第8話 二件目
AUX-17が、一件だけに付いた参照なのか。それとも、ほかにも同じ例があるのか。
シンはリベラから、以前彼女が担当した相談案件の番号を教えてもらう。ただし見るのは、その人の現在ではなく、AXIAに残された当時の記録だけ。
そこでシンは、思いがけずユイが死ぬ前にELPISを訪れていたことを知る。
そして二件目の記録にも、同じ一行が見つかる。
二つの案件を、シンは紙に書き出していた。
端末の画面を二つ並べることもできた。けれど、似ているものを並べると、似ているところばかりが目に入る。違うところを見落とさないために、手で書く方がいいときがある。調査部門にいた頃に覚えたやり方だった。
左に、あの生活拠点の相談。四十代の男性。今の生活圏に残る案が第一推薦で、遠くの地方都市へ移る案が第二候補。本人は移転を考えて相談に来て、最後は残ることを選んだ。第二候補は、選ばれなかったのに高い優先度で残されていた。その欄に、名前のない参照が一つ。
右に、リベラから聞いた話。三十代の女性。今の生活圏に残る案が第一推薦で、遠くの町へ移る案が第二候補。本人は迷ったすえに、第二候補を選んだ。その後、以前の人間関係から見えにくくなった。
右側の欄は、半分以上が空白だった。
優先度も、内部評価も、何も分からない。書けるのは、リベラが語ったことだけだ。そして、語られたことと記録に残っていることは同じではない。二つの案件は、表の形がよく似ていた。残る案と、移る案。第一推薦と、第二候補。けれど、それだけなら、世の中の生活拠点の相談の多くが同じ形をしている。
似ている、というのは、まだ何も言っていないのと同じだった。
右の欄を埋める方法を、シンは一つずつ考えて、一つずつ消した。案件を横断して探す照会は止められている。条件を変えて同じことをするつもりはなかった。相談者の名前は知らない。知っていたとしても、それを手がかりに個人の記録を辿るのは、リベラが閉じた扉を、別の場所から開けることになる。
残ったのは、一つだけだった。
二度目に訪ねたとき、リベラは窓を拭いていた。
「また来たんだ」
振り返りもせずにそう言って、最後の一枚を拭き終えてから、雑巾を窓枠に掛けた。シンは前と同じ、扉に近い椅子を勧められた。
「相談? そうじゃない方?」
「頼みがあって来ました」
「聞くだけ聞く」
シンは言葉を選んだ。
「前に話してくれた相談者の、案件番号を知っていますか」
リベラの手が止まった。
「名前は聞きません。番号だけです。番号から開けるのは、当時の相談を要約した記録だけです。名前も連絡先も出ない。今どこに住んでいるのか、どう暮らしているのかにつながる情報も入っていない。番号から、今のその人を辿ることはできません」
リベラは黙って聞いていた。
「俺が見たいのは、その人のことじゃない。その人について、あのときこちら側が何を記録したかです」
リベラはしばらく黙っていた。壁の方を向き、掲示板に留められた紙の端を、指先で一枚ずつ揃えている。
「覚えてる」
やがて、そう言った。
「書き写したわけじゃない。何度も見たから、覚えちゃっただけ」
「教えてもらえますか」
「中身は、私には教えられないんでしょ」
「教えられません」
「だろうね」
リベラは振り向いた。
「番号は、あの人じゃない。あの人について、そっちが書いた記録の名前。今のあの人に届く道じゃないなら、そっちの人間がそっちの記録を見るのを、私が止める理由はない」
そこで一度言葉を切った。
「でも、もし何か分かって、それがあの人自身に関わることだったら。そのときは、あの人抜きで何かを決めないで」
「約束します」
シンが答えると、リベラは机の端から紙切れを一枚取り、数字を書いた。字は速く、迷いがなかった。
帰り際、リベラは棚から薄いファイルを一冊抜き出し、机の上で開いた。
「この前、書いてもらうの忘れてた。相談に来た人じゃなくて、外から話を聞きに来た人には、ここに書いてもらってる。日付と、名前と、来た目的」
相談者の記録とは別の、外部の来訪者のための受付票だった。役所の担当者や、よその団体の人間、話を聞きに来た誰か。そういう人がそう多く来る場所ではないのだろう。綴じられた紙は少なく、一枚の中に、かなり前の日付から最近の日付までが収まっていた。
シンはペンを取り、空いている行を探して視線を下ろした。
途中で、止まった。
上から四行目。
右上がりの字だった。名前の欄には、見間違えようのない名前。日付は、ユイが死ぬ少し前だった。来た目的の欄には、短く書いてある。
選んだあとの人の話が聞きたい
シンは、その一行を長いあいだ見ていた。
この前、自分がミオに尋ねたこととほとんど同じだった。
「どうしたの」
リベラが、シンの視線の先を覗き込んだ。名前の欄を見て、それからシンの顔を見た。
「知ってる人?」
「……ええ」
それ以上は言わなかった。リベラも、それ以上は訊かなかった。受付票の日付を指でなぞり、少し考える。
「この日に誰が当番だったかは、別の記録を見れば分かる。調べておく」
「お願いします」
シンは空いている行に自分の名前を書いた。来た目的の欄は、空けたままにした。
階段を下りながら、シンは紙切れの数字を一度だけ見て、上着の内ポケットにしまった。
ユイは、ここに来ていた。
誰と会ったのかは分からない。何を話したのかも分からない。この部屋で何かを得たのか、何も得られずに帰ったのかも分からない。分かっているのは、死ぬ少し前のユイが、VIAの記録の外にまで足を運び、選んだあとの人間のことを聞こうとしていた、ということだけだった。
ユイは何を知っていたのか、とシンはずっと考えてきた。
問いが、少しだけ形を変えた。
ユイは、どこまで辿っていたのか。
翌朝、シンは紙切れの番号をAXIAの過去案件の画面に入力した。
番号一つを指定して、一件の案件を開く。職員として普段から使っている、個別の参照だ。相談本文は、あの生活拠点の相談と同じく、今の区分では開けなかった。ダイジェストは開けた。名前も、連絡先もない。今どこでどう暮らしているのかにつながる情報も、ここには何も入っていない。残っているのは、当時の相談の形だけだった。
三十代の女性。相談区分、生活拠点と就業の選択。第一推薦、現在の生活圏に残る。第二候補、遠方の町へ移る。相談時の本人希望、移転を検討。最終選択、第二候補。
リベラが語った通りだった。シンは、そこまでを紙の右の欄に写した。空白が、少しずつ埋まっていく。
内部評価の欄を開いた。
第二候補は、第一推薦との優先差が小さい高優先の候補として保持されていた。住居費評価、通勤負荷評価、就業見通し評価。項目の名前がそのまま付いた参照が並び、その一番下に、見覚えのある一行があった。
補助評価参照 AUX-17
シンは、息を一つ吐いた。
それから、自分が何を見ているのかを、一つずつ確かめた。
確認できたこと。四十代の男性の案件と、三十代の女性の案件。どちらも第一推薦は残留で、第二候補は遠方への移転。どちらの第二候補も、表から見える理由だけでは説明しにくい高い優先度で保持されている。そして、どちらの第二候補の欄にも、同じ参照が付いている。
AUX-17は、一件だけに付いた偶然の一行ではなかった。
確認できていないこと。AUX-17が何を評価しているのか。それが第二候補の優先度を押し上げたのか、それとも別の理由で同じ欄に並んでいるだけなのか。ほかにも同じコードを持つ案件があるのか。男は第一推薦を選び、女性は第二候補を選んだ。結末が逆でも、同じ一行は付いている。それが何を意味するのかも、まだ言えない。
紙の上で、左右の欄がそろった。
二つの人生は、互いを知らない。住んでいた場所も、年齢も、仕事も違う。それでも、それぞれの選ばれた方と選ばれなかった方の裏側に、同じ一行があった。
シンは紙を折って、端末の横に置いた。
レグルに呼ばれたのは、その日の午後だった。
管理者の部屋は、いつ見ても物が少なかった。机の上には端末が一台と、角を揃えた書類が一束。レグルは椅子を勧め、シンが座るのを待ってから口を開いた。
「今朝、君が開いた案件について聞きたい」
シンは顔を上げた。
「担当外の過去案件の閲覧は、管理側から確認できる。少し前にも一件、同じ種類の案件を開いているな。どちらも君の担当ではないし、今の業務との関連も記録されていない」
責める口調ではなかった。事実を順に並べているだけの声だった。
「個別の参照としては、どちらも君の権限の内側だ。その点に問題はない」
レグルは一拍置いた。
「問題は、並べ方だ。担当でもない、関連業務もない過去案件を、一件開くのは確認で済む。同じ種類の案件を二件目まで開いたら、それは確認ではなく調査になる」
少し間があって、レグルはシンの表情を見た。言葉を置き直す。
「一件なら、気になったから見た、で説明がつく。二件目からは、何かを探している、になる」
「探しています」
シンは言った。
「そうだろうな」
レグルは頷いた。
「そして、調査はAXIAの業務じゃない。君はもう調査部門の人間ではない。相談記録は、相談者が自分の人生を決めるために預けたものだ。こちらの疑問を解くために預けたものじゃない。君が何を探しているにせよ、その過程で開かれる記録の一つひとつに、相談者がいる」
反論できる言葉を、シンはすぐには見つけられなかった。リベラの部屋で考えたことと、ほとんど同じだったからだ。
「この件は、これ以上追うな」
レグルは静かに言った。
「これは管理者としての指示だ。必要なら、正式な記録にも残す」
シンは少しのあいだ黙っていた。それから、言うつもりのなかったことを口にした。
「最初の一件は、ユイが生前に何度も見ていた案件です」
レグルは、すぐには答えなかった。
いつも答える前に置く数秒より、少しだけ長い沈黙だった。レグルの視線は、シンの顔から動かなかった。
「……なら、なおさらだ」
「君の個人的な理由で、他人の記録を開くことになる。それは、君がいちばん避けるべきことだろう」
それで、話は終わった。レグルは立ち上がり、扉を開けてシンを送り出した。
廊下に出てから、シンは自分がどこで引っかかっているのかを探した。
レグルの言ったことに、間違いはなかった。担当外の案件を二件開けば、それは調査になる。調査はAXIAの仕事ではない。相談記録の向こうには相談者がいる。どれも正しい。制止の理由としては、十分すぎるほどだった。
引っかかっていたのは、言われたことではなかった。
言われなかったことだった。
ユイがその案件を見ていた、とシンは言った。普通なら、訊き返すところだ。なぜそれを知っている。いつ見ていた。どうやって確かめた。レグルは、そのどれも訊かなかった。
レグルは、ユイがその案件を見ていたことに、一度も驚かなかった。
(第8話 了)
一件なら、偶然かもしれない。
二件目まで同じものが出れば、何かを探していることになる。
それはAUX-17だけではなかった。
シンがユイの名前を出した瞬間、レグルは問い返さなかった。
なぜユイがその案件を見ていたのか。いつ見ていたのか。どうやって知ったのか。
何も訊かず、ただ言った。
「なら、なおさらだ」
その反応だけが、説明の外に残った。
『MIRA』
進学、就職、居住地など、人生の大きな選択を支援する推薦システム。「第一推薦」「強く非推奨」「許容」「条件付き代替案」などの評価を示す。新しい情報が加わることで、推薦順位や条件が変わる場合がある。
『AXIA(人生選択調整部門)』
MIRAの推薦と本人の希望が大きく食い違った際の相談窓口。本人に代わって答えを決めるのではなく、本人の価値や事情をMIRAが評価できる形で正確に伝える。
『VIA』
職員が業務上の記録や評価情報を扱うシステム環境。利用できる情報や操作の範囲は、所属や業務上の権限によって異なる。
『BOUND(境界監査)』
VIA内で、職員の権限や操作範囲が制度上許される範囲にあるかを監査する部署。シンによるAUX-17の全案件横断照会を停止した。
『ELPIS』
MIRAの推薦とは違う選択をした人などの支援に関わる人々や活動。シンが訪れた場所では、住居、手続き、職業訓練など、選択後の生活を支える活動が行われている。
『内部評価』
MIRAが選択肢を評価する際に用いる内部情報。利用者向け説明には出ない参照や評価情報も含まれる。
『AUX-17』
内部評価に使われていた「補助評価参照」。詳細はシンの現在の参照範囲では確認できない。これまでに二件のAXIA案件で確認され、どちらも遠方への移転という第二候補に付いていた。二件とも第二候補は、第一推薦との差が小さい高優先候補として保持されている。
『二件のAXIA案件』
一件目は四十代男性の生活拠点の相談で、最終的に第一推薦の残留を選択。二件目はリベラが担当した三十代女性の相談で、第二候補の遠方への移転を選択。結末は異なるが、どちらの第二候補にもAUX-17が付いている。
『最終監査』
案件の確定に伴い、記録の保全や事後確認を行う処理。ユイの最終監査は死亡確認より三十四分前に始まっている。
『開始参照』
最終監査が何を根拠に開始されたのかを後から辿るための参照情報。ユイの記録では「詳細を表示できません」となっており、中身を確認できない。
『シンとミオ』
ともにAXIAで相談対応を担当。シンは以前、調査部門に所属。ミオとは当時から面識があった。
『レグル』
AXIAの管理者。担当外の過去案件を同じ目的で複数参照する行為を「確認ではなく調査」と判断し、シンにこれ以上追わないよう指示した。シンがユイの関与を明かしても、その経緯を問い返さなかった。
『リベラ』
元AXIA職員で、現在はELPISに関わっている。以前担当した相談者の案件番号を、現在の本人へつながる情報ではないことを確認したうえでシンに伝えた。
『ユイ』
シンが調査部門にいた頃の相棒。公式記録上の死因は「自殺」。死亡前にはAUX-17が含まれるAXIA案件を繰り返し参照し、ELPISに関わる場所にも「選んだあとの人の話が聞きたい」という目的で訪れていた。
『ヴェル』
記録や参照履歴を扱う技術部門の職員。シンが調査部門にいた頃から面識があり、システム仕様について相談できる相手。




