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第94話:不安と希望の待ち人達

「もうあれから5日ね……大丈夫かしら……きっと大丈夫よ……」


開拓された「庭」の防壁の隙間から、夕闇に沈みゆく森の境界線を見つめ、マルタはぽつりと呟いた。


いつもなら張り裂けんばかりの怒号で作業班を引っ張る彼女の横顔に、一瞬だけ、一人の人間としての弱さが張り付く。


しかし彼女はすぐに大きく頭を振り、いつもの勝ち気な仮面を被り直した。


「……さぁ、突っ立ってないで手を動かしな! カイたちが帰ってきた時、ここが牙の遊び場になってたら格好がつかないだろ!」


マルタの指示に応えるように、開拓された庭には着々と不格好ながらも人類を守る為の「防壁」がその姿を現しつつあった。


この5日間、残された者たちは一心不乱にバリケードの強化を進めていた。


モール内から引き剥がしてきた鉄製の大型ラックや衣料品店の什器、さらには並大抵の力では動かないようなコンクリートの瓦礫が、隙間なく網の目のように噛み合わされ、完全に一体化している。


その前方、草原との境界線には、先端を鋭利に削り落とした鉄パイプが、逆茂木さかもぎのようにびっしりと外を向いて突き出している。


外敵を拒絶する檻のようでもあり、同時に彼らを裏切らない唯一の砦。


防衛線は間違いなく、この5日間で本物の「要塞」へと進化を遂げていた。


大人たちの門番は、そんなバリケードの隙間から、鉄槍を握りしめたまま無言で外を見つめていた。


かつて庭の開拓に命を懸けて挑んだ彼らベテランは、外の地獄の恐ろしさを、身を以て知っている。


若手のレイジやゼロが志願した時、本当は引き止めたい気持ちがなかったと言えば嘘になる。


だが、それを押し殺して送り出した。


だからこそ、今自分たちにできるのは、この完成しつつある防壁の要、裏口やシャッターのラインを一瞬の隙もなく死守することだけだった。


張り詰めた緊張感で、槍の柄を握る掌にはべっとりと重い汗が滲んでいる。



ーーーーーーー



「ミナ、ほれ、この本の絵を見てごらん。昔の世界には、こんなにたくさんの種類の蝶々がいたんだよ」


ロビーの静寂の中で、じいちゃんの穏やかな声が響く。


膝に古い本を広げ、車椅子の側で小さくなっているミナの頭を、節くれ立った手で優しく撫でた。


孫のカイが遭難したという凶報に、じいちゃんの胸は引き裂かれそうだった。


一歩間違えれば、取り乱して泣き叫びたいのは自分の方だ。


しかし、自分が崩れればこのモールは一気に絶望に呑まれる。


じいちゃんは毅然と、ただ優しく微笑み、ミナの、あるいは住民たちの心の防波堤であり続けようと己を律していた。


そのロビーの上階、かつてカイが外を見張るために立っていた吹き抜けのテラスに、タクトの姿があった。


手には、まだ少し大きすぎる木の棒を槍に見立てて握りしめている。


──よし、異常なし。


タクトは、かつてここで鋭い眼光を外に向けていたカイの姿を思い出しながら、その立ち居振る舞いを真似るように、背筋を伸ばしてじっと森の境界線を見つめた。


カイの真似をしていれば、自分も少しだけ強くなれたような気がする。


何より、こうして自分が上からの見張りを引き継いでいれば、カイがいつでも安心して帰ってこられるような気がしたのだ。


小さな胸に去来する不安を、憧れのヒーローのポーズを真似ながら必死に撥ね退けながら、タクトは夕闇の草原を凝視し続けていた。


そんな彼らの下にまで、そんな淡い希望と不安を香りで変えようと届いてくるのが厨房の熱気だった。


「手が遅い! ちんたらしとったら素材の旨味が壊れる!そんな手さばきで上手い飯が作れるか!外の奴らが必死に守りを作っとくれとる!儂らは飯で応えんでどうするッ!」


師匠の怒声が響く。


腹が減っては戦はできぬ。


そのことを身に沁みて知っている老齢は、どんな時も妥協を許さない姿勢を若造達に叩き込んでいた。


一見するといつも通りの苛烈さだった。


しかし、その怒声の裏にある焦りと祈りを、長年の弟子であるクマさんは痛いほど分かっていた。


師匠は、言葉ではなくその技術と手捌きで、不安に押し潰されない様にモールの人々を勇気づけているのだった。


「分かってるよ、師匠。……お前ら、これを飲んどけ。元気がでるぞ」


クマさんは真っ黒な金属バットを調理台の横に立てかけたまま、大鍋から特製の甘い野草スープを器に注ぎ、手伝いの住民や子供たちに手渡していく。


スープの甘さが、ピリピリと張り詰めたモールの毒気をほんの少しだけ抜いていく。


腹を満たすこと。


生きる気力を途絶えさせないこと。


それが、この巨漢の料理番が己に課した、この拠点を守るための戦いだった。


五日目の夜が、要塞化しつつあるモールをゆっくりと包み込んでいく。


それぞれの持ち場で、誰もが葛藤を抱え、それでも日常の牙城を崩さぬよう必死に踏ん張っている。 


すべては、あの森の向こうから、大切な仲間たちが無事に戻ってくるその時のために。

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