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善人を殺さないとレベルが上がらない世界で、僕は“最悪の英雄”になる  作者: 妙原奇天


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第1話 善人を殺せば英雄になれる

 辺境の草原に、村は点のようにあった。風が強い日には、家々の壁に塗った土が少しずつ削られる。雨の多い年には、畑の畝が崩れる。そんな程度の揺らぎはあるが、村は続いてきた。続けるために、村人は正しく振る舞ってきた。


 正しさは、この世界では技能に近い。学び、身につけ、手順を覚え、失敗しないことが価値になる。


 朝、広場に机が並べられた。粗い板を脚に打ちつけただけの机だ。普段は祭りの日か、収穫の取りまとめの日にしか出ない。それが今日は、日の高いうちから出ていた。


 村人は、机の上に布を敷き、籠を置き、壺を並べた。籠には干し肉、乾パン、塩、豆。壺には油と酒。布の上には薬草の束がきちんと揃えられている。余りものではない。村の備蓄の一部を前もって出したのだ。


 これも手順のひとつだった。来訪者が持ってくるものだけを待つのは失礼になる。失礼は善性を疑われる。疑われれば、村の扱いが変わる。扱いが変われば、次の冬の配給が変わる。変わった配給は人を殺す。


 遠くから馬蹄の音が来た。近づくほどに数が分かる。四、五、いや、十に近い。荷馬車の車輪も混じっている。聖教会の旗が風に乗って見えた。白地に光輪の紋。縁取りが金色で、日差しを跳ね返す。


 勇者一行が来る。


 村の子どもたちは最初にそれを見つけるが、叫ばない。叫ぶのは喜びだからではない。喜びは声に出すものだと教えられているからだ。だが今日は、声を出してはいけないと母に言われていた。母は理由を説明しない。ただ、頭を撫で、口に指を当てた。子どもはうなずく。うなずけるように躾けられている。


 村人は広場に集まった。男は帽子を取り、女は髪をまとめ直し、老人は背を伸ばすふりをした。村長が前に出る。村長は杖を持っているが、杖を地面に強く打つことはしない。音を立てれば、緊張が露骨になる。露骨な緊張は、悪意と誤解されることがある。


 馬が止まり、鎧が擦れ、荷馬車がきしんだ。先頭の男が降りる。白い鎧に赤い外套。顔立ちは整っていて、眼差しは穏やかだった。穏やかな眼差しは、正しい人間の証拠として受け取られやすい。


 男の名はレオンだと噂されていた。噂は正確ではないことが多いが、勇者の名に関しては正確であることが多い。名を覚えることが忠誠の表現になるからだ。


 レオンは村長の前に立った。背丈は村長より一回り大きい。影が村長を覆う。村長はその影に頭を下げた。


「 ようこそ、勇者さま。辺境の村までお越しいただき、光栄にございます」


 レオンは笑った。笑顔に棘はない。棘がないからこそ、刃物のように扱われる。


「 協力に感謝する。君たちの善意は、世界の均衡を支える」


 村人の何人かが泣いた。泣くのは怖いからではない。怖いことは知っている。知っていて泣く。泣くことが善意の表現になるからだ。善意を示すことは、生存の手続きだ。


 神官が荷馬車から降り、籠を開けた。村が用意した籠ではない。教会が持ってきた籠だ。中には白い粉と布と小さな瓶がある。瓶には透明な液体。粉は塩ではない。布は包帯でもない。村人はそれを見て、目を伏せた。目を伏せるのも手順だ。


 レオンは布の上に食料を置いた。干し肉の束を一つ、乾パンを二袋、豆を一袋、塩を小瓶で二つ。薬草もいくつか。村の子どもに向けて、果物の干し片を渡す。子どもは反射で手を伸ばしかけ、母に袖を引かれて止まる。レオンは怒らない。怒らないことで、さらに正しく見える。


「 配給だ。君たちは耐えた。君たちは善い」


 村人は一斉に頭を下げた。


「 ありがとうございます」


 言葉が揃う。揃うことが大切だった。揃わない声は、悪意の兆候になる。


 祭りに似ていた。食料が並び、外から来た人間が中心に立ち、村人が笑いと涙で固まっている。違いは、楽器の音がないことだけだ。誰も踊らない。踊れない。


 レオンは広場の中央に立ち、剣の柄に手を置いた。まだ抜かない。抜かないことも演出だ。抜く前に、言葉が必要になる。


「 世界の均衡のために」


 神官が巻物を開き、聖典の一節を読み上げた。声はよく通る。よく通る声は、人を安心させる。


「 善を捧げよ。善は祝福となり、祝福は守りとなる。守りがあれば、魔王に刃が届く」


 村人はうなずいた。うなずくことに慣れている。慣れは思想の代わりになる。


 兵が二人、前に出た。兵は教会の私兵だ。鎧は簡素だが、動きは統一されている。兵の一人が村の青年の腕を掴み、広場の中央へ引き出した。


 青年は抵抗しない。抵抗しても勝てないからではない。抵抗することが善から外れる行為だと理解しているからだ。善から外れれば、村全体が疑われる。疑われれば、次に起きるものが変わる。村はそれを怖れていた。


 青年の目は乾いていた。涙は出ていない。青年は泣くことすら許されていない。泣けば、儀式に水を差す。水を差すことは悪意と受け取られる。


 レオンは青年の前に立った。穏やかな顔で、青年の目を見た。


「 名は」


 青年が答えた。小さな声だった。村人には聞こえない。レオンだけが聞こえればいい。


 レオンはうなずき、剣を抜いた。聖剣と呼ばれる類のものではない。だが柄には教会の刻印があり、刃はよく研がれている。研がれた刃は、苦しみを短くする。短い苦しみは慈悲と呼ばれる。


「 君の善意は、世界の均衡を支える」


 青年はうなずいた。うなずくことで、自分を善として終える。善として終えれば、死が無駄にならない。無駄にならないことが救いになる。この世界では。


 レオンの剣が振り下ろされた。


 首筋に刃が入る位置が正確で、血は噴き上がらない。血は静かに流れ、草を濡らし、青年は膝をつき、そのまま倒れた。倒れる音は草が吸う。だから音は小さい。小さいから、なおさら現実が強くなる。


 光が舞った。


 金色の粒子が、青年の身体から立ち上がるように現れ、レオンの鎧へ吸い込まれていく。粒子は一瞬、光輪の形を描いた。次に消えた。光は美しい。美しいから、正しいと錯覚される。


 レオンの首筋に、細い光の刺青が増えた。祝福の痕だ。目を凝らさなくても見える。見えるから、信じられる。


 兵の一人が、息を吐いた。


「 おお」


 安堵だった。世界が予定通りに動いたという安堵。誰かが死に、誰かが強くなり、魔王が遠のき、同時に近づく。その繰り返しが、世界の均衡と呼ばれていた。


 レオンは剣を拭わない。拭わないことで、仕事の連続性が保たれる。連続しているものは制度になる。


 次の者が引き出された。老人だった。老人は足が悪い。兵に支えられて出てくる。老人の顔には、諦めがある。諦めは善の一部だ。


 村長が前に出た。村長は老人の肩に触れ、静かに首を振った。代わりに自分が出るという意思表示だった。老人は目を閉じた。目を閉じるのは感謝にも見える。感謝に見えるものは正義に利用される。


 村長がレオンの前に進み出た。


「 勇者さま」


「 何だ」


「 どうか、子どもだけは」


 村長の声は震えていない。震えさせない努力が見える。努力は美徳とされる。美徳は消費される。


 レオンは困った顔をした。困った顔は、良心が残っている証拠に見える。良心が残っているほど、正義は厄介になる。良心は制度を強化する。


「 分かっている」


 レオンは穏やかに言った。


「 だが未来のためだ。魔王を倒せば、もっと多くが救われる。君たちの村だけを特別扱いできない」


「 子どもは、まだ」


「 未来だ」


 レオンは断定した。断定は思考停止ではない。断定は責任の分配だ。断定すれば、疑う側が悪になる。疑う側が悪になれば、刃が通る。


 村長はもう一度だけ言った。


「 子どもだけは」


 レオンは首を横に振った。


「 均衡のためだ」


 その言葉で終わりだった。善悪の議論は発生しない。発生しないことが秩序だ。


 村の母親が、子どもを背に隠した。子どもは母の衣を掴む。掴む力が強い。力が強いほど、離れたときに痛みが残る。だが、痛みはこの世界では数にならない。数にならないものは記録されない。記録されないものは、存在しないものと扱われる。


 兵が次の者へ手を伸ばした。


 その瞬間、広場の端で、机が蹴られた。


 籠が倒れ、干し肉が土に落ちた。乾パンが割れ、粉が舞った。粉が舞うのは祭りのようだ。だが祭りの粉は甘い。これは苦い。


 兵が振り向いた。神官が眉をひそめた。村人が息を止めた。息を止めるのは、自分が音にならないためだ。音は責任の所在を作る。


 影が広場へ滑り込んだ。


 ボロ布の外套。フード。汚れた靴。名もなき剣。刃に装飾はない。持ち手に刻印もない。教会に登録されていない刃だ。


 男はレオンの前に立った。顔は影の中にある。目だけが動いている。目の動きは冷たい。冷たい目は、理屈に近い。


「 誰だ」


 レオンが問う。声は低く、落ち着いている。驚いていないふりが上手い。勇者は驚きを見せない。驚きは民衆の不安になる。


 男は答えない。答える必要がない。


 槍を持つ兵が一歩前に出た。槍の穂先が男の胸に向く。穂先は震えていない。震えないように訓練されている。


「 下がれ。ここは聖なる儀式の場だ」


 男は下がらない。男は槍の間合いに入った。


 槍が突き出された。男は剣で槍を弾いた。弾き方が軽い。刃を立てない。槍を折らない。兵を殺さないための動きだった。


 次の瞬間、男の剣の柄が兵の顎に入った。硬い音。兵の膝が抜けた。兵は倒れ、槍を落とした。槍が草を押しつぶす音がする。兵は動かない。死んだかどうかは分からない。ただ動かない。


 もう一人の兵が剣を抜いた。男は兵の手首を斬った。刃は浅い。腱だけを切る。剣が落ちる。兵は叫ばない。叫ぶと、儀式の音が乱れる。乱れは罪になる。兵はそれを知っている。


 男はレオンを見る。レオンも男を見る。


 レオンは剣を構え直した。自分の役目を理解している顔だった。役目を理解している者は、躊躇しない。


「 邪魔をするな」


 レオンは言った。


「 君が何者でも、これは世界のためだ」


 男は短く返した。


「 世界は、いつも誰かのためだ」


 レオンが踏み込んだ。剣が振り下ろされる。男は受ける。金属の音が乾く。火花が散る。レオンの剣は重い。重いのは筋力ではない。正義の重さを背負っている。背負っているふりが上手い。


 男の剣は軽い。軽いのは弱いからではない。余計な意味が付いていない。意味がない刃は、意味のある刃に勝つことがある。


 男は半歩ずれて、レオンの刃を空に落とした。レオンの外套が風で揺れる。赤が揺れる。赤は血に似ている。似ているだけで、意味は変わらない。


 男は踏み込む。レオンの鎧の隙間を見ている。鎧は装飾が多い。装飾は隙を作る。隙は刃が通る場所になる。


 男の刃がレオンの脇腹へ入った。浅い。深く入れる必要はない。男は刃を引く。次の動きで、レオンの膝裏を斬る。レオンの重心が崩れた。崩れた瞬間、男の刃が喉の横に入る。


 レオンの目が見開かれた。


 声は出ない。喉の空気が漏れる音だけがする。レオンは倒れた。倒れる前に、片手を伸ばした。何かを掴もうとしたのか、誰かを止めようとしたのか、自分を支えようとしたのか。伸ばした手は草を掴み、草を引きちぎった。


 レオンは地面に倒れた。


 静かだった。


 火はまだ燃えていない。村人はまだ生きている。だが世界の予定表から、一つの項目が消えた。消えた項目は、書き換えの対象になる。書き換えは必ず起きる。


 レオンの身体から光は舞わなかった。


 金色の粒子は現れない。祝福の演出がない。レオンの首筋の光の刺青は残っている。残っているが増えない。増えないことが、異常として広がる。


 男の身体にも、何も起きない。


 光の粒子は男に吸い込まれない。祝福の痕も増えない。男はレベルアップしない。剣が強くなったようにも見えない。男はただ、勇者を殺しただけだ。


 神官が息を呑んだ。兵が一歩下がった。村人の誰かが短く嗚咽を漏らした。嗚咽は悲しみではない。理解が崩れる音だ。


「 ……嘘だろ」


 兵の一人が言った。声が震えている。震えは恐怖の証拠だ。恐怖は正義を呼ぶ。


「 勇者さまが……」


 神官が喉を鳴らし、声を絞った。


「 悪人だ。英雄殺しだ。祝福を拒む者だ」


 男は神官を見た。神官の白衣は汚れていない。汚れていない白は、血より残酷に見える。


「 勇者を殺しても、経験値は入らない」


 男は淡々と言った。説明ではない。確認だ。世界の仕様の確認。


 神官の顔が歪んだ。


「 それが何だ。だから何だ。勇者は必要だ。勇者が強くなれば、世界は救われる。君は均衡を壊した」


 男は短く言った。


「 均衡は、最初から壊れている」


 神官は叫びたかったが、叫ばなかった。叫ぶと自分が悪に見える。悪に見えれば、自分が処理される側になる。神官は制度の中で生き残る術を持っている。


 兵が動いた。槍を拾い、剣を構え、男を囲む。村人は動かない。動けないのではない。動かないことが善だと知っている。


 男は村人に目を向けた。村人は目を逸らす。逸らすことで、自分が関わっていないことにする。関わっていないことにすれば、後で責任を問われない。責任は死ぬ。


 男は言った。


「 逃げろ」


 村人の誰も動かない。


 男はもう一度言った。


「 逃げろ」


 村長が口を開いた。村長はまだ生きている。まだ斬られていない。斬られていないことが、逆にこの場の不自然さを作る。


「 ……逃げれば」


 村長はそこで言葉を切った。続けると説明になる。説明は罪になりうる。


 男は村長を見て言った。


「 逃げれば、何が起きる」


 村長は答えない。答えられないのではない。答えることが契約違反になる。契約違反は災厄を呼ぶ。災厄は帳尻合わせとして来る。


 男は視線を切り替えた。子どもが母の背に隠れている。母の指が子どもの肩に食い込んでいる。母は子どもを押し潰してでも隠す。隠しても救えないかもしれない。それでも隠す。隠すことが母の手順だ。


 兵が男に迫った。男は迎え撃ったが、殺さない。殺さないために手数が増える。手数が増えるほど、危険が増える。危険が増えるほど、世界は男を消したがる。


 槍が突き出される。男は槍の柄を叩き落とし、槍の軌道をずらす。槍の穂先が地面に刺さる。男は兵の肩を蹴り、兵を倒す。倒した兵の喉元に刃を当てない。喉元を避け、肋を斬る。浅い。息ができる程度に浅いが、動けない程度に深い。兵は呻く。呻きは仕事の音だ。


 剣を持つ兵が斬りかかる。男は受け、受け流し、柄でこめかみを打つ。兵が崩れ落ちる。倒れる前に兵は言った。


「 なぜ殺さない」


 男は答えない。答える必要がない。


 神官が聖印を掲げた。白い光が走る。目を刺す光だ。男は目を細めない。目で見ていない。光が走る前に神官の肩の動きで予測している。


 男は神官に近づき、聖印を持つ腕を斬った。腕が落ちる。聖印が地面に転がる。転がる白が、草の緑を汚す。


 神官は声を出した。痛みの声だ。男は神官の喉に刃を当てない。神官は勇者ではない。勇者ではない者を殺すと、男の中に別の計算が入り込む。計算が入れば、いずれ男は勇者と同じになる。


 男は神官の顎を打ち、神官を倒した。神官が地面に転がる。白衣が土で汚れる。白が汚れると、神官は弱く見える。弱く見えれば、神官は自分を守るためにさらに制度に寄りかかる。制度はそれを歓迎する。


 男は村人の方へ向き直った。村人はまだ動かない。動かない理由がある。理由はまだ言葉にならない。言葉にすれば、原因が確定する。原因が確定すれば、責任が生まれる。責任はこの世界では死を呼ぶ。


 男は短く言った。


「 生きたいなら動け」


 その言葉で、母親の一人が動いた。子どもを抱え、走る。走る方向は草原の外れ、低い丘の陰だ。丘の向こうに何があるかは分からない。分からないが、ここよりはましだと判断した。


 判断は伝染する。次の母親が動く。次の老人が杖を突く。怪我人が引きずられる。村長が最後に残り、広場の机を見た。机の上の食料が土にまみれている。村長は一瞬だけ目を閉じ、それから背を向けて走った。


 男は村人の背中を見送る。追いかけない。手助けもしない。手助けは善意になる。善意は資源になる。資源になった善意は、いつか帳簿に載る。


 兵の一人が、這いながら男に剣を伸ばした。男はその剣を足で踏み、折った。折れた金属の音が短く鳴る。


 男はレオンの死体に近づいた。レオンの目は開いていた。目は空を見ている。空は青い。青い空は無関係に存在する。無関係なものは残酷だ。


 レオンの首筋の祝福の痕が光っていた。薄く、しかし確かに光っている。光は昼でも見える。夜ならもっと見えるだろう。痕が増えるほど英雄扱いされる。英雄扱いされるほど、痕は増える。増えた痕は消えない。消えないものは罪に似ている。


 男はレオンの外套を探り、内側の縫い目から紙片を抜き取った。薄い羊皮紙。教会の刻印。番号。地名。日程。書かれている内容は短い。短いほど命令は強い。


 そこには次の訪問予定の村が記されていた。村の名は、男にも馴染みがある。ここから半日ほどの距離だ。村の規模はここより少し大きい。善人の数も多い。


 男は羊皮紙を破った。破るのは遅延のためではない。遅延しても予定は更新される。更新の際に、誰かが焦る。焦りは判断を乱す。判断が乱れれば、救える可能性が一瞬だけ生まれる。


 男は羊皮紙の破片を草に捨てた。破片は風で飛び、どこかに散った。散った情報は、拾い集めにくい。


 背後で呻きが聞こえた。倒れた兵の呻きだ。呻きは生存の音だ。生きている者は、いつかまた刃を握る。


 男は兵たちを見回した。動ける者は少ない。だが、動けない者もいずれ動く。男はその時間を村人に渡した。時間を渡すことが、今できる唯一のことだ。


 男が歩き出したとき、草むらから小さな足音が追ってきた。


 子どもが一人、戻ってきていた。母の手をほどいて走ってきたのだろう。子どもの頬は汚れ、目は乾いている。泣いていない。泣くと世界に吸い取られる何かを、子どもも本能で知っている。


「 ねえ」


 男は止まった。


 子どもはレオンの死体を見た。次に、倒れた兵を見た。最後に男を見た。視線が揺れない。揺れない子どもは危険だ。揺れないまま育てば、制度にとって扱いづらい。


「 英雄さま?」


 子どもはそう言った。疑問ではなく確認だった。確認は世界に対して行うものだ。


 男は短く答えた。


「 違う」


 子どもは眉をひそめた。


「 じゃあ、悪い人?」


 男は頷いた。


「 悪い」


 子どもは言い直した。


「 悪いのに、助けたの?」


 男は子どもを見た。見た上で、答えを選んだ。答えは慰めではない。分類だ。


「 助けていない。順番を変えただけだ」


 子どもは理解しない。理解できない。理解できないことは残る。残ったものが、後で世界を変えることがある。


 子どもが一歩近づいた。男の剣を見た。剣に名前はない。名のないものは、人の心に引っかかりにくい。引っかかりにくいものは忘れられる。忘れられることは、生存に向く。


「 じゃあ、なんで勇者さまを殺したの」


 男は答えた。


「 あいつは善人を殺す」


 子どもは首を傾げた。


「 善人を殺すと、強くなるんでしょ」


 男は言った。


「 そうだ」


「 強くなったら、魔王を倒せるんでしょ」


「 そう言われている」


 子どもは少しだけ声を落とした。


「 じゃあ、殺させたほうがいいんじゃないの」


 子どもは賢い。賢さは残酷な結論に直結しやすい。最大多数の最大幸福という言葉があるなら、子どもはすでにその入口に立っている。


 男は子どもに言った。


「 そう思うなら、お前はもう加害側だ」


 子どもは息を止めた。言葉の意味が分からなくても、冷たさは分かる。冷たさは理解より先に刺さる。


 男は続けた。


「 勇者が強くなるために、お前が死ねるか」


 子どもは答えない。答えられない。答えれば、その答えに沿って世界が動く。世界は答えを利用する。


 男は言った。


「 お前が死ねないなら、誰かが死ぬ。誰かが死ぬなら、次はお前だ」


 子どもは唇を噛んだ。噛むのは泣かないためだ。泣けば、弱さが形になる。形になった弱さは、制度に最も好まれる。


 遠くで女の声がした。子どもの名を呼んでいる。子どもは振り返る。母の声だ。母の声は制度に従う声ではない。生存の声だ。


 子どもは走り出し、途中で一度だけ振り返った。


「 ねえ」


 男は返事をしない。


「 おじさんの名前は」


 男は短く言った。


「 いらない」


 名前は人を物語にする。物語は英雄を生む。英雄は制度に回収される。回収されるものになれば、男は終わる。


 子どもは走って消えた。


 男は再び歩き出した。草原の外れへ。丘の向こうへ。村人が逃げた方向と同じではない。男は追っていない。追えば、守ることになる。守れば、帳簿が動く。


 背後で、誰かが咳き込んだ。倒れた兵の咳だ。血を飲んだのだろう。血を飲むと咳が出る。咳は生存の証拠だ。


 男は振り返らない。


 この世界のルールは単純だ。善人を殺せばレベルが上がる。悪人を殺しても何も得られない。魔物を倒しても得られない。盗賊を斬っても得られない。得られないことは、仕事になりにくい。仕事にならないことは、正義になりにくい。


 だから勇者は善人を殺す。勇者は正しい顔でそれをする。正しい顔は制度の顔だ。制度は個人の良心より強い。


 男は勇者を殺す。殺しても光は出ない。光が出ない者は英雄になれない。英雄になれない者は記録されない。記録されない者は、どこにも居ないことになる。


 居ないことになるなら、やりやすい。居ない者は批判されにくい。居ない者は祭りにされにくい。居ない者は、ただの事故として処理される。


 丘の影に入ると、風が少し弱まった。男はそこで一度だけ足を止め、地面の草を指でちぎった。草は柔らかく、すぐに千切れた。千切れるものは、簡単に数にされる。数にされるものは、簡単に消費される。


 男は草を捨て、歩き続けた。


 少し先に、別の村がある。レオンの羊皮紙に書かれていた村だ。そこにも善人がいる。そこにも子どもがいる。そこにも村長がいる。そこにも「子どもだけは」と言う者がいる。そこにも「未来のためだ」と答える者がいる。


 予定表は書き換えられる。だが、書き換えの速度は遅い。遅いなら、その隙に刃を入れる。


 遠くで、馬の音がした。追撃が始まったのだろう。追撃は早い。世界は自分の均衡が揺れることを嫌う。揺れを見つけたら、すぐに固定し直す。


 男は歩幅を変えない。焦りは刃を狂わせる。刃が狂えば、善人が死ぬ。善人が死ねば勇者が強くなる。勇者が強くなれば、次の善人が死ぬ。


 循環は美しい。美しい循環は疑われにくい。疑われにくいものが、いちばん多くを殺す。


 男は、その循環の外側に立っている。


 外側に立つために、男は悪人を選んだ。悪人であることは、自己評価ではない。役割だ。役割を果たす者は、感情を飾らない。飾れば、制度に取り込まれる。


 丘の向こうで、白い旗がまた見えた。


 別の一行か。別の勇者か。あるいは、レオンの名を引き継ぐ次の象徴か。名前は引き継がれる。象徴は替えが効く。替えが効くものが制度だ。


 男は剣の柄に手を置いた。


 次の仕事が始まる。


 善人を殺せ。それが世界を救う唯一の方法だ。誰かがそう言う。誰かが信じる。信じた者が剣を振る。剣を振った者が光る。光った者が英雄になる。


 男はその英雄を殺す。殺しても光らない。光らないまま、次へ行く。


 背中に、子どもの視線が刺さった気がした。刺さっただけだ。振り返らない。刺さった視線も、いつか帳簿にされる。


 男はただ歩いた。


 この世界で、善人を殺さずに生きる方法は少ない。少ない方法のひとつが、勇者を殺すことだ。矛盾している。矛盾していることが、この世界の正しさだった。


 丘を越えると、草原の先に煙が見えた。


 まだ燃えていない。焚き火の煙だ。村が朝の飯を炊いている煙だ。平凡な煙だ。平凡な煙の下で、平凡な善が育っている。


 男は、その平凡に刃を向ける者を狩るために、歩みを止めなかった。

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