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水面(みなも)は冷ややかに凪ぐ  作者: ちとせ鶫
終章

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終章 水面は冷ややかに凪ぐ

祭りの熱が過ぎたあとにも、人は同じ場所へ戻ってくる。

変わったのは季節なのか、距離なのか、それとも視線の置き方なのか。

静かな図書室で重なる三人の時間を、十一月の光とともに綴りました。

 十一月の図書室には、光の質が変わっていた。


 夏の鋭角から低くなった陽が、窓ガラスを斜めに突き抜けて、

 書棚の背表紙をまとめて橙に染める。


 志乃はいつもの席——窓際の、最も端の椅子——に腰を落ち着けた。

 文庫本を開く。左手の親指を、第三章と第四章のあいだに差し込んだまま、

 ページをめくらなかった。


 外では、潮の匂いを含んだ風が松の枝を揺らしていた。


(文庫本のタイトルは『銀河鉄道の夜』——カバーの角が少し折れており、持ち主の長年の癖が刷り込まれた折れ方だった。)


 ページの端を押さえる右手の人差し指と中指は、

 しかし、以前とは微かに違う位置にあった。

 爪の下の皮膚が白くなるほど力を込めていたあの感触が、今日はない。

 紙の繊維がわずかに逃げる程度の、それだけの重さ。


 志乃はそのことに、気づいていなかった。

 あるいは、気づいていたが、名づけることをしなかった。


     * * *


 漣が図書室に入ってきたのは、放課後の鐘から十七分後のことだった。


 相変わらず、第一ボタンを外したままだ。

 着崩した制服の端が微かにひるがえって、

 棚の角に引っかかる寸前でするりと躱される。

 漣はそういう人間だった。

 ぶつかりそうで、最後の瞬間にだけ軌道を変える。

 志乃は視線を活字に戻した。


「また来た」


 声ではなく、靴の音で気づいた。

 軽い、迷いのない足音。

 志乃の隣のテーブル——隣の席ではない、

 もう一つ間を空けたテーブル——に漣は椅子を引いた。


 その距離を、漣は学習している。


 何も言わずに、漣は何かの本を広げた。

 志乃は視界の端で、それがまっとうに読まれていないことを知っていたが、

 それを指摘する必要もなかった。

 漣の目は活字を滑っているのではなく、窓の外の方角をぼんやりと見ていた。

 海は見えない。

 松林の向こうに、水平線の気配だけがある。


 数ページ、本物の沈黙が続いた。


「文化祭、遠くなったな」


 漣が言った。

 志乃はページをめくった。

 返事をしなかった。

 けれど、右手の指がほんの僅かに、紙から離れた。


 「遠くなった」は正確ではない、と志乃は思った。

 沈んだのだ。青凪祭の熱狂も、椅子を引いた音も、

 あの夜廊下の灯りを横切った陽葵の横顔も——全部、底に沈んでいる。

 澱のように。

 光を通さない質量として。


 ただし、水は透明なままだ。


     * * *


 陽葵が来たのは、それからさらに二十分後だった。


 図書室の戸口で一瞬だけ止まったことを、

 志乃はページから目を離さずに察知した。

 足音の種類が違う——ためらいの入った、均等でない間隔。

 以前の陽葵は、どんな場所にも同じ明るさで踏み込んできた。

 今の陽葵の足音には、わずかに余白がある。


 志乃の向かい側の、二席分空けた場所に、陽葵は座った。


「志乃」

 

 名前を呼ぶとき、陽葵はもう「さん」をつけない。

 文化祭の後、一度だけ廊下で交わした会話の中で、陽葵が自分でそれを外した。

 説明も謝罪もなかった。

 ただそうなった。

 志乃はそれを訂正しなかった。


「......何を読んでるの?」

「知ってる話」

「何回も読むの?」

「知ってるから、読める」


 陽葵は小さく息を吐いた。

 笑ったのか、溜息をついたのか、志乃には判定する気がなかった。

 ページに視線を戻す。


 しかし、陽葵が次に動いたとき、志乃は反射的に顔を上げた。


 陽葵の右手が、自分の左手首をつかんでいた。

 つかんでいた、というより、そっと包んでいた。

 力のない、確認するだけの接触。

 陽葵の視線は志乃ではなく、窓の外に向いていた。

 光の中に、潮の匂いがある方角。


「ありがとう、って言いたかっただけ」


 志乃は返事をしなかった。


 陽葵の手が離れた。志乃は文庫本に視線を落とした。

 ページの上に、窓からの光が細長く伸びていた。


     * * *


 三人が同じ図書室にいる時間は、三十分で終わった。


 漣が先に立ち上がって、「じゃあ」とだけ言った。

 陽葵が後を追うように荷物をまとめた。

 出口で二人が並ぶ一瞬——漣が何か囁いて、陽葵が肩で笑った——それきり、

 戸が閉まった。


 足音が遠ざかり、図書室に静寂が戻った。


 志乃は、ページをめくった。


 活字は進んだ。

 カムパネルラが川に入っていく場面。ジョバンニが岸から呼ぶ声が、

 どこにも届かない場面。

 志乃はその箇所を、すでに何度も読んでいた。何度読んでも、場面は変わらない。 

 川は冷たく、少年は沈む。ジョバンニの声は、星の光の中に散っていく。


 窓の外で、松の枝がまた揺れた。


 志乃の右手の指が、ページの端に触れていた。

 爪の先が白くなる直前の力で。

 けれど、何かを確かめるように、

 人差し指だけが、少しだけ、紙から浮いた。


 浮いたまま、止まった。


     * * *


 帰り道、志乃は海沿いの道を選ばなかった。


 いつもは選ばない、松林の内側の細道を歩いた。

 特に理由はなかった。

 ただそちらの方が、今日の光の角度に合っていた。

 鞄の中で、文庫本が揺れた。

 ページを押さえていた指の感触が、

 まだ右手の指の腹にわずかに残っている。


 細道の途中で、潮風が吹いた。


 前から吹いた風が、髪を横に流した。

 志乃は目を細めた。

 止まらなかった。

 風の中を、そのまま歩いた。


 足の裏に、砂利の角の感触が伝わってきた。


 ひとつひとつ、確かにそこにある。


     * * *


 夜、志乃は机に向かって、

 開いた文庫本をまた同じページで止めた。


 ジョバンニの声は、どこにも届かない。

 けれど志乃はこの場面を、悲しいとは思わなかった。

 届かないことを知っていながら呼ぶことを——その動作の純粋さだけを、

 いつも読んでいた。


 文庫本を閉じる前に、志乃は一度、栞を挟んだ。


 栞は、手作りのものだった。

 厚紙を細く切って、インクで細い線を一本引いただけの。

 誰かに作ってもらったものでも、買ったものでもない。

 いつ作ったのか、もう覚えていない。

 ただ、この本にはずっと、これを挟んでいる。


 本を閉じた。


 右手を、表紙の上に置いた。


 力を込めなかった。


 表紙の布地の凹凸が、掌に伝わってくるだけの、

 それだけの重さで、志乃は手を置いていた。


 窓の外は暗く、潮の匂いはもうしない。

 松の枝は今夜、動いていなかった。


     * * *


 水は、凪いでいた。


 底に沈んだものは、沈んだままだ。


 透明は、透明のままだ。


 ただ、波を受け入れることと、波に飲まれることは、別のことだと——

 志乃は今日、また知った。


 変わったのではない。


 選んだのだ。


 水のように冷やかに。


                     — 了 —

言葉にしなくても続いていく関係があります。

志乃は最後まで“大きく変わる”ことはありません。けれど、波を拒まないことを選び始めています。

落ち葉のように静かに積み重なる時間を、感じてもらえたなら嬉しいです。


「水のようにひややかに、風のようにしなやかに、そして光と影はあざやかに。」


ここまでのご拝読に、最高の感謝を。

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