第52話:風の誘い
庵の中は、鼻を突くような野草の香りと、微かな土の匂いに満ちていた。
師匠は手際よくカイの焼けた右腕に緑色の塗り薬を施し、手慣れた手つきで布を巻いていく。
「……ふぅ。これで少しは熱も引くだろう」
処置を終えた師匠は、立ち上がると窓の外を流れる霧に目を向けた。
隣では、エリスが先ほどまでの蒼白な顔を無理に整え、小さく息を吐いている。
だがカイは、彼女が自分を癒やすためにどれほど摩耗したかに、まだ気づいていなかった。
「さて、ガキ。……カイと言ったな。手当てを終えて早々だが、お前、ここで儂の下で『異能』の使い方を修行する気はないか?」
唐突な提案に、カイは目を丸くした。
「修行……? 悪いけど、そんな暇はない。俺はモールに帰らなくてはならないし、里の川の汚染だって一刻を争うんだろ」
渋るカイの言葉を遮るように、師匠が音もなく右手をかざした。
刹那、庵の中を一筋の冷気が駆け抜けけた。
それは精密に制御された「刃」のような氷の塊で、カイの鼻先をかすめ、背後の壁に掛かっていた分厚い布を一瞬で切り裂き凍りついた。
「っ……!」
「……これが儂の力。自然に流れる『冷』の理を、己の意思で御する力だ。……エリスもまたこの異能の扱い方を儂から教わった。教わるまでは、彼女も自分の力に翻弄されるばかりだったのよ」
師匠の言葉に、エリスもまた、控えめにだが確かな信頼を込めて頷いた。
カイは目の前の凍りついた布と、エリスの真剣な眼差しを交互に見つめ、唇を噛んだ。
「……わかった。修行は受ける。けど、そんなに長くはここにいられない」
「一週間だ。それ以上ここに留まる気はない。この異能をまともに扱えるようにならなくても、帰るすべを探す。……それでいいか」
修行を渋っていたカイの妥協案に、師匠は細い目をさらに細め
「ふぉふぉふぉ、面白い。その条件、飲んでやろうぞ。短い時間で何を掴めるか、貴様の器を測らせてもらう」
と愉快そうに喉を鳴らした。
師匠は立ち上がると、庵の裏手にある、さらに霧の深い崖際へとカイを誘った。
そこには、周囲を遮るもののない、むき出しの岩場が突き出している。
「では、最初の課題じゃ。カイ、そこへ座れ」
「座る? 殴るんじゃないのか」
「お前のそれは単なる『暴発』じゃ。まずは自身の中に流れ、その右腕に集まる『何か』を感じ取ってみよ」
師匠が静かに告げる。
「お前の力は…そうじゃのぉ…『熱』じゃな。熱とは激しく震えるエネルギーじゃ。だが、それは本来ただ爆ぜるだけのものではない。……内に流れる『何か』を集め、過不足なく『放出』する術を覚えねば、お前の身体はいずれ内側から焼き切れるぞ」
カイはしぶしぶ岩の上に胡坐をかいた。
目を閉じると、右腕の奥で燻る嫌な熱が、ドクンドクンと脈打っている。
(……自分の中に流れる何か、なんて言われても……。ただ、熱くてイライラするだけだろ……)
焦れば焦るほど、右腕の熱は高まっていく。
隣で見守るエリスの気配が、今はただ、静かなプレッシャーとなってカイに重くのしかかっていた。




