第53話:泥濘の墓標
「……じいさんの言った通りだ。一歩ごとに、命を削り取られる感覚がするぜ」
リュウイチが泥にまみれた右目を細め、細く息を吐きながら喉を鳴らした。
第5ポイント。
そこはモールにとって、かつて多くの先人たちを呑み込み、誰一人として生きて戻ったことのない「絶望の未開地」だった。
仲間たちが夜通し作り上げてくれた二重の革の脚絆と急造の防具が、主に足元を異界の鋭い棘から守ってはいる。
しかし、そんなちっぽけな人間の備えなど嘲笑うかのように、進めば進むほど湿地はその底知れない牙を剥いてきた。
最初は足首を浸す程度だった泥が、いつしか膝近くまで這い上がってくる。
へどろに腐りかけた無数の這い根が隠れる泥の底へ足を踏み出すたびに、グチャリ、ゴボリと、肉をすするような陰湿な音が湿地帯に響き渡った。
泥がブーツを掴んで離さない。
一歩を引き抜くたびに太ももの筋肉が引き裂かれるように悲鳴を上げ、体力がじわじわと、だが確実に削り取られていく。
まるで、底なしの闇から無数の死者の手が伸びてきて、自分たちを泥の底へ引き摺り込もうとしているかのような錯覚さえ覚える。
「……一応、帰りのために目印(足跡)は刻んどく。だが、過信はするなよ。この泥だ、いつ見失ってもおかしくねぇ」
リュウイチは表情を強張らせたまま、移動しながら手元の一本の低木にナイフで素早く鋭い傷を刻み、枝を不自然な角度に折り曲げた。
斥候として退路を確保するためのマークを残しながらも、その声に余裕は一切ない。
この湿地の恐ろしさを知っているからこその、冷徹な慎重さだった。
五人は、ひたすら湿地の奥へ、奥へと進む。
周囲の空気の密度が変わっていくのが分かった。
生温かい湿気がねっとりと肌にまとわりつき、陽の光は完全に遮断され、頭上を覆う巨大なシダ植物の葉が、まるで怪物の顎のように彼らを閉じ込めていく。
ここは、数千年間だれも触れていない、純粋な自然の「悪意」そのものが堆積した深淵だった。
「――おい、何か落ちてねぇか。あるいは、血の跡とか……」
テツが泥にまみれた視線を鋭く走らせ、息を荒くしながら呟く。
彼らの目的は、何者かに連れ去られたカイを連れ戻すこと。
生きている可能性を信じつつも、最悪、死体だけでも見つけるという悲痛な覚悟を全員が胸に秘めていた。
だからこそ、泥まみれになり、視線を這わせ、必死に「カイの痕跡」を探し求める。
しかし、その過酷な泥の深淵で彼らの五感に触れたのは、カイのものとは全く異なる、人為的なのか自然の造形なのかも分からない「奇妙な違和感」の数々だった。
這いつくばるようにして泥を掻き分けたドウラの手に、ゴツリと硬いものが当たる。
「チッ、なんだ……?」
引き上げてみれば、それは長年の泥に晒され、まるで人間の指の骨のようにも見える、ひどく歪な形に腐りかけた木の根の破片だった。
ゾッとしてすぐに投げ捨てるが、ただの自然物なのか、本当に過去の犠牲者の骨なのか判別がつかない。
さらに数メートル進むと、俺の視界の隅、立ち枯れた幹の裂け目に、何かがこびりついているのが見えた。
何かの獣の毛皮のようだが、よく見ると丁寧に泥で編み込まれた布の端切れのようにも見える、ボロボロの繊維の塊。
強風で植物が絡まっただけかもしれないし、誰かの衣服の成れの果てかもしれない。
確かなことは何一つ分からず、曖昧な不気味さだけが、じわじわと俺たちの神経をすり減らしていく。
恐怖がないわけがない。
ドウラもテツも、いつもより武器を握る手が白くなるほど強張り、全員の呼吸が浅い。
それでも、誰一人として足を止めようとはしなかった。
今度こそ、カイを見捨てるわけにはいかない――その勇気と執念だけが、バラバラになりそうな五人の足を一歩前へと動かしていた。
だが、未開の地は、どこまでも静寂のまま俺たちを拒絶する。
風の音も、土が崩れる音もない。立ち枯れた巨樹の群れが、まるで巨大な墓標のように、ただ黙って俺たちを見下ろしていた。
――その時だった。
ずぶずぶと足を押し込んでいた泥の底から、ゴボゴボリ、と、今までとは明らかに違う大きな気泡が不気味に湧き上がった。
「……っ!? 全員、止まれ!」
先頭を行くゼロの鋭い警告の声が、重苦しい空気を切り裂く。
泥の表面が、まるで生き物のように奇妙に波打ち始めた。




