第95話:重き帰還との夜
「──おい。あれ……!」
ドウラが立ち上がり、指を差した。
その声の震えに、ゲン班の全員が弾かれたように顔を上げる。
木々の隙間、うっすらと漂う霧の向こうから、影が揺れていた。
しかし、その影の動きには、無事に任務を終えて戻ってきた者の躍動感は一切なかった。
一歩、また一歩と、まるで見えない泥濘に足を取られているかのような、地面を這いずる重い足取り。
現れたのは、リュウイチ班だった。
何より、彼らの纏う空気が、ゲン班が抱えていた肉体的な疲弊とはまったく質の異なる、致命的なまでの精神的「重さ」を孕んでいた。
「……すまない、ゲン、ジンの旦那。遅くなった……」
リュウイチが、乾ききった喉から搾り出すような声で言った。
いつもなら案内役として誰よりも冷静沈着な男の目がいま、見たこともない恐怖と困惑に激しく泳いでいる。
「リュウイチ、遅いぞ! 一体、何があったんだ!?」
ゲンが痛む脇腹を片手で押さえながら、思わず一歩前へ出た。
普段の理知的な響きは消え、焦燥に駆られた声が響く。
これほど腕の立つ連中が、タイムリミットを過ぎ、少し引き延ばした最後の猶予すらギリギリになるまで足止めを食らうなど、尋常な事態ではない。
ゲンはリュウイチの肩を掴もうとしたが、リュウイチはただ力なく首を振るだけだった。
その身体は微かに震えている。
「……悪い、まだ頭の整理ができてないんだ。何が起きたのか、俺の口からどう説明していいのかすら分からない。ただ……」
リュウイチは一度言葉を切り、おぞましい記憶を振り払うように強く目を瞑った。
そして、張り詰めた眼光でジンとゲンを見つめ直す。
「ただ、一つだけ確かなのは……これ以上ここにいたら危険だということだ。話は後だ、先に里に帰ろう。一刻も早く」
その切迫した表情と、背後に広がる暗い森の不気味な静寂に、ゲンもそれ以上言葉を重ねることはできなかった。
「……話は、里に戻ってからだ。今は一歩でも前へ進むぞ」
戦士長ジンが、低く重々しい声で一同を遮った。
その言葉に従い、両班は交わる。
ゼロは、リュウイチの後方から泥まみれで歩いてくる弟レイジの姿を見つけ、駆け寄ってその肩を掴んだ。
「レイジ、無事か」
「……兄貴。ああ、なんとかな」
短いやり取り。
しかし、レイジの目はこれまでに見たことがないほど険しく曇り、疲労はピークに達していた。
互いに負傷した身体を支え合い、悲鳴を上げる肉体にムチを打ちながら、彼らは重い足取りで「里」への帰路についた。
一歩歩くたびに、森の闇が彼らの背後を静かに飲み込んでいく。
──里への帰還。
しかし、ようやくたどり着いた安住の地で彼らを迎えたのは、安堵の溜息ではなく、凍りつくような緊迫感だった。
「これは……想像以上に事態は深刻だな」
里の頭や、留守を預かっていた防衛の者たちが、ボロボロになって帰還した精鋭たちの姿を見て息を呑む。
源流を脅かしていたあの大蛇の存在だけでも悪夢だというのに、それとは別に、リュウイチ班が持ち帰った目に見えない恐怖がそこにある。
「戦士長、すぐにでも状況の精査を。リュウイチ班に何があったのか、緊急の評議会を──」
詰め寄る戦士の言葉を、ジンは片手を挙げて遮った。
「いや、皆限界だ。この状態で無理に頭を動かせば、見誤る。これ以上の無理は全滅に繋がる」
ジンは一度、広場に集まった若者たちの憔悴しきった顔を見渡した。
「……今夜はいったん、しっかりと眠れ。話は明日だ。解散しろ」
戦士長の厳命により、その夜の緊急会議は差し止められた。
各自、あてがわれた簡素な寝床へと這うようにして転がり込む。
夜の闇が里を包み込む。
全身の筋肉が乳酸と疲労で焼き切れそうに熱く、泥のような睡眠の誘惑が全員を襲っていた。
静まり返った暗闇の中、時折風が建物を揺らすたびに、誰もがびくりと身体を強張らせ、槍の柄を探して手を伸ばした。
浅い眠りの中で、若者たちは幾度も悪夢にうなされ、心休まらぬ沈黙の夜がじわじわと更けていった。
翌朝。
太陽の光を遮るような、どんよりとした重い薄曇りの空が広がっていた。
里の広場に併設された即席の会議場には、早朝から刺すような緊張感が立ち込めている。
中央に据えられた焚き火が、パチパチと爆ぜて火の粉を散らす。
その音だけが、静寂を破る唯一の環境音だった。
じっと火を見つめる戦士長ジン。
その隣には、一晩明けても顔色の優れないゲン。
そして、その対面に座るリュウイチ、カイさらに若手ながら死闘を潜り抜けたゼロ、ドウラ、レイジ、テツたちが一堂に会していた。
「──よし、全員集まったな」
ジンが静かに焚き火の前で立ち上がり、一同を見渡した。
その眼光は、昨夜の疲労を心の奥底に押し殺し、里を守る戦士長としての冷徹な鋭さを完全に取り戻している。
「これより、源流調査および各ルートの報告、ならびに今後の生存戦略に関する会議を始める」
ジンの声が、会議場の冷えた空気を震わせる。
「……リュウイチ。まずはそっちから聞かせてもらおうか。昨日、お前たちの身に、一体何が起きた」
リュウイチが、意を決したように静かに顔を上げた。
会議場にいる全員の視線が、彼の一挙手一投足に集中する。
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