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9.また元気で


「俺、疲れちゃった」


 ああ、そうそう。こんなことをノールは最初に出会ってから言っていた。

 すっかり美術館で絵画鑑賞するみたいに、額縁に肘をついて顔を覗かせる。

 今、ノールが二人だったのが一人になって、わたくしが泡を吹いて倒れましたわね。

 そうして、がつんと地面の石に強かにぶつかった……わたくし、この時、打ちどころが悪くて死んだのね。

 この現場を誰にも見られてなくてよかったこと。わたくし、すっごく間抜けじゃないですの。淑女が台無し。


「よいしょ」


 声を上げてまた額縁から離れる。

 相変わらず上には懐中時計が浮かんでいる。でも、行ったり戻ったりはなくなって、静かに動かなくなっていた。変化が起きたのか、わたくしの現実の意識が戻るとか、そんな予兆かしら。

 考えながら先に進む。

 ここから先は、ノールの絵画がぽつぽつと並んでいる。けれど残念なことに、わたくしが覗きこんでも中に入って記憶を見ることはできなかった。

 まあ、夢だとしても想像するしかないですものね。

 それにしても、ノールの絵画はちっとも楽しそうに見えない。

 全体的に疲労感と哀愁が漂っていますわよ。もうちょっとどうにかならなかったのかしら。そんな面ばかりじゃないでしょう。

 わたくしのノールの像がそうなのかしら。


「まあ、大きくなるとこうなるのね」


 でも成長図や小さな姿も見られてお得かもしれない。

 わたくしの頭のノール予想、やるではないの。

 今見た絵画は、真面目に研究しているのか傍らに大量の本とインク壺をならべている姿だ。渋みを感じさせる目元の皺がなかなかによい。

 ふむふむ、と鑑賞して先に行く。


 それからしばらく進むと、宝石箱の絵画があった。

 人物は一切描かれていない。でかでかと鍵の掛けられたシンプルな小箱の絵。

 誰もいないことをいいことに、触れてみる。

 すると、声がした。

 ――行くな。戻るな。シグ、お願い。かえって、きて。


 ついで、ぐっと手が握られた感触がした。

 ぽたっと肌に何か触れた。水が落ちたみたいな感覚。きょろきょろと辺りを見回すと何もない真っ暗な空からぽたぽたと水が落ちてきた。

 頬にぽつり。大粒の水滴。

 冷たいというより、温かい。

 また、ぐっと手が握られた。というより、引っ張られた。


「なるほど、お目覚めということね!」


 なんとなく、直観でわかりましたわ。

 わたくし、たしかひどい状態だったかもしれないから、ノールが驚いて泣いているのだわ。きっとそう。

 怒ってそうですわね。でも、致し方ないこと。あれで大逆転のしっぺ返しは成り立ったはずです。

 まあ、でも。

 目覚める前に言い訳でも一応考えようかしら。

 けれど、さらにわたくしを急かすように腕が引かれた。絵画の宝箱はいつの間にか鍵が開いて大きく開いている。

 駄目押しとばかりにわたくしの耳元に、泣きそうな名前を呼ぶ声がした。


「もう、仕方ないですわねえ!」


 わたくしはドレスの袖をまくって、勇ましく絵画へと突撃した。




 瞬間。

 ぱち、と目が開くと知らないようでなんとなく見覚えのある天井があった。

 あら、これ、リリネットお姉様のお部屋では?

 公爵家の高嶺の花。わたくしの敬愛すべき従姉。リリネットお姉様のお部屋では!?


「お姉様のお部屋!」

「第一声がそれかあ」


 かすかすのかすれ声で、恨みっぽく言われた。すぐ傍で、ノールがベッドサイドに突っ伏している。

 ついで、ころころと上品で心地の良い楽器のような音色の笑い声がした。


「ふふ、ほほほ! ああシグ、あたくしのお砂糖ちゃん。よかった!」


 リリネットお姉様がひょこりとわたくしの視界に現れて、ノールを押しのけた。

 ぎゅうと柔らかに抱きしめられる。でもすぐに離された。


「ふふふ、あたくし気分がとっても良いわ。ノエルク、後は時間を貸してあげましょう」

「……お気遣い、感謝します」

「ではね、シグ。また後で。ゆっくり休んでちょうだい」


 わたくしの頬を撫でて微笑むと、リリネットお姉様は心なしかうきうきと部屋から歩いて出て行った。

 どういうことかしら。でもお姉様が嬉しそうでわたくしも嬉しい。

 にこにこしていたら、ぐりんと顔を強制的にノールのほうに向けられた。


「シグ、俺に言うことは」

「ノールがいるなら大丈夫だと思いました。やっぱり大丈夫でしたわね!」

「そうじゃない……!」


 ノールったらシーツに頭をうつぶせて。埃が舞うじゃない。

 ぽんぽんと後ろ頭を軽く叩く。ぼさぼさと艶のない髪が適当にまとめられているのが目に入ってしまった。よくこれでリリネットお姉様の前に出られたものね。

 そうっと手を伸ばして髪を編み直していると、うつぶせたままのノールに腕を掴まれた。


「俺、俺が、どれだけっ……う、うぁ……あああ、無事で、よか、よかっ……ああ、あああ」


 そしてそのまま泣き出してしまった。言葉尻がきちんとした言葉になっていないくらい崩れている。

 さすがのわたくしでもわかっている。それにノールにひどく心配かけていたのも。

 いや、ですけど、ナイフに毒か薬を仕込んだあちら側が悪いですわよ。わたくし、頑張ったもの。

 でも、やっぱりわたくしやりすぎたのかしら。

 ぐるぐると考えている間も、目の前のノールは身も世もなくわあわあと泣いている。

 どうしましょう。すごく心が痛む。


「ノール」


 言いながら、鼻の奥がつんとした。おかしい、淑女の仮面がうまくできない。

 ぽろ、と涙がこぼれた。


「ノール、ありがとう」


 鼻を啜って、しゃくって、ノールはわたくしに両手を伸ばした。わたくしもノールによっていって、手を広げる。

 それから、一緒に声を上げて泣いてしまった。ノールの涙が移ったのだわ。だって、こんなの、立派な十歳の乙女の泣き顔じゃないもの。



 ひとしきり泣きはらした後。

 ベッドサイドに二人並んで座る。

 袖口で目元を擦って、息を整えているとノールがぽつりと小さな声で言った。


「あのさ、今度こそはどうにか、俺も頑張るから」

「頑張るって、ノールは頑張っていたのではないの?」

「そうだけどそうじゃなくて。シグが、そんな覚悟をしなくてもいいようにするから」


 ベッドサイドについていた片手にノールの手が重なる。まるで形を確かめるみたいに触れて、しっかり握られた。


「もう見たくない。今の君が、シグが、俺の前からいなくなるのは嫌だ。胸がつぶれるより、もっとしんどい」

「わたくしのあの時の気持ちがわかった?」

「すごく。意趣返しだったら、どうしようと思うほど」

「そんなわけないでしょう」


 疑いの目を向けるのはどうなの。わたくしほど正直に生きる女はいなくてよ。

 見つめ返せば、ふい、と逸らされた。ノールは自分の足先を見つめるようにして、言葉を続けた。


「いや……実際、君は俺にそれくらいしたっていいんだ。俺が恨むのはお門違いだし」


 また何を言うのかしら。なんでもかんでも自分のせいと言うのはノールの悪いところですわよ。

 わたくしが否定をするより先に、ノールは「聞いてほしい」と言った。


「前にさ、懐中時計で人生をやり直すって話、しただろ。わからないことがあるだろうけど、シグに聞いてほしい」

「それはなんのため?」

「本当に俺で良いのかって確認のため。俺は、私利私欲でステージセレクトやループコマンドを使って、弄って、この世界をおかしくした。条件の終わりを一応つけたはずだけど、もう定かじゃなくなった。今の今まで達成もできてない。だから繰り返した」


 バグとやらの話かしら。わからない言葉が早速出てきたけれど、ノールが聞いてと言ったので、大人しく続きを待つ。


「バグは他の人には見えないけど、俺には見えるようになった」

「ノールがその懐中時計を弄ったせいで?」

「それもあるけど。前に言ったろ。万能感で好き勝手できるかもって試したんだ。確かな技術でもないのに」


 重苦しく息を吐いて、ノールは言葉を迷い迷い探すみたいに紡いだ。


「それで、ある日、起きたら使用人が意味の分からない言葉を話すのに気づいた。道行く人の顔が違う顔とくっついている。家族のテクスチャが、意味不明の物体になる。でも、みんな気づいてない」


 確かにノールの言うバグは、わたくしにも見えない。ノールが一人で怯えて不安がっているようにしか見えない。今も見えているのかしら。

 ぎゅうと絡まる指先に力がわずかに入る。


「俺だけがおかしいんだ。俺はただ黙って耐えれば、問題なく過ごせる。でも、あの夜会の場だけは駄目だ。あの森に俺がいるのを見つけてから駄目になった。同じ世界に同一の存在は成立しない。しちゃいけない。世界が駄目になる」

「駄目になるって、たとえば?」

「空ががらんどうになって、あるべき景色が何もなくなる。料理の乗った食器を落としたら、台無しになるだろう。そんな感じで、整わなくなるというか……だから取るべき行動はいつも一つだった」


 唇をゆるく噛んで、ノールは目を伏せた。静かに呼吸を挟んで、やがて薄く目を開く。


「俺は、俺を殺す。殺して、同一の存在をなかったことにして、一人であったと定義づける。それで世界を少しだけましにする。それを何度も繰り返した。シグが、手を差し伸べてくれるような良い人間じゃあ、俺は決してない」


 否定の言葉を言うわりに、ノールの手はわたくしの手を離さなかった。震えていても留まるようにわたくしに縋りついているようだった。


「それでも」


 ノールはわたくしを見て、繋いだ手を取ってもう片手で包み込んだ。


「……それでも、シグは俺といてくれる?」

「そこは、一緒に生きようか愛していると言いなさい」


 深緑色の揺れる眼差しとしっかり合わせて、自信たっぷりにわたくしは言ってのけた。


「わたくしの愛をこれほどまでに受けて、まだ疑うその性根はどうなのかしら」

「そっ、そんなつもりはない。すごく好かれてるなとわかってるし、でも、やっぱり駄目なことをしでかしたらいくらシグでも嫌になるだろうと思って。やったことはなくならないし」


 早口であれこれ言いつらうのは男らしくなくてよ。

 おろおろと言いつつも、ノールに握られた手はびくりともしない。言葉と態度と行動がちぐはぐで呆れてしまう。


「ノール、わたくしの性格、わかっているでしょう? こういうときはなんて言うの」


 問いかけると、ノールはぴたりと口を閉じて神妙な顔をした。じわじわと赤くなった顔のまま、しっかりとわたくしを見つめて言った。


「こんな俺ですが、見捨てないでください。シグが好きだ。いなくなったら耐えられない」

「わかっているではないの! もう!」


 手を引いて抱き着こうとしたけれど、握られっぱなしだったのでそのまま体をノールに預けた。

 勢いがつきすぎて二人してベッドの上に転がる。その拍子で見合って、なんだかおかしくなって、ころころと二人で遊ぶように転がっていく。


「う、いっだ!」

「あっだァ!」


 そしてごつんと二人してベッドの柱に頭をぶつけたのだった。



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