第61話:泥濘の死線
「構えろ――いや、無理だ! 走れ!!」
リュウイチの、これまでに聞いたこともない怒号が霧を切り裂いた。
その言葉が終わるよりも早く、全員が弾かれたように前方へと地を蹴っていた。
背後からは、地鳴りのような咆哮とともに、山のごとき巨大な質量が泥を爆発させながら猛然と迫ってくる。
真っ白い闇と、足元をすくう底なしの泥濘が、必死に逃げる一行の行く手を容赦なく阻んだ。
「うおあぁ!?」
焦りと恐怖で足元がおろそかになったテツが、深くぬかるんだ泥に足を取られ、派手に転倒した。
その刹那、霧を引き裂いて、山のような漆黒の影から放たれた一撃が、テツの脳天めがけて猛然と振り下ろされる。
「テツ!!」
間一髪、レイジが泥まみれのテツの襟首を掴み、狂ったような力で強引に引き剥がした。
直後、ドォン!! と鼓膜を震わせる重低音が響き渡り、さっきまでテツがいた場所の泥が、爆風に煽られたように大量に抉れ飛ぶ。
「ひ、うあ……っ」
「立て、走れ!」
レイジはテツの身体を抱え起こすようにして、再び泥を蹴った。
背後からは、泥を激しく跳ね上げる不気味な音が、凄まじい速度で距離を詰めてくる。
心臓が早鐘を打ち、肺が冷たい霧で焼き切れそうだ。
どれだけ走っても、足が泥に埋まり、引き離すどころかじわじわと間合いを潰されていく。
死が完全に背中に張り付いた、その時だった。
「――動くな! 泥に伏せて息を止めろ!」
霧のどこからか、低く、しかし驚くほどよく通る「誰かの声」が響いた。
(泥に伏せて、息を止める……!?)
この絶体絶命の状況で、走るのをやめて動きを止めるなど、自殺行為に等しい。
レイジたちは一瞬、激しい戸惑いに襲われ、互いに狂ったような目配せを交わした。
しかし、背後に迫る影の圧倒的な殺気と圧迫感に抗えず、一か八かの賭けに出るように、その奇妙な助言に従って泥濘の中へと同時に身を投げ出した。
冷たい泥が顔や身体を覆う。
全員が肺の空気をすべて吐き出し、限界まで息を止めた。
しん、と静まり返る湿地帯。
ズ、ズ、と重い地響きを立てて、巨大な黒い影がすぐ側まで迫ってくる。
すぐ目の前の泥を、影の足が踏みつける。
泥の匂いとは違う、腐臭のような、異様な気配が鼻先をかすめた。
誰も動かない。
指一本動かせない。
心臓の鼓動すら相手に聞こえるのではないかと、極限の恐怖が五感を締め上げる。
影は、獲物の気配を完全に見失ったように、霧の中でしばらく不気味にうごめいていた。
やがて、完全に気配が消えたと判断したのか、諦めたようにズルズルと音を立てて、霧の奥へと去っていった。
どれだけの時間が経っただろうか。
肺が限界を迎え、泥の中から顔を上げて荒い息を吐き出した一行の前に、ゆらりと人影が現れた。
「……もう大丈夫だ。ついてこい」
霧の向こうから現れた何者かは、一言だけ言うと、息も絶え絶えのレイジたちを引き連れだした。
彼の案内で、深い霧と底なしの泥に隠された、未知なる「里」へと、一行は命からがら辿り着くのだった。




