第60話:濁音の輪郭
「おいテツ、お前また足を動かしたろ。わざとやってんな?」
緊張の糸が切れたせいで、テツの肩を小突くドウラの声はやけに大きく霧に響いた。
「動かしてねぇって! つーか、今の音は俺の後ろから聞こえたぞ。なぁゼロ、お前の槍が泥に当たったんだろ?」
「私は微動だにしていない。先ほどの足音が、まだ霧の奥で反響しているだけだろう」
「なんだよ、紛らわしい自然現象だな」とテツが肩をすくめて息を吐き出す。
釣られるようにして、俺たちの口元にも、緊張が緩んだ笑みが浮かんでいた。
張り詰めていた死線から生還したような安心感が、一気に全体に広がっていく。
誰もが、完全に背中を向けた。
「よし、じゃあ先を急ぐか。このままだと本当に日が暮れちまう」
リュウイチが苦笑混じりにそう言って、再び足を前に進めようとした、その瞬間だった。
――ビチャリ。
俺の耳が、かすかな、けれど奇妙な音を拾った。
底なしの泥のさらに奥底を、何か凄まじい質量が深く踏み潰したような、湿った濁音。
「……なぁ、今の」
レイジの声が、場違いなほど低く、掠れて漏れた。
「何言ってんだレイジ、また残響のやつだろ? 気にしすぎだって。それより早く行かねぇと、リュウイチに置いてかれるz――」
――グルォォォォオオオオオオオオッ!!!
テツの言葉を強引にかき消して、鼓膜を直接引き裂くような凄まじい雄叫びが轟いた。
「生物」が発したとは思えない、地鳴りを伴う爆音。
霧の濃淡の悪戯なんかじゃない。
レイジ達のどの影よりも遥かに巨大な、山のようなもう一つの黒い輪郭が、いつの間にか音もなくそこに重なっていた。
霧の向こうにそびえ立つ、異常に肉厚で巨大な体格。
白濁した世界の奥から、俺たちの身体を直接突き刺すような、射殺すような鋭い眼光がぎらりと光った気がした。
肌が、細胞が、本能が、瞬時に理解する。
これは錯覚なんかじゃない。
まやかしでもない。
全身の血が凍りつくような、死が迫りくるような重圧が、濁流となって俺たちに押し寄せていた。
深い霧に姿を隠したまま、その巨大な影の質量が、雄叫びとともにこちらへ向かって一気に殺到する。
「構えろ――いや、無理だ! 走れ!!」
リュウイチの、これまでに聞いたこともない悲鳴のような怒号が、霧を切り裂いた。




