気になっていて、図書館からバングラデシュの本を借りて読んでいた。

 おれたちは孫に『じいじ』『ばあば』なんて呼ばせない。『こーちゃん』『きーちゃん』だ。『じいじ』『ばあば』なんて呼んだ子には、誕生日プレゼントもお年玉もなければ、遺産相続もなしと宣言している。まあ、遺産なんてたいしてないけれど。

 三女は大阪に住んでみたいとのことで、大阪の大学に進んだ。そのまま大阪の病院で看護師をしている。八十八歳で一人暮らしをしているお義母さんの近くに住んでいて、ときどき様子を見てもらっている。

 三十歳も近くなり、もう結婚しないのかも、と思っていたら、去年の秋ボーイフレンドを家に連れてきた。二人は、「一年間くらい同棲して、お互いよかったら結婚する」とかしこまって言った。

 おれは、結婚の許可とちゃうんか、とか、同棲してだめやったら別れるんか、そんなのあるんか、とか思ったが、きーちゃんに、「今の子ってそんなもんみたいやで。よけいなことゆうてたら、菜未に嫌われるよ」なんて釘を刺されていたから黙っておいた。

 少し前にきーちゃんが、「十月の誕生日にプロポーズされそう、みたいなことを菜未がゆうてたわ」と言っていた。

 けっこうなことだ。人間は一人では生きられないし、一人よりも二人のほうが楽しいに決まっている。二人よりも三人、三人よりも四人と強く主張したいところだが、人それぞれだし、子どもができるかできないかは神の領域の話になるからそこまでは言わない。

 三女が結婚してくれれば、おれたち夫婦は社会的な責任をすべて果たしたことになる。大きな区切りになる。

 おれの周りには同級生夫婦が多い。兄ちゃんと次女は大学の、洋子は高校の、長女は会社で出会った同級生だ。三女の相手も一浪していて一つ年上だが、大学の同級生だ。

 ハッチは大学入学早々知りあった同級生と卒業と同時に結婚したし、カフェインも会社の短大卒の同級生だ。ついでにいうと、甥や姪にも多い。

 きーちゃんと洋子は専業主婦で、義姉【ねえ】ちゃんは弁護士だが、三人とも夫から一歩も二歩も引いたスタンスをとっていた。

 それは時代だ。おれたちの世代までは、昔ながらの家父長制、男性優位、男尊女卑の考え方が社会の通念としてあった。

 おれが入社して間もない一九八六年に『男女雇用機会均等法』が施行されたが、なかなか根付かず歯がゆい思いをしていた。

 だが、子どもたち世代は違う。男女が対等の立場との認識でいると思う。世の中のさまざまなことはまだそこまで進んでいないが、うちの娘たちは家庭でも主導権を握っているし、社会でも会社でもしっかりと自分を主張している。いろんな人と性格や個性や考え方をぶつけ合って生活を営んでいる。それをじゅうぶん楽しんでいる。

 胸を張って生き、男性に一歩も引けを取らない娘たちを頼もしく誇りに思うし、つくづく時代は進んだと思う。この流れはこれからも加速することはあっても、後退することはないのだろう。

 次女は門司姓になった。もちろん夫も門司姓になった。三女も次女にならって門司姓にするそうだ。ボーイフレンドも了承ずみだ。

 門司姓になった理由は二人とも、「『門司』ってシンプルでかっこいいじゃん」

 シンプルなのはそうかもしれないが、かっこいいかどうかはおれにはわからない。

 もはやこんな女性の時代になっているのに、日本の社会を牛耳る大政党は『選択制夫婦別姓』導入に反対したり、女性天皇の実現を阻止しようと躍起になったり、と相変わらず家父長制、男性優位、男尊女卑の社会にこだわっている。そんな価値観にどっぷりつかったお年寄りたちの票がほしいのだろうが、将来どうするのだろうと思う。世の大きな流れにあらがってもどうしようもないのに。

 今はその大政党が日本の社会にふたをしているものだから、閉塞感たっぷりで世界からも取り残されている感があるが、うちの娘たちやその夫のような人種が多くなれば日本もずいぶん変わるだろうなと予感させる。

 まあ、そんなことはどうだっていい。もうおれたちが声高に叫ぶことでも出しゃばることでもない。おれたちは今の社会の中で余生をのんびりと安閑に過ごすだけだ。あとは娘たちにまかせておけばいい。娘たちも孫たちも、みんな健康で元気に、懸命にやっているからなによりだ。

 おれは家族のことは他人にしゃべらない。人に尋ねられた場合にのみ最低限を話す。どうしてもしあわせ自慢になってしまう。世の家庭には、独身、離婚、不妊、死別、病気、事故、ひきこもりなど、不幸な形がたくさんあることを知っている。

 

 久しぶりに四国に帰ってきた。新型コロナが流行する前の正月以来だから約四年半ぶりだ。

 両親が生きているうちは年に一回は必ず帰省した。近くで洋子たち家族や親戚連中が住んでいるとはいえ、二人きりでひっそり暮らす両親に孫の顔を見せるのは最低限の親孝行と思っていた。

 帰るのはだいたい盆休みで、必ず一日は娘たちをY島海水浴場に連れていった。娘たちはみんなそこで海を知り、泳ぎを覚えた。

 今回は車で帰ってきた。きーちゃんと運転を交代しながら、サービスエリアで食事をしたり名物のスウィーツを食べたりして、気楽でゆったりのんびりした旅だ。働いていたころのように、時間に追われることもなければ、しょっちゅうメールを確認する必要もない。突然ケータイに電話がかかってくることもない。

 大阪でお義母さんや三女たちと食事して一泊した。K県で二泊三日したあとは、松山の道後温泉に行く予定だ。その後ものんびりと帰京する。気が向いたら途中どこかに宿泊してもいい。

 朝、大阪のホテルを出発して山陽自動車道を通り、瀬戸中央自動車道に入った。鷲羽山トンネルを抜けると――。

 夏の陽光に照らされたアクアマリン色の瀬戸内海があった。ガラスのようになめらかな海面、いろんな形をした大小さまざまな島々、そのあいだを白い航跡を描いて行き交う船。昔とちっとも変わらない。

 かつておれたちは瀬戸内海を連絡船かフェリーで約一時間かけて渡った。今は自動車か電車で瀬戸大橋を通る。わずか十分しかかからない。

 本州に向かうときには、よーし、やっちゃるぞ【やってやるぞ】! とやる気モード、戦闘モードに入り、四国へ帰るときには、あー、やっと帰ってきたー、とお気楽モード、脱力モードになる。それは四国を離れて四十五年以上たった今でも、渡る手段が変わっても時間が短くなっても、おれの中では変わらない。ハッチやシュガーやカフェインも同じだと言っていた。

 運転をしながらそんなことを思っているおれの横で、きーちゃんは健やかな寝息を立てていた。朝からの運転で疲れたのだろう。せっかく懐かしい瀬戸内海の絶景がすぐそこにあるというのに。

 来年完全引退したら海外旅行をしようという話になっている。おれはエーゲ海クルーズ、イタリアの世界遺産アマルフィー海岸などの南欧の海を主張し、彼女はウィーンでクラシックを聴き、アルプスで登山鉄道に乗りたいと主張している。

 きーちゃんとおれはなにかと対照的だ。片やテレビ派で片や読書派、映画はともに好きだとしても、片やラブロマンス系をこよなく愛し、片やアクション物、ストーリー物を好む。家事にしても、きーちゃんは洗濯が大好きと言ってはばからず、おれはこっそりそうじを好む。

 きっちり几帳面とズボラいいかげん、のんびりゆったりとせっかちせかせか。そんな凸凹コンビがお互いの欠点を埋めあわせて、長年ともに生きてきた。

 結局、両方に行こうということで落ち着いた。急いで帰ってくる必要もない。異国でのんびりと過ごして、積年たまった会社のあかをしっかりと落とせばいい。きーちゃんからも、「そのせっかち、早よ直してな」と言われていることだし。

 久しぶりの四国だから、いろんな人に会った。洋子夫婦、姪と甥の家族と夜食事した。

 洋子の孫たちが大きくなっていたことには驚いた。男の子も女の子も、昔はおっちゃん、おばちゃんといってなついていたのに、高校生や中学生、小学校高学年になってみんなはにかんであまりしゃべらなくなっていた。子どもが育つのはあっという間だ。

 翌日は父ちゃんの末弟の叔父叔母の田舎の家に行った。叔父は両ひざがもうどうにもならないと言って、家の中でも歩行器につかまってヨチヨチと生活していた。もうほとんど外出もせず、比較的元気な叔母がめんどうをみていた。

 S市内に住む母ちゃんのすぐ下の妹夫婦にも会った。叔母さんも叔父さんもさすがに年をとっていたが、ともにかくしゃくとしていた。叔母さんは昔と変わらず大きな声でよくしゃべった。

 夜、二人で食事をしてホテルに帰ってくると、きーちゃんが言った。

「な、明日、ほんまに泳ぎに行くん?」

 

 Y島海水浴場はおれが子どものころは知る人ぞ知る場所で、おれたちが独占する海の王国だった。やがてマイカー時代が到来し口コミでうわさが広がり、人が車でつめかけるようになった。おれが社会人になったばかりのころからだ。

 島の人たちが駐車場を整備し、更衣室やシャワー室を造った。といっても、空き地の草を刈っただけの原っぱに適当にとめる駐車場で、隅にプレハブ小屋を建てただけだった。粗末で貧相な更衣室とシャワーは無料で、シャワーは井戸水をポンプでくみ上げていて絶叫するほど冷たかった。

 やがて水がきれいなことで『全国の海水浴場百選』に選ばれると、多くの人がつめかけるようになった。瀬戸大橋ができたこともあり、本州ナンバーの車も多く見かけるようになった。

 竹やぶの一画を切り倒して、更衣室とシャワー室とトイレのあるコンクリート製の平屋の建物ができた。小さな売店もあり、うどんやおむすびやおでん、ビールやジュース、スナック菓子やかき氷を売るようになった。

 翌日、おれときーちゃんはY島海水浴場にやってきた。昔はいずれ駐車場も舗装され整備されるのだろうと思っていたが、やっぱり草を刈っただけの原っぱのままだった。

 海も海水浴場全体を包むように四、五十m沖合に消波ブロックが高く積まれている。大きく広い海は箱庭のような窮屈な海になり、沖に浮かぶ島々や行き交う船は見えなくなっていた。

 おれときーちゃんは浜辺にレジャーシートを敷いて荷物を置いた。

 おれはここに来るたびに、小学五年生の秋のきーちゃんの姿を思いだす。娘たちが小さいころ、母親そっくりな長女の顔と姿を見てときどき錯覚を起こした。

 きーちゃんもこの風景を見るたびにそのときのことを言った。彼女にとってはおれとの初デートだったらしい。しかも、肩車でますますおれを好きになってくれた。

 盆休みでにぎわっているとはいえ、人はそれほど多くなかった。まあ、しょせんは田舎の海水浴場だ。いもを洗うような人でにぎわう湘南海岸なんかとは比べものにならない。東京とオーストラリアほどの人口密度の違いがある。

 それでもきーちゃんはTシャツ、ハーフパンツを脱ぐことをためらった。その下にひざまであるスイムウェアを着こんでいるにもかかかわらず。さらに、その上にスイミング用のジャージを着て、ショートパンツをはく。

「もうこんな年になって、水着なんて着れへんわ」などと言いながら、ずいぶん前の水着を取りだして眺めながら、新しく買うかどうかずいぶん迷っていた。結局、ジャージとショートパンツだけを買った。

 おれはTシャツを脱いで、「さ、行くで」ときーちゃんをうながし、波打ち際に向かって走った。

 ここに来ると、陽光を浴び風に吹かれると、ここの海の匂いをかぎ潮騒の音を聞くと、やはり血わき肉おどる。じっとなんかしていられない。ずいぶん年をとったが、子どものころと変わらない。

 海に入るとき、さすがに昔のような軽業の芸当はできない。その代わりというわけではないが、昔はやらなかった入念な準備運動をして海に入った。そんなとき、つくづくおれも大人になったと思う。いや、大人どころかもうすっかり老人か。

 押しよせる波は相変わらず静かで穏やかで、水は透きとおっていた。そして、火照る体にとても冷たくて気持ちよかった。これも昔のままだった。

 やがてきーちゃんが海に恐る恐る入ってきた。ひざまでつかったところで、「キャー、冷たぁーい!」と叫んだ。

 その言葉を聞いておれの目が光った。おれはきーちゃんに海水をかけ始めた。

「やめてー、やめてー! 冷たぁーーい!」

 きーちゃんは逃げまどう。最初はたくさん水をかけるよりも少しのほうが冷たく感じることをおれは知っている。

 追いかけまわし、「ウリャウリャウリャウリャ」そう言いながら、おれはかける水の量を意地悪く増やしていった。

 かつて、海に入るときはいつもこのパターンだった。おれはいっきに海につかり、きーちゃんと娘たちに水をかけ始め、彼女たちが大騒ぎし逃げまどうのを楽しんだ。久しぶりに海に入るきーちゃんはそのことをすっかり忘れていた。

「やめてぇーー! やめてぇーー! でないと、嫌いになるでぇーー! 今晩ひどいでぇーー!」と、昔と同じことを言った。

 そこら中を逃げまわった挙句水に足をとられて転んで、頭からずぶ濡れになり叫んだ。

「ばかぁーー! このばかコーヘエーーー!」

 これも昔と同じ台詞だ。

 おれたちはしばらくのあいだ波打ち際付近を泳いだ。昔のように沖になんて行けない。巨大な消波ブロックが立ちふさがっており、沖に通じる区画にはがんじょうなネットが張ってあった。もっとも、おれももう沖で何時間も泳ぐ体力なんてなくなっている。

 その後、磯を伝って思い出の北の砂浜に行った。満ち潮だったからきーちゃんは浮き輪に浮かび、それをおれが引いていった。

 人はだれもいなかった。遊泳禁止の看板がいくつも立てられていた。おれの小さいころは遊泳禁止なんてだれ一人守らなかったが、最近はそうじゃないようだ。

 こちらはなにも変わっていなかった。松林も磯も砂浜も、遠くに見える風景も。黄色い太陽、白い入道雲、青い海、緑の島、沖の大小の船、緩やかな風、静かな波、にぎやかなセミの鳴き声、ジリジリした暑さ。

 おれときーちゃんは松の木の根元に腰を下ろした。たぶん昔と同じ場所だ。そして、しばらく景色を眺めていた。さすがに昔のように鬼ごっこやがけ登り、木登りはできない。

 昨日S市街を車でまわった。なにもかもが様変わりしていた。

 おれたちの通った小学校は別の小学校に統合され、廃校になっていた。敷地には移転してきた市立病院の大きくてりっぱな建物が建っていた。塩田は埋めたてられ、きれいに整備されていた。広くきれいな緑地公園や自動車学校やホテルや倉庫、おしゃれなレストランやうどん屋などの店が建ち並んでいた。昔の面影は影も形もなかった。

 車を降りて昔通ったアーケード街を歩いた。すっかりシャッター街と化していて、開いている店は二、三割くらい。それもかつてあった店から変わっていた。洋子の話では、アーケードも耐震性に問題があるが、予算がなくて撤去できていないそうだ。これもよく聞く話だ。

 あこがれだった『ラ・メール』はクリーニング店になっており、そこも閉店していた。シャッターはところどころペンキがはがれ落ち、濃いさびが浮かんでいた。長い年月を感じさせ痛々しかった。

 おれが住んでいた家もきーちゃんの家もなくなっていた。山崎君が住んでいた家も。狭かった道路が広く整備され、沿道には新しくしゃれた家が建っていた。ウラバンやゆうちゃんが住んでいた団地は取り壊され、区画販売の住宅地になっていた。

 おれときーちゃんは無言で歩いた。時代の変化だから仕方ないとはいえ、寂しかった。対照的に、Y島の北の浜辺はなにも変わっていなかった。おれたちは砂浜に座ってただ海を眺めた。

 

56




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ