九年後、大学生
九年後、大学生
おれとハッチは中学校に入学したとき、ささいな理由でハンドボール部に入った。二人とも勉強にも部活にもがんばり、M高に進学した。そこでもハンドボールを続け、中高合わせて六年間、エースのレフトバックとポストの名コンビとして活躍した。
おれは大学でも四年間プレーしたから、青春時代をずっとハンドボールとともに過ごしたことになる。さらには、大学でハンドボールをしていたことで妻と出会った。でもまあ、このことはハンドボールをしていなくても出会えたような気がしないでもない。
ハッチにいたっては中学時代から地域で注目の選手で、高校でも一年生五月からはやばやと試合に出はじめ総体で大活躍し、夏にはK県の国体高校選抜チームのエースを張った。ハンドボールの推薦入学で進学し、卒業後実業団でも十五年間プレーした。大学も就職もハンドボールのおかげだった。享年四十六歳だから、人生の半分以上をプレーしていたことになる。
おれは思う。小学校入学式のときハッチと出会っていなかったら、小学五年生で山崎君が転校してこなかったら、山崎君家【ち】に遊びにいってお父さんやお母さんと話をしなかったら、中学でハンドボール部に入らなかったら、おれの人生は大きく違っていたはずだ。
このことで、人生とはほんのささいな“偶然”に左右され、“偶然”が積み重なることで構成されることをおれは知った。そして、人は“偶然”の地層による人生の軌跡を振りかえり、“運命”だと言う。
高校入学式の日にもちょっとした偶然があり、おれの人生は大きく動いた。
入学式直後の教室でのオリエンテーションの時間に、おれは隣の列の女子に恋をした。あまりに突然の出来事で、まさに『Falling Love』の英語がピッタリだった。
その瞬間まで、おれにそんなものが訪れるなんて思っていなかった。てっきりテレビや本や雑誌の世界のことだと思っていた。
初めて味わう感情におれはとまどい、なにをしていいのかわからないままに一学期を悶々と過ごした。
夏休み、中学時代の友人たちとY島海水浴に行った。ほかの友人たちが沖で遊んでいるとき、ハッチと二人波打ち際に座って話した。おれは言った。
「おれなあ、自分がどなんしたらええんかわからんのや」
ハッチにだけはおれの恋を打ちあけていた。ハッチは言った。
「おまえがなにか変えたいんやったら、ウジウジ考えとってもしゃあないやろ【仕方ないだろう】」
そのとき、ふと水の中の一匹のヤドカリが目に入った。1cmにも満たないちっぽけな生物は押しよせる波に流されないように砂の上を踏んばり、ゆっくりとゆっくりと進んでいた。が、波の力が強くて後退していた。それでも懸命に前進しようとしていた。
ハッチは海に小石を投げながら続けて言った。
「なんか行動を起こさんと、先に行けんのちゃうか?」
おれは思った。そや、ウジウジ考えとってもしゃあない。おれらしない【おれらしくない】。おれの持ち味はそんなんやないやろ。
一学期の長い屈託が晴れた瞬間だった。
おれは意を決して二学期早々告白した。しかし、世の中そんなに甘くないし、そうそう自分の思いどおりにはなるものじゃない。みごとに撃沈した。
その夜眠る前、今晩中に地球が爆発しますように、もしくは天地が引っくりかえる大地震が起きますように、と心から祈りながら眠った。いつもどおり母ちゃんの怒声で目覚めたが、当然いつもと変わらない朝だった。世の中自分の思うとおりに進まないことをこのときも痛感した。
二学期からおれは急激に身長が伸びはじめた。と同時に、成績もハンドボールの技術も伸びはじめた。担任の先生は、人生の中でなんでも一気に伸びる時期があると言った。それが成長期だと。そんなもんなんやー、とおれは思うばかりだった。
不思議なことだが、女子にモテはじめた。
同じ汽車で通う他高の女子の告白を皮切りに、M高他高を問わず次々と女子から交際を申しこまれた。
うれしさよりもとまどいがまさった。だって、どう対処すればいいのか、“交際”ってなにをすればいいのかわからなかったから。
中におれが漠然とではあるが好意を持つ女子もいたから、言われるままに交際してみようかとも思った。『見る前に跳べ』はおれの真骨頂だったはずだ。しかし、おれの心の中には入学式の女子が相変わらず住みつづけていた。
年が明けて二月十四日、六個のチョコレートをもらった。朝、汽車の中で他高女子二人から、M高の靴箱に一個、午前中の休み時間に一個、昼休みに二個。義理チョコ以外のチョコをもらうことすらも初めてだったのに、しかも六個も。
チョコ好きのおれは驚きながらも喜んだ。喜びながらも驚いた。しかし、心が晴れることはなかった。入学式の女子からのチョコを心の片隅で期待していたからだ。年末以来少しずつではあるが、短いながらも会話をするようになっていたから。
部活終了後の部室で、ハッチがおれの首に腕をまわして言った。
「コーヘイ、あのな、このあと自転車置き場に行け」
「なにぃー、自転車置き場ぁー? なんでおれが自転」不満を言うおれをハッチが腕に力を入れてさえぎり、「いいから自転車置き場に行け。一人でな。おれの言うこと聞くんだ」
いつにないハッチの雰囲気におれは従わざるをえなかった。
「うん、わかった。行きます…」
その日はその冬いちばんの冷えこみだと天気予報で言っていた。寒い夜の自転車置き場でおれを待っていたのは入学式の女子だった。そこで手作りチョコレートと手紙をもらった。
一つの幼い恋が始まった。
女子の名前は相澤訓子【あいざわのりこ】。おれはまだ体が小さかったし、彼女がまじめ優等生キャラでおれが腕白いたずら小僧キャラ、くわえて四月生まれと三月生まれもあって、いつしかめんどう見のいいお姉さんとできの悪い弟の位置付けになった。おれは彼女を『訓【のり】さん』と、向こうはおれを『浩平君』と呼ぶようになった。
訓さんとのことでもハッチにはたいへん世話になった。
訓さんは言った。九月はあまりに突然の告白に驚いたことと、同じ中学の仲よしだった男子から強く交際を迫られていたことで頭が混乱して、とっさにおれのことを断ってしまった。しかし、もともとおれに好意を持っていたからすぐに後悔しはじめた。その後おれが勉強でも部活でも活躍するようになり、ますますおれへの思いはつのっていった。女子から告白されたとのうわさを聞いて焦った。
しかし、おれは天の岩戸に閉じこもったままで、話しかけてもろくに口もきいてくれない。それでハッチにいろいろと相談し、協力してもらった。訓さんが年末の昼休みにおれに話しかけてきたこととか、新年早々の放課後市立図書館の前で偶然出会ってM駅まで一緒に帰ったこととかはすべてハッチのお膳立てだった。バレンタインデーのことだってそうだ。話を聞いて、おれは思いあたることばかりだった。
ハンドボール部で活躍し、遊びはもっぱらアウトドア系男子と、図書部とコーラス部に所属し、母親からおかし作りを、祖母から編み物を教わるインドア系女子は、お互いを刺激しあい高校生活を謳歌した。校内でも有名なカップルになっていった。
自転車大好き男子は自転車乗れない女子を後部座席に乗せて、いろんなところにデートで行った。Y島にもピクニックや海水浴で行った。当時も二人乗りは禁止だったが、みんなあたり前にやっていた。今みたいに厳しく取りしまられることはなかった。
コーラス部女子は自転車の後ろで歌った。音楽大学声楽科を目指していることもあって、本格的な歌い方だった。男子は歌声に背中を押されて、自転車をいつまでもどこまでもこぎ続けた。そのことは永遠に続くと思われた。
男子は図書部の女子にいろんな本をすすめられ、読書をするようになった。女子は図書部の映画研究会の世話役もしており、定期試験が終わった節目などにT市に映画を見にいくようになった。読書と映画は男子の一生の趣味となった。
高校二年生の国語の教科書で、『けっして結ばれることのない切ない恋を初恋というならば、これはまさしく私の初恋である』と始まる随想があった。それを読んだとき、多くの初恋真っただ中の連中と同様に、おれのはちゃう【違う】、とか、例外もあるやろ、おれのがそうや、とか思った。しかし、残念ながらおれと訓さんとの恋もまさしく“初恋”にほかならなかった。
東京にある国立の工業大学を受験した。
それまで図太い神経のつもりでいたが、やはり緊張していたのだろう、最初の科目である数学の第一問の引っかけ問題にまんまと引っかかってしまった。そこで時間を浪費し、最後の五問目まで到達できなかった。その年は出題傾向が変わっており、一問目に難問がきて、五問目がサービス問題となっていた。
数学と理科で文系科目の低得点をカバーする作戦だったおれは受験に失敗し、浪人を余儀なくされた。M高からはもう一人受験していたが、そいつは最後の問題から解くという天邪鬼なやつで、みごとに合格を果たした。
一度でも上京して模擬試験を受けていたら、朝の国電が人身事故で大きく乱れず遅刻寸前になっていなかったら、数学の問題全体を始めにもう少し冷静に見ていれば、との“たら”とか“れば”はたくさんあるが、そんなものはなんの役にも立たない。『覆水は盆に返らない』し、『後悔は先に立たない』ことを知った。
訓さんは第一志望の音楽大学声楽科に合格した。上京する際、見送るおれに彼女は言った。
「先に東京に行って待ってるからね。応援してるから。がんばってね」
東京で一緒に学生生活を送ることを約束し、楽しみにしていた。
地元に残るおれを彼女は遠い場所から励ましつづけてくれた。まだインターネットやケータイなどない時代だ。たいてい手紙で、ときどき電話で。
時間の経過とともに、おれには彼女の変心がはっきりとわかった。彼女からの手紙や電話は目に見えて減っていき、内容は東京や大学や友人などの話題が増えていった。おれの全然知らない世界。おれとは関係ない将来の話も口にするようになった。
一方、おれからの話は受験勉強や高校時代のことや友人など、彼女にとって昔のことばかり。向こうの時間はきらびやかに高速で進んで、おれの時間はどんよりよどんで止まっているかに思えた。
手紙を出したあと電話を切ったあと、そのことを痛感し、寂しさと孤独を強烈に感じた。心の中を冷たい風が吹きすさび、不安で泣きさけびたい気持ちに襲われた。でも、どうしようもなかった。暗く重たく冷たい日々が続いた。
おれにできることはただ一つ。一所懸命に勉強して、捲土重来、リベンジを果たすだけだった。大学に合格して、上京するだけだった。そうすればもとの二人に戻れる、訓さんと楽しい東京生活を送ることができる、ひいては明るい未来をゲットできる、と強く固く信じて。
彼女は待っていてはくれなかった。
おれはがんばった。そして、みごと合格電報を手にしたおれは喜び勇んで彼女に電話した。深夜になってやっと電話に出た彼女にはずむ声で合格を報告した。
彼女は喜んでくれ、祝福してくれた。
「おめでとう! 浩平君、よくがんばったねー。すごいわ、おめでとう」
一年間待ち望んだ言葉が返ってきた。息せき切って準備していた言葉を言った。
「な、な、な、上京したら会お」
しかし、訓さんから返ってきた言葉はおれを奈落の底に突き落とした。
そのころ訓さんの生活環境が激変していたことはじゅうぶん承知していた。だからいやな予感は多分にあった。
高校二年のときに大ヒットした名曲『木綿のハンカチーフ』の男女逆バージョンだった。東京に行った訓さんが都会の絵の具に染まって、田舎に残ったおれから離れていった。ただそれだけの話だった。
おれが東京の大学に進んだことは訓さんとの約束もあったが、山崎君のお母さんの話の影響も大きかったと思う。乙姫様が話してくれた竜宮城をぜひとも見てみたい、おれもそこに住んでみたい、子どものころから強く思っていたことだった。そして、成長するにつれ、夢は現実的な希望へと変わっていった。
大学でも身長は伸びつづけ、ハッチには届かなかったものの180cmを超えた。ハンドボール部では入学早々大型ポストプレーヤーとして嘱望され、五月から試合に出はじめた。夏には一年生でただ一人レギュラーになり、秋には関東学生連盟の三部リーグとはいえ、優勝の原動力となり注目された。
難関国立大学、長身、スポーツマンということで、おれは引きつづき東京でもモテた。
キャンパスで、「今度合コンしませんか?」「デートしようよ」「彼女いるの?」
喫茶店で、「ここ空いてます? ご一緒していいですか?」
電車の中で、「どこに行くの? あら、偶然ねえ、私もなの。一緒に行かない?」
合コンで、「二次会、どこかに連れてって」「今度二人だけで会おうよ」
居酒屋で、「こっちのグループつまんないの。ね、二人だけでどこかに消えよっか」
大学生はもちろん、社会人、高校生、いろんな年齢の女性に声をかけられた。おれは思った。都会の女性ゆうたら積極的やなー。テレビや映画のまんまやー。
おれは何人かの女性と交際した。相手に誘われるままに遊園地や公園やおしゃれスポットへ行ったり、テレビや雑誌で紹介されたレストランや居酒屋でグルメしたり、美術館や博物館やコンサートに行ったり。念願の太平洋で泳いだりもした。
が、高校のときのように心がはずむこともときめくこともなかった。胸のどこかにポッカリと大きな穴が開いていて、うれしい楽しいおもしろいがすぐにこぼれ落ちていった。あとには空しい寂しい哀しいだけが残った。
無意識のうちに訓さんと比較してしまう。どの女性も訓さんの太陽の輝きには色あせて見えた。それで、どうしても相手を好きになれなかったし、のめりこめなかった。
交際しているうちに好きになれるかも、とも思ったが、しょせんテレビや映画や小説の中の話にすぎないと痛感した。自分はそんなタイプではないことがよくわかった。
おれの心に相変わらず住みつづける訓さんが、おれの目や耳や鼻や口や心をふさぎ、新しい恋をじゃましていたのだ。女性たちにはたいへん申しわけない話だが、どうしようもなかった。
すべておれ自身の心の問題だった。どうしていいのかわからず、おれは途方に暮れた。
もはやおれにとって東京は竜宮城ではなく、ひたすら大きいばかりでやたらと人の多いにぎやかなだけの街だった。故郷のあふれる自然や突き抜けるほどに真っ青な空や透きとおる海や、暗闇と静寂が支配する夜が懐かしかった。あこがれや期待の気持ちはいつしか落胆と失望に変わっていた。
訓さんはおれが浪人中の秋に、友人に推薦されて出た大学のミスコンテストで優勝し、しばらくして音大声楽科の現役学生歌手としてデビューした。著名なミュージシャンが提供したデビュー曲が大ヒットし、一気にブレークした。それはちょうどおれが大学に入って間もないころのことだった。
テレビに出演しはじめ、本格的なソプラノボイスに加え、愛くるしい顔立ち、聡明なトーク、それでいてはにかむ顔や控え目な態度がおくゆかしいと好感され、スター階段を怒涛の勢いで登っていった。
芸名は本名を少し簡素にした『相沢のり』。おれが大学一年の夏になるころには、いやでも一日のどこかで『相沢のり』の顔か名前を見るか、声を聞くようになっていた。
すでに手が届かない場所にいたのに、訓さんはますます天に昇っていった。雲の上の人となり、さらには宇宙で輝く存在になってしまった。
未練たっぷりのおれにとっては絶望的な状況だった。勉強やハンドボール、友人や女性との東京生活は一見順風満帆で華やかに見えたが、おれの心はいつもささくれ立っており、けっして満たされることはなかった。
とりわけおれの心をさいなんだのが“嫉妬心”だった。『相沢のり』の成功を祝福し、さらなる飛躍を祈念する気持ちにどうしてもなれなかった。昔の訓さんに戻っておれのところに帰ってきてほしい、それは取りも直さず訓さんの失敗を、不幸を願うことだっだ。そんなことを真剣に願う自身がいやでたまらなかった。
おれが大学生になっていたことはラッキーだった。これらのことが浪人時代に起こっていたら、おれはとてもまともに受験勉強に専念できなかっただろう。
一緒に浪人したシュガーが言っていた。
「コーヘイの受験直前は鬼気迫るもんがあった。うかつに話しかけられんような、触ればやけどするようなオーラが出とった」
そうだと思う。離れていくことがはっきりとわかる訓さんを心から閉めだすために、すべての窓や扉を閉じていた。すぐそこにある春を迎えいれるために必死だった。結果として、春は来たけれど、結局は来なかった。
そんな毎日が続いた晩秋のある日のことだった。
授業が一コマ空き、おれはキャンパスのベンチに寝っころがって文庫本を読んでいた。突然、若い女性の声を聞こえた。
「あのー、門司浩平さん、でしょうか?」
聞き覚えのない声だった。そりゃそうだ。でないと、こんな質問はしない。
秋のリーグ戦で優勝し、二部への昇格を決めていた。おれは一年生でMVPに選ばれ、ハンドボールの雑誌にも注目選手として取りあげられた。ちょっぴり有名人になったのか、たまに学内学外、男女を問わず知らない人から声をかけられるようになっていた。そんな連中の一人やろ、そう思った。
おれは上半身を起こした。目の前にまだ女性になりきっていない女子が立っていた。おれは答えた。
「はい、そやけど」
おれにはK県人としてより濃い血が流れているのだろう。いくら標準語をしゃべろうと努力しても、それで自分自身はしゃべっているつもりでも、みんなに笑われた。「すっごいなまってるー」「アハハハ、それ、どこの言葉なのー?」「今、なんて言った? もう一回言ってー」
部の宴会でも参加した合コンでも、必ずだれかがおれの物まね芸をして笑いをとった。
要はおれが根っからの田舎者ということなのだが、夏になるころには標準語をしゃべることをあきらめた。そのことがまた個性として、女子に受けモテていた。
「ほんだら【じゃあ】」とおれが言えば「ホンダワラの仲間なのー?」、「なんしょん【なにをやっているの】?」には「マンションでナンション?」、「そこにあるじゃろ【あるでしょう】」には「そこにアルマジロ」、「そうちゃう【そうと違うの】?」には「そうチャウチャウ犬」、「ホッコ【バカ、アホ】」には「だんだんよく鳴るホッコの太鼓」と返される始末だった。
たたずむ女子は背が高くスリムで、なにより透きとおるほどに色が白かった。真っ黒なおれとは対照的。白ぉー、どなんしたらこんな白なるんやー。それが第一印象だった。
やさしそうに垂れさがった細い眉、つぶらで愛くるしい目、小さくて形のいい鼻、ふっくら柔らかそうな唇。ふくよかな頬はリスを思わせた。
まじまじと顔を見つめるおれに女子は言った。
「うちのこと、わからん? 思いださん?」と、今度は関西弁でしゃべった。
首をひねるおれに女性は続けた。
「昔、S市で会ったことあるんやけど」
上京して七ヶ月あまり、それなりに生活にも言葉にも慣れ、人にも女性にも慣れていたおれはここでボケた。
「うん? 庄司敏江さん?」
S市出身の当時人気絶頂だったどつき漫才の女性の名を言った。それくらいのことが言えるくらいにはなっていた。
「アハハハハハハ」
突然大きな口を開け、のども奥歯もあけすけにして笑った。大きな声が秋の青空にこだました。妙齢のかわいい女子がそんな大笑いをしておれは驚いた。
これでわかった。
「あー、やのきよ? やのきよか。おまえ、やのきよ?」
おれはベンチから跳ね起きた。
「うん、そう。わかってくれた?」
女子はそう言って、目を輝かせた。クリクリクリッ。
この目をはっきりと思いだし、やのきよを確信した。小学六年、中学一、二、三年、高校一、二、三年、浪人一年の八年と半年あまりの再会だった。
やのきよは大きく変わっていた。背は昔から高かったが、さらに伸びたようだ。170cmはないだろうが、160cm台後半はじゅうぶんありそうだった。
縦よりも横だ。いかにも健康そうなポッチャリ太目だったのに、ほっそりスリムになっていた。田舎娘丸出しだった顔も、薄っすら化粧までして今風の都会美人になっていた。声もハスキーはなくなり、低音気味の柔らかいマイルドな声になっていた。
失礼ながら、おれはいも虫からさなぎになり、脱皮した可憐な蝶を思った。白系の衣装だったから、さながら紋白蝶だ。小学生のころからは想像もつかない。でも、色白の肌、クリクリッとした目、プックラした頬、少し低音の声などに面影は残っていた。やっぱりやのきよだった。
おれはベンチに座りなおし、空いたところを右手でたたいた。紋白蝶はそこに止まった。それから話が始まった。
まずお互いの息災を称えあった。次いで家族の話になった。おれは中学のときばあちゃんが亡くなったこと、兄ちゃんが東大を卒業して官僚になり、今沖縄県に出向していること、洋子がS高に進学して今年受験であることを話した。
やのきよはおれの家に何度か遊びにきていて、ばあちゃんとも兄ちゃんとも何度か会っていた。兄ちゃんは口をきかなかったけれど。二歳下の洋子とは仲がよかった。ばあちゃんを懐かしがると同時にお悔やみを言い、兄ちゃんのことは驚いた。
「ヘェー、あのあんちゃん、そんな賢かったんやー。知らんかったー」
おれだって知らなかった。よく勉強しているとは思っていたが、東大を受験すると聞いて驚いた。現役で合格して、また驚いた。
次に、洋子のことについて二、三質問した。
やのきよは、どうしても今いる女子大学で栄養学を勉強したくて無理を言って上京したこと、母親が大阪で一人暮らしをしていることを言った。父親に関しては、今どうやって暮らしているのかよくわからないと明るい口調で言った。
それから小学校時代の友人の話になった。おれは知っていることを短い時間で話した。
話題が一段落するや、おれは尋ねた。
「なんでおれ、いや、僕のこと、わかったん? この大学でおること知ったん?」
概要はこうだった。
おれとハッチが中学でハンドボール部に入ったことは風の便りで知っていた。でも、高校でも続けていたことは知らなかった。
二週間ほど前に本屋に寄ったとき、棚にあるハンドボールの月刊誌を何気なく手にした。その雑誌を今まで手に取ったことはなかったにもかかわらず。
ページをパラパラとめくっていると、最初のカラーページが終わって突然開いたページで『門司浩平』の名前と写真が目に飛びこんできた。見ると、関東三部リーグ秋季大会の成績がのっていた。
「そのページが突然開いて、『門司浩平』が目に飛びこんできたんや。すごいやろ、運命的やろ」と、少々興奮気味に言った。
いったん消息がわかり身近にいることを知ると無性に会いたくなった。それである日おれの大学のキャンパスにやってきた。が、キャンパスが広大なうえ、おおぜいの学生がいてそうそう都合よく出会えるはずもなく、その日は帰った。
考えてみれば、部活の練習に行けば会えると思い、また出なおした。ハンドボール部の練習の場所とスケジュールを聞こうと学生課に行ったら、親切な職員が理由を尋ねてきた。わけを話したら、その日おれが履修している授業と教室を教えてくれた。
個人情報にうるさい今ならまずありえない話だ。
それで歩いてきたら、ベンチに寝っころがっていた男子が妙に気になった。寝ころがっている顔を見るとかつてのおれの面影があるような気がするが、体が大きすぎる。あのチビ助がこんなに大きくなっているはずがない、でもお父さんとあんちゃんは大きかったからひょっとしたら、などとあれこれ思いめぐらせながら周りをうろうろしていた。
決め手になったのは口だった。途中で口をとんがらせる仕草をした。おれが集中したときのくせだ。ちょうど本が佳境に入ったときだった。それを見て、勇気を出して声をかけた。
「そしたら大あたり! すごいやろ、赤い糸に導かれたんや」
改めておれを頭のてっぺんからつま先まで眺めて、やのきよは言った。
「それにしてもコーヘイ変わったなー」
それはこちらの台詞だったが、そのことは言わず、「どこが?」と、おれは空とぼけて言った。「おれ、なんも変わっとらんよ」
「背がこんなに高【たこ】なった。昔、こんなにチビ助やったのに」と、親指と人差し指を3cmくらい開けて見せた。
「それ、どんなチビ助や。一寸法師か、おれは」とボケたら、
「アハハハハ」大きな口を開けて笑った。
「な、今どんくらいあるん?」
「181cm」
「ヘェー」
「ハッチはどんくらい大きなったん?」
「183cm」
「そうなんやー。ちっちゃいときから大きかったけどなー」
雑誌にはハッチの名前ものっていたと言った。
「それに、コーヘイ、すごう【すごく】かっこようなった」
「そんなことない」
「ううん、そんなことある。絶対にかっこようなった。な、な、な、女子にモテるやろ」
「全然」
「うそ。うそばっかしゆうて」と、おれを横目でにらんだ。
話をしているうちに『門司さん』はすぐに『門司君』になり、はやばやと昔の呼び方の『コーヘイ』になっていた。たぶん十分とかかっていなかったと思う。
おれは話に夢中になって会話し、腹の底から笑っていた。途中そのことに気づいたとき、心の中の降りつもった雪が溶けはじめていることに気づき、それで心が軽く温かくなっていることを実感した。見あげると、青空は高く澄んでいた。
おれとやのきよは時間をたつのも忘れて話しこんだ。ふと気づくと、次の授業が始まる寸前だった。
おれはあわてて席を立ち、
「今晩なんか予定ある?」
「ううん、とくにない」
おれは待ち合わせ時間と場所を伝え、やのきよがうなずくや教室に向かって駆けだした。途中、その夜女性と約束していたことを思いだしてスピードを落としかけたが、すぐにトップスピードに戻した。授業にはなんとか間に合った。
ここでもささやかな一つの偶然で、おれの運命がゴトリと大きな音を立てて動いた。やのきよがおれがハンドボールを始めたことを知らなかったら、おれが大学でもハンドボールを続けていなかったら、リーグで優勝しなかったら、たまたま本屋で雑誌を手に取らなかったら、ページが開かなかったら、見逃していたら、こんな出会いはなかった。
かもしれないし、やっぱり出会ったのかもしれない。それはわからない。
そもそもやのきよが東京の女子大に来ていなかったら、おれがこの大学に入らなかったら、おれが浪人しなかったら、訓さんにフラれていなかったら。
たくさんの偶然が重なって二人は再会した。このことを簡単に表せる便利な言葉をやのきよはすでに言っていた。それは“運命”であり“赤い糸”だ。
やのきよとおれは再会したときに恋に落ちた。というよりも、おそらく忘れていた恋を思いだしたのだ。
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