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やのきよ③

 

       やのきよ ③

 

 おれとやのきよは順調に恋をはぐくみ、愛を深めていった。やのきよに言わせれば、すべては“運命”、“赤い糸”のなせるわざだ。

 小学五年生の二学期に転校して出会った黒くて小さい男子に好意を持ち、見ているうちに、話をしているうちにどんどん好きになっていった。自転車で遊びにいったY島で決定的な事件が起こり、その日家に帰って幼心に思った。お付き合いきたらええな。

 日々そう思いつづけていると“交際”は“結婚”になり、いつしか“希望”が“確信”になった。その根拠が“運命”であり“赤い糸”なのだ。

 だから、転校での別れにも悲しくなかった。寂しくなかった。だって、いつかまた会えるから。そして結ばれる。必ず、きっと。二人の人生はそうプログラミングされているのだから。

 やのきよは児童公園での最後の日は泣かなかったと言いはった。おれの記憶では、確かに泣き顔はこらえていたかもしれないが、涙はこぼれたはずだ。声だって漏れた。水かけ論になるから強く言わなかったけれど。

 大学で栄養学科に進んだことだってそうだと言った。おむすびをおいしそうに食べる男子を見て、いつかうちの料理食べさせてあげたいな、おいしい料理を作ってあげたいな。その思いで受験勉強をがんばった。

 まあ、結果として彼女のいうとおりになって、二人こうしてしあわせに暮らしているのだからおれとしても異論はない。

 やのきよと呼ぶのもおかしいから、母親にならって『きーちゃん』と呼ぶようになった。向こうは小学校のときと変わらず『コーヘイ』のまま。友人の前では『浩平君』と呼んだ。

 おれの初恋は高校の国語の教科書の随想どおりかなわなかったが、やのきよの初恋はかなったわけだ。おれが「よかったなあ」みたいなことを言うと、

「うちにとってはあんたが初恋で、それからもずーっと思いつづけてきたのに、あんたはうちが初恋やなかった。それが悔しい」

 そう言っておれを責めた。小さいころにしていた不平不満を表す金魚や鯉の口パクパクはしなくなっていた。

 おれは言った。おれの初恋がかなわなかったからきーちゃんとの恋がかなったわけで、きーちゃんとの恋が初恋だったらかなわなかった、だからその点を責めるのはお門違い、と。彼女はわかったようなわからないような顔をしていたが、それ以来おれは責められなくなった。

 二人の関係は順風満帆だったが、一回だけトラブルがあった。大学卒業間際の冬の夜、『相沢のり』こと訓さんがおれのアパートにやってきたのだ。

 おれは就職も決まり、卒業論文の仕上げと卒業試験の勉強に精を出していた。ハンドボールはその後また三部に落ちたが、四年生の夏にふたたび優勝し、二部への昇格を後輩にプレゼントして引退していた。

 希望どおりのメーカーに就職できること、やっと親の援助なしでひとり立ちし社会に羽ばたけること、しかもきーちゃんも一緒ということで、おれの胸は夢と希望ではち切れんばかりにふくらんでいた。

 夜八時ころドアがノックされた。きーちゃんが来る予定はなかったから、こんな時間に来るのは悪友以外にありえない。気楽にドアを開けたおれは息をのんだ。

 今をときめくスターが、ふろなしトイレ共同、呼び出し電話の安アパートの薄灯りの廊下にたたずんでいた。『相沢のり』は依然人気絶頂で、テレビや雑誌で見ない日はなかった。しかし、その日の『相沢のり』は華やかできらめくスターの面影はなく、小柄な体はますます小さくなり、そのまま都会の夜の闇に消えてしまいそうだった。うつむく姿は廊下にどんより沈んでいる冷気でふるえているかに見えた。

 面と向かって会ったのはおれが浪人中の夏以来四年半ぶりだった。最後の会話は合格を伝える電話で、四年たらずが経過していた。

 かつての恋人の突然の訪問に、おれの緊張は一瞬で最高潮に達した。高校時代、交際前に訓さんの姿を見たときや話をしたとき、頭の火力発電所が瞬時にフル稼働して高熱を発し、胸のハーレーダビッドソンのエンジンが大きく鳴り響くのを感じたが、それを久しぶりに経験していた。

 なかなか声が出ないおれだったが、数秒後、

「やあ、久しぶり。元気やった?」と、かわききったのどからなんとか声を出した。

 訓さんはまず「うん」とうなずいた。それからおれの息災の質問と夜の突然の訪問をわびるようなことを言ったと思うが、頭の熱と胸の音がじゃまをしてよく聞こえなかった。

 一方で、おれの目は廊下のひ弱な電灯の下にたたずむ訓さんを意外と冷静に観察していた。

 薄く化粧はしているものの、黒目の多い大きな瞳と小柄で華奢な体、澄んだソプラノボイスはまさに訓さんだった。すべてテレビなどの媒体を通じて見たり聞いたりする姿や声と同じで、高校時代からちっとも変っていなかった。

 左目下の小さなほくろもそうだ。ただ、昔はいつも笑ってばかりだったほくろがそのときはしんみり沈んでいた。今にも泣きだしそうな感じだった。そんなほくろを見るのは初めてだった。

 おれは女性を必ず自分の右側に置く。高校時代の先輩に、左利きは女子を左側に置くべきだ、と言われたことがあった。理由は、肩に手をまわしたり体を触ったりするのに便利だから、というくだらないものだった。当時プラトニックだったおれは相手にしなかったが、右側にするのは訓さんが理由だった。訓さんのほくろはごきげんをストレートに表現していて、おれはそれを右目下隅でつねに観察していた。その習慣がずっと続いていた。

 寒気団の影響でその夜はその年いちばんの冷えこみだとニュースで言っていた。冬の夜、厳しい冷えこみ、薄暗い電灯、二人きりの組み合わせは、高校一年生のバレンタインデーの自転車置き場を思いださせた。七年が経過していた。

 おれは訓さんをアパートの部屋にあげた。一年前に食品会社に就職して社会人になったきーちゃんがときどき来て掃除してくれていたから、それほど汚くはなかった。

 たたみの上のくたびれた座ぶとんに無言で座る訓さんにおれは言った。

「コーヒーかお茶か飲む? 紅茶とホットココアもあるで」

 返事を聞いておれは驚いた。

「私、お酒がいい。お酒、なにかある?」

 お互い二十歳は過ぎているとはいえ、おれの記憶にある訓さんと酒がどうにも結びつかなかった。まだ熱を持っているおれの頭の中で、小さな竜巻が発生した。

 おれは今でこそ酒は大好きでたくさん飲む。しかし、大学生のころは部の宴会やコンパなど飲むときにはたくさん飲んだが、ふだんは飲まない生活をしていた。お酒のおいしさを覚えるのは社会人になってからだし、そもそもお金がもったいなかった。お酒にお金を使うくらいなら、もっと実のある物を食べたかった。

 かなり前に部屋で友人たちと飲んだときのウィスキーが残っていた。もちろん大スターにはふさわしくない安物だ。

 ウィスキーがあることを伝え、飲み方を尋ねた。

「水割りでええかな? 悪いけど、氷ないんや」冷蔵庫は持っていなかった。

 返事はふたたびおれを驚かせた。

「ストレートがいいわ」

 内容もさることながら、“が”の助詞にも驚いた。頭の竜巻はいっそう大きくなった。

 高校時代の訓さんは容姿とソプラノボイスで目立っていたが、地味でおとなしく、引っこみ思案で人見知りする性格だった。自分でもそう言っていたし、おれも周囲もそんな印象を持っていた。どれだけ実力があって部員から推薦されても、図書部もコーラス部も部長は引きうけなかったし、二年生の文化祭のクラス劇の主役も固辞した。いつも他人の希望や意見を優先させ、人に強く尋ねられて最後に消極的に遠慮がちに自分のことを言った。

 訓さんはよく言っていた。

「人前で目立つことは苦手なの。緊張するし、頭がパニックになるの。私は裏方が好きだし、落ち着くの。たぶんそれが似合っていると思うし」

 おれの家に何度か来たが、ばあちゃんの「ジュースがええ? コーヒーがええ?」にはたいてい「どちらでもいいです」と答えた。どちらかを選択する場合でも、せいぜい「ジュースでいいです」と答えた。「ジュースがいいです」とはっきりと主張するおれはこのことをはっきりと記憶していた。

 遠い将来の話になったとき、

「そんな性格だから自分でバリバリ仕事するんじゃなくって、浩平君のお嫁さんになりたいの」などとも言ってくれた。

 まだ男女雇用機会均等法が成立するずいぶん以前のことだ。優秀な大学を出て会社に入っても、結婚か出産を機会に退職し専業主婦になる女性が多かった。数年後、きーちゃんも同じ道をたどった。

 将来のことなんてわからないにしても、おれは素直にうれしかった。最愛で大好きで、料理も裁縫も得意な訓さんが伴侶になってくれたら、おれの人生は最高のものになるだろう、本気でそう思い、夢を見た。すぐに破れてしまったけれど。

 そんな訓さんだったが、歌うことは大好きで、歌うときだけは人前でも堂々としていた。

「歌うまではたいへんなんだけど、歌うことは大好きだし、歌いはじめたら周りにはなにもなくなってしまうの。見えなくなるの。気にならなくなるの。不思議よね」

 おれはテレビのバラエティ番組などで活躍する相沢のりを見て、訓さんにこんな一面があったんやー、とか、人ゆうたら変わるもんなんやー、なんて思っていた。一方で、無理しとんちゃうかなー、などとも思っていた。ハッチやシュガーやカフェインも同じことを言っていた。

 お酒を飲みながら、お互いの家族のこと、友人のこと、高校を卒業してからのこと、過去の懐かしい話など、あたりさわりのない話をした。

 東京の夜は田舎と違って明るくにぎやかだ。しかし、時間の速さは変わらない。時間は刻々と進んでいった。

 話をしているうちに、頭の熱も竜巻も、胸の動悸も収まっていった。やがて、おれは奇妙な違和感を覚えはじめた。

 かつての訓さんは聞きじょうずだった。当時おれはあまりしゃべらない男子で、会話はいつも訓さんがリードしてくれた。「へぇー」「そうなんだー」「すごーい」「ふんふん、それで?」などのじょうずな相づちや合いの手に乗せられて、おれはよくしゃべった。つねに自分のことよりもおれの話を優先してくれた。おればかりじゃない、だれにだってそうだった。

 目の前の女性は自分の話を優先させた。おれの話をさえぎることはなかったが、話が途切れると自分のことを話した。女性は『相沢のり』であって、かつての『相澤訓子』ではないことにおれは気づいた。

 いつしかおれはきーちゃんのことを思いはじめた。今ごろなにしとんやろ、ごはんなに食べたかな、今度の休み、どこ遊びにいこうかな。相沢のりの話を聞きながら、失礼にもきーちゃんのことばかりを考えるようになっていた。

 夜も更け、かなりあったウィスキーもずいぶん減った。おれはまだ勉強するつもりでいたから、飲む量を控えていた。そのこともおれを驚かせた。

 話が途切れ、しばらくの沈黙のあと訓さんが突然言った。

「もう疲れたの…。昔の私に戻りたい……」

 おれは黙って聞くばかりだった。なにも言えなかった。

 続けて、訓さんは空になったコップを両手で包んで見つめたままつぶやくように言った。

「ね、昔みたいに付きあお。それで故郷に一緒に戻ろ。私、浩平君がやっぱり好きなの」

 もうお互いいい年ごろだ。この言葉はプロポーズに等しい。

 おれにとっては最高にうれしい話だった。かつて胸がつぶれるほどに思い恋焦がれた女性がやっと戻ってきてくれる。しかも、今絶頂の大スターが浜の真砂ほどいる男性の中からおれを選んでくれるのだ。こんな光栄なことはない。

 でも、遅い。遅すぎた。二人は変わった。訓さんは大スターになり『相澤のり』になった。おれは大学を卒業し就職する。きーちゃんというガールフレンドもいる。訓さんときーちゃん、二人を天秤にかけると訓さんはあっという間にころげ落ちてしまう。今夜の再会でそのことを確信した。

 これが三年前ならどれだけうれしかったことか。きーちゃんと再会する前だったらどれほど喜んだことか。

 “タイミング”――。おれは思った。いろんな物ごとの積み重ねで人生は構成される。その物ごと自体も重要だが、起こるタイミングもまた重要なのだ。その順番しだいで人生は大きく動く。三年の長くて短い月日は訓さんときーちゃんとおれの運命を大きく変えていた。

 おれは静かに言った。

「おれ、いや、僕にガールフレンドおるん、知っとるやろ?」

 訓さんは「うん」とうなずき、しばらくして「ハッチ君から聞いた…」

「そのガールフレンドが僕にとって大切な人やゆうことも聞いとるやろ?」

「…うん……」

 高校のときと同じように、今回のこともハッチにいろいろと相談したと言っていた。おれのアパートの場所を知ったのもそうだ。

 重苦しい時間を過ごしたあと、日が変わりおれたちはアパートを出た。

 東京の夜は相変わらず白く明るく、遠い喧騒が重低音で響いていた。大通りでタクシーをつかまえるために歩くおれたちに、冷たく強い北風が容赦なく吹きつけた。

 道すがら訓さんは寂しい表情で言った。

「お母さんがね、よく言うの。今やってることはあなたの本来の世界と違うんじゃないの、って。芸能界のことね。無理を続けていると、あなたが壊れてしまうって。確かに、私は人を押しのけて進んでいけるタイプじゃないし、そんなパワーもないしそんな希望も全然持ってないし。そんなことわかってる。でも、田舎から出てきたばかりの小娘を、周囲の大人たちが知らないうちにエスカレーターに強引に乗せて、降りることを許してくれなかった」

 高校時代、訓さんの家に遊びにいったとき、訓さんを少し小柄にしたそっくりなお母さんはいつもおれを歓待してくれた。訓さんは言っていた。「お母さんね、浩平君の大ファンなの。家に連れてこい連れてこいってうるさいの」

 二度夕食に呼ばれた。一度は泊りだった。もちろん変なことはしていない。別々の部屋で寝た。訓さんとおれの関係はせいぜいキス止まりだった。

 お母さんは情緒不安定な一人娘を心配して、上京してマンションで二人暮らしをしてめんどうを見ていると言った。話を聞いているあいだ、おれはお母さんの顔と声を思いだし、おばあちゃん、お父さんとの思い出にひたっていた。

「お母さんがね、最近浩平君の話題をよくするの。『あの子はよかったー』とか言って懐かしがるの。相変わらず大ファンなの」

 そう言っておれを見あげた。おれは見つめかえした。

「そんなこと言われても、もう遅いのにね。どうにもならないのにね」

 町でいちばん大きいといわれる工務店の一人娘で、読書と歌うことをこよなく愛し、おばあちゃんに編み物を、お母さんに料理を教わることが大好きな相澤訓子がおれの右隣にいた。ほくろから涙がとめどなく流れていた。行き交う人たちはだれも相沢のりに気づかなかった。

 最後に、寂しそうに微笑んでタクシーに乗った。おれはタクシーが見えなくなるまで見送った。

 それからしばらくして、相沢のりは芸能界を引退した。たいそうな騒ぎになり多くのファンが惜しんだが、本人の意志は固かった。理由は『体調不良』だったが、詳細をあきらかにしなかったからさまざまな憶測を呼んだ。

 以降マスコミに登場することはなくなった。ずいぶんたってから、K県の高校の音楽教師になったとの小さな記事を新聞で読んだ。やがて、同僚教師と結婚したことを風の便りで聞いた。

 

 きーちゃんは訓さんとおれとのことは当然知っていた。高校ハンドボール部四人組のうち、ハッチは茨城で、シュガーとおれは東京でいたから、ときどき会うときはきーちゃんも参加するようになっていた。カフェインは京都でいたが、おれが四国へ、きーちゃんが大阪に帰るときに一緒に会っていた。おれの高校時代の話になると、どうしても訓さんの話題は避けて通れなかった。

 きーちゃんとの日常会話で、テレビや雑誌などで訓さんを見かけると話題にのぼることはあった。が、訓さんがすっかり仰ぎ見るばかりの大スターになっていることもあって、きーちゃんは全然気にしていないようだった。訓さんとはなにも関係がないわけだから、気にする必要もなかった。

 訓さんと後日食事をしようということになっていた。ともに成長しすっかり大人になった。おいしい食事を食べお酒を飲みながら、昔を懐かしんでいろんな話をしたい。ほんのひととき、これで最後だから。それくらいいいでしょ、と提案された。

 おれとしても望むところだった。かつての恋人と思い出話にひたりたい、お互い空白の時期のことを聞きたい、知りたい、話したい、と思った。そのことできーちゃんへの思いが微塵も揺らぐことはない。おれは快諾した。

 おれはきーちゃんに今回のことをとくに話さなくてもいいと思っていた。アパートでおれははっきりと断り、訓さんもそれを受けいれた。現状に、きーちゃんとおれの関係になにも影響はない。それに、卒業を控えなにかと多忙な時期に、きーちゃんとのトラブルは避けたい気持ちがあった。べつになにもないのだから妙な波風を立てる必要はない、自分でそう結論付けた。

 きーちゃんも訓さん同様ハッチにいろんなことを相談していた。やはりわずか半年とはいえ小学校時代を共有したハッチが、シュガーやカフェインよりも相談しやすいようだった。頼りがいのある性格、キャラクターでもあるし。

 おれは就職して落ち着いたらきーちゃんにプロポーズすることをハッチには話していた。だから、ハッチはハッチなりにおれときーちゃんとのことを心配してくれ、また訓さんにおれの個人情報をあれこれ話したことに責任を感じていたのだろう。きーちゃんが別件でハッチに連絡をとったとき、訓さんがおれに会いたがっていること、住所を教えたことを話した。さすがに、よりを戻したがっていることまでは言わなかった。

 きーちゃんも『相沢のり』とコンタクトをとるとなれば心穏やかではいられなかったのだろう。ハッチから話を聞いてすぐにおれに会いにきた。おれが訓さんと会った翌日のことだ。

 最初はずいぶん焦った様子だったきーちゃんだったが、おれは昨夜の経緯をきちんと話し、おれの心が変わらないことを知って安心して帰っていった。それで、いったんは雨が降って地が固まった。

 ところが、『天網恢恢疎にして漏らさず』。悪いことは必ず白日の下にさらされる。

 訓さんとの食事の日、おれが出かけようとしたら仕事帰りのきーちゃんが偶然やってきた。おれがかねて読みたいと言っていた本が手に入り、たまたま近くへ来る用事があったから。いなければ本だけ置いて帰るつもりだった、と説明した。が、そんなことはそれまでになかったから、なにか虫の知らせがあったのだろうと思う。

 食事の場所は六本木のレストラン。おしゃれな店とのうわさを聞いていたから、就職用スーツとはいわないまでも、おれは一張羅のジャケットを羽織って出かけようとしていた。

 きーちゃんは怪訝な顔をして言った。

「どこに行くん?」

 おれは焦りもあってあいまいなことを言ったのだろう。今となってはなにを言ったか覚えていない。きーちゃんが、「部活の友だちなん?」とフォローしてくれた。

 おれは、うん、まあ、みたいなことを言って、次いでなにかの言葉を発っしようとした。すると、突然目の前の女性が激しい口調で言った。

「うそばっかし! なんであたしにうそつくん?」

 それから泣きはじめた。

 やのきよ時代にY島の海で二回、転校で別れるときの児童公園で一回、きーちゃんになっておれが告白したときに一回、このときはうれし泣きだった。五回目の涙だった。もっとも、きーちゃんに言わせれば三回目は泣いていないから、四回目ということになるのだが。

 おれはすべてを正直に話した。きーちゃんはすぐに納得し泣きやんだ。おれの懸命さを認め、信用してくれた。きげんは戻った。そして、早よ行かんと、とおれをせかした。

 それまでもおれのささやかなうそを見破ることはよくあった。うそとまではいえない。 “あいまいさ”といったほうがいいかもしれない。

 お昼、パスタと焼きそばとどちらがいい? と尋ねられたとき。ソースの香りを思いだして、4対6で焼きそばが食べたいなと思っても、おれはどちらも好きだし、この前焼きそばは食べたしパスタは久しぶりだし、パスタは作るの簡単だし、と考えているうちに、きーちゃんにパスタ? と確認されて、ま、えっか【いいか】、と思い「うん」と返事する。そんなときは焼きそばが出てきた。

 あのときも、『相沢のり』に会いに行くん? と尋ねられたら、おれは正直にうんと答えたはずだ。だれなん? と尋ねられてもきちんと答えたと思う。部活の友だち? と尋ねられて、女性に対する嫉妬の点では女子マネージャーもいるから同じことだろうと思ったことや、気がせいていることもあって、「うん、まあ、そんなもんや」と答えようとした。

 結婚してずいぶんたったある日のこと。

 土曜日の夜幼い子どもたちが寝静まったあと、おれたち夫婦はレンタルビデオで映画を見ることが楽しみになっていた。夫婦二人きりの水入らず、好きなお酒をチビリチビリ飲みながら、なにかおつまみを食べながら。おつまみはスナック菓子のこともあればせんべいやチーズやスモークサーモン、ときにはいただき物の地方名産のこともあった。

 昼間にきーちゃんから夜のつまみのことで、具体的な名前は忘れたが、A or Bで尋ねられた。おれはほんの少しだけBがよかったのだが、どちらでもいいので言われるままにAで首を縦に振った。夜にはBが出てきた。

 映画が終わったあと、何気なくおれは尋ねた。

「な、おれ、昼にAがええゆうたと思うけど、なんでか【なぜだか】Bが出てきたやんか。きーちゃん、おれの心が読めるんか?」

 きーちゃんは笑いながら答えた。

「うん」

 きーちゃんはハッピーエンドの映画を好む。というよりも、そうでない映画は見ない。とくに、エンディングに希望がない映画とか、ホラーなど怖いばかりとか気味が悪いとかばかりの映画は絶対に見ない。それと、映画への熱中度や好感度は酒量に正しく比例する。これらのことは年齢を重ねた今も変わらない。

 その日はかねてから見たかった古典のロマンティックコメディだった。きーちゃんのもっとも好きなジャンルだ。見終わったあと、けっこう酔っていた。ごきげんのきーちゃんが続けた。

「コーヘイ、わかりやすいもん」

 みんなによく言われることだった。おれは感情がすぐ顔や態度や口に出る、と周りの人々から言われていた。小さいときも中学高校のときも大学のときも、大人になってからも変わらない。それにしても、きーちゃんの場合は超能力のレベルだった。

 きーちゃんは氷が溶けきったオン・ザ・ロックを飲みほし、呂律のまわらない口調で言った。

「コーヘイ、気持ちとちがうことゆうとき、口が少しとんがって、目線が左下に落ちるもん。目が一瞬泳ぐ感じもあるし、その直前に左眉がピクッと動いたりもするし。それで、ゆうてることとちゃうねんな、ってわかる」

 あっ! おれは思った。それまでの思いあたるささやかな不思議な出来事に納得がいった。おれは平静をよそおって尋ねた。

「へぇー、自分で発見したんか?」

「ハッチに聞いてん」

 突然おれはゆかいになった。腹の底から静かな笑いがこみ上げてきた。

「なんで笑【わろ】とんの?」と、赤い顔をしたきーちゃんが尋ねた。

 そのときはなにも答えずに黙ってキスをした。長く濃厚なキスだ。それからおれたちはそのままソファの上でセックスをした。きーちゃんの場合、映画への熱中度や好感度は性欲にも正比例する。

 数ヶ月後、久しぶりにハッチと名古屋で会った。おれが大阪出張のときに途中下車した。

 そのときこの話をした。ハッチは悪びれることなく言った。

「やのきよが言ったのか?」

 うなずいたあと、おれは尋ねた。

「いつごろから知っとったん?」

「さあ、確か小学校三年の終わりころだと思う。なにがきっかけでわかったかは忘れた」

「そんなとっからか【ときからか】」と言いながら、おれがハッチのくじ運の悪さに気づいたのと同じ時期だと思った。

「ああ」

「…このこと、だれが知っとんや?」

「おれが話したのは相澤とやのきよだ」

「二人だけ?」

「ああ、二人だけだ。カフェインやシュガーにも話していない。あいつらも知らないと思う」

 黙っているおれにハッチは続けた。

「たとえばな、おまえが高一の二学期に相澤にあたって砕けていじけていたとき、おまえずっとあいつを避けていただろう。相澤から、おまえの私に対する気持ちを確認してくれと言われて、帰りの汽車の中で、おれが『相澤のことどう思っている?』と尋ねたら、おまえは『大嫌いだ』とか『あんなやつはもういない』みたいなこと言っていただろ。そんなときそのくせが出る。おまえはもう忘れているかもしれないが」

 忘れてなんかいなかった。そのときの会話や汽車の中の光景をまざまざと思いだした。

「それを伝えたら、相澤喜んでな。バレンタインの前のこと覚えてるか? おれのクラスのやつが相澤に告ると言って、おれがおまえの気持ちを確認したことあっただろ」

 はっきりと覚えていた。ハッチがそいつに相談されて、もしおれがまだ相澤のことを好きなんだったら協力しないと言っていた。

「あれ、うそやったんか」

「ああ。あのときもおまえ、相澤なんか忘れたなんて言っていたが、しっかりくせが出ていた。だからおれは相澤に言った。『だいじょうぶ。あいつはまだおまえのことが大好きだ』って。やっぱり相澤喜んでな」

 そっかー。そんなことがあって、訓さんはおれにチョコレートを持ってきたんかー。知らんかったー。

 おれはすべてが腑に落ちた。と同時に、高校一年の二月十四日部活終了後の自転車置き場での訓さんの姿を思いだしていた。十数年がたっていた。

「きーちゃんにはなんでゆうたん?」

 きーちゃんとおれが再会したあとは、訓さんのときのような紆余曲折はなかったはずだ。

「おまえ、モテてただろ。次から次へと女性が寄ってきて。当然やのきよはやきもきしていた。あいつは一途だから心配しなくていいって言っても聞かなくてな。それで教えて、ときどき確認してみろって言った」

 ああ、そういえば。ゆかちゃんのことどう思ってるん? とか、ありちゃんに気があるんちゃう? なんて尋ねたとき、顔をのぞきこんでやたらジロジロと見ていた。まじめな顔をして、目をクリクリさせながら。なにやっとんやろ、なんて思とったけど、おれにくせが出るかどうか見とったんや。そっかー。そうやったんやー。

 ハッチは最後に言った。

「怒っているのか?」

「えっ、なにを?」とおれは尋ねた。

「くせを黙っていたこと」

「全然。怒るわけないやん。怒ることちゃうし」

 そう。そのとおりだ。全然怒ることじゃない。そのことでおれになに一つ不都合は起こっていないし、不利益があったわけでもない。むしろそのことで、いつだっておれは楽しくおもしろくゆかいに過ごせた。おれの人生は充実していたし、カラフルに彩られた。訓さんのこともそうだし、きーちゃんのことも、それ以外のことだって。

 それもこれもハッチのおかげだ。きーちゃんや訓さんやシュガーやカフェイン、ほかの友人たちのおかげだ。みんなに見守られ、愛に包まれて、おれはしあわせに生きている。そして、きっとこれからもそうなのだろう。

 怒るなんてどんでもない。みんなには感謝しかない。ハッチに乾杯! きーちゃんや訓さんに乾杯! シュガーやカフェインやその他の友だちに乾杯! そんな気分だ。

 それからおれたちはブラジル・サンパウロに駐在したばかりのカフェインの話題になった。その日はおれの人生の中でも最高に楽しい一日になった。

 

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