第50話:静かなる摩耗
ギルの工房を後にしたカイは、エリスの数歩後ろを歩いていた。
彼女の目的地については何も知らされていない。
「少し、会わせたい人がいます」とだけ告げられ、里の奥へと促されたのだ。
里の喧騒から離れ、少しずつ高度を上げていく木道を渡る。
その道中、一人の男が木柱にすがりつき、激しく胸を掻きむしりながら喘いでいるのが見えた。
「……っ」
エリスは迷うことなく男に駆け寄った。
「ひっ姫様…私は大丈夫で…」
彼女が仮面を外し、その白い手を男の胸元にかざすと、淡い光の粒子が立ち上る。
男の荒い呼吸が次第に静まり、苦痛に歪んでいた顔が解けていく。
「姫様ありがたく」
だが、カイは見逃さなかった。
癒やしを施すエリスの肩が微かに震え、彼女の頬から一筋の汗が滴り落ちたのを。
「……大丈夫か、エリス」
「……はい。少し、集中しただけですから」
エリスは立ち上がると、何事もなかったかのように微笑んで見せた。
その瞳の奥に宿る「諦め」に近い静かな覚悟を、カイはただ黙って受け止めるしかなかった。
彼女は自分の生命を、この毒に蝕まれた里の民のために、少しずつ削りながら分け与えているように見えた。
二人はさらに斜面を登り、里全体を見下ろせる、霧が少しだけ晴れた高台へと辿り着いた。
そこには、巨樹の根に守られるようにして佇む、古びた庵がある。
「師匠……。師匠、いらっしゃいますか」
エリスの声が霧に吸い込まれていく。
返事はない。
カイが周囲を見渡した、その刹那だった。
乳白色の世界が、突如として激しい突風に切り裂かれた。
「っ……!」
反射的に身構え、右腕に力を込めようとしたカイだったが、それよりも速く、背後に「気配」が滑り込んでいた。
「動くな。……何者だ、お前は」
低く、温度の低い声が鼓膜を震わせる。
同時に、カイの首筋にひやりとした鋭い感触が走った。
薄く研ぎ澄まされた刃が、寸分違わず頸動脈を捉えている。
(……速すぎる……!)
カイは冷や汗を流しながら、抵抗しようと指を動かす。
だが、背後の男から放たれる圧倒的な威圧感――積み上げられた「修羅場」の重さが、カイの生存本能を凍りつかせた。
実力差は歴然。
ここで動けば、文字通り首が飛ぶ。
「……カイ、だ。ギルの友のサイの孫で……モールから来た」
喉を鳴らすようにして、カイは素直に答えた。
刃の感触が、わずかに緩む。
「……ギルの友だと?」
ゆっくりと背後の影が前へ回り込む。
現れたのは、年齢を推し量ることすら拒絶するような、不思議な空気を纏った男だった。
長身で、すらりとしたしなやかな体躯。
糸のように細い目は、閉じられているのかと思うほどだが、その奥からはすべてを見透かすような鋭い光が漏れている。
そして、風になびく長い髪の隙間から覗く耳の先は、人間よりも少しだけ尖っていた。
「父様とうさまから、お話は伺っていませんか、師匠」
エリスが安堵したように歩み寄る。
男――師匠は、手にした刃を音もなく鞘に収め、細い目を開けることなくカイを正面から見据えた。
「話は聞いておる。……だが、これほどまでに『澱んだ熱』を内包したガキだとは聞いておらんぞ、エリス」
師匠の言葉に、エリスは痛む身体を隠すように、わずかに表情を強張らせた。




